第二節 ― 冥祀僧エンジュ=クラモリ
白い面は、黒い低台の上で眠っていた。
眠っている、と言うには、あまりにも音が残っている。
とん。
箱の外へ出されてもなお、その足音は完全には消えなかった。面そのものが動くわけではない。面紐が跳ねるわけでも、白い頬が震えるわけでもない。
ただ、面の内側に残った何かが、遠い床を踏む。
そのたびに、イロハの指先は反射的に動きそうになった。
傷を探すために。
欠けた役を読むために。
少しでも戻せる線を探すために。
けれど、そのたびにエンジュ=クラモリの静かな声が、目に見えない刃のようにイロハの手を止めた。
「触れる前に、聞いてください」
イロハは、低台の向こうに座る冥祀僧を見た。
エンジュは、まだ冥導面を着けていない。面は彼の横に置かれ、白布に半ば包まれていた。
薄墨色の面だった。
目元は深く、口元は閉じ、頬には川を渡るような細い銀線が流れている。生者を飾るための面ではない。死者の役をほどき、向こう側へ渡すための面だと、見ただけでわかった。
エンジュ自身の顔は、穏やかだった。
年は、ロウセツよりはずっと若い。二十代の終わりか、三十を少し越えたころだろう。けれど、その目の奥には、もっと長く、もっと多くの別れを見てきた者の静けさがあった。
優しげなのに、近づきにくい。
冷たいのではない。
熱を上げないようにしている人なのだと、イロハは思った。
泣く者が泣きすぎて死者を引き戻さないように。
怒る者が怒りすぎて終わった役をもう一度働かせないように。
願う者が願いすぎて、面を死者の代わりにしないように。
エンジュは、感情に蓋をしているのではない。
感情が、死者の面に絡まらないようにしている。
「よく運んでくださいました」
エンジュは改めて、イロハたちへ深く礼をした。
その礼は、サヨへも、アヤメへも、セイランへも向いていた。だが、視線の中心はやはり、黒い低台の上の白い面だった。
人を見る前に、面を見る。
生者の事情より先に、終わった役の状態を確かめる。
それが、冥祀僧の作法なのかもしれなかった。
イロハは、低台の上の白面へ視線を落とす。
「この面は、白化面ですか」
もう一度、問うた。
答えは先ほど聞いた。
けれど、イロハは確かめずにはいられなかった。
白いから。
月痕のように見えるものがあるから。
まだ足音がするから。
これまでの事件と、どこかでつながっているのではないかと、どうしても思ってしまう。
エンジュは首を横に振った。
「いいえ。これは、終わった面です」
「終わった面」
「本来なら、焼いて送るはずの面です」
その言い方に、イロハの胸がちくりと痛んだ。
焼く。
面を焼く。
役を終えた面を灰にする。
面師としては、どうしても身構えてしまう言葉だった。
面を作るには、時間がかかる。
木を選び、削り、漆を重ね、紐を通し、持ち主の役に合わせて、幾度も調整する。
古くなれば直す。欠ければ継ぐ。色が落ちれば塗り直す。
イロハの手は、そう教えられてきた。
だから、焼くという言葉は、どうしても終わりすぎている。
救いを諦める言葉のように聞こえる。
エンジュは、イロハの表情を読んだのだろう。
「焼くことは、捨てることではありません」
静かに言った。
「役を終えた面を、役から解くことです」
イロハは、何も言えなかった。
エンジュは続ける。
「この国では、面は顔であり、役です。ならば、持ち主が死んだあとも、面には役が残ります。残ったままでは、死者は生前の役に呼ばれ続ける」
「呼ばれ続ける……」
「火事があれば、火留番として。祭礼があれば、神楽師として。家に困りごとがあれば、家長として。泣く者がいれば、母として。守ってほしい者がいれば、武士として」
エンジュの声は、低く静かだった。
「死んでもなお、役が呼ばれるのです」
サヨが、胸元に手を置いた。
面のない胸元。
「死者は、それに応えるのですか」
「死者本人が応えるとは限りません」
エンジュは答えた。
「多くの場合、応えるのは面です。面に残った役です。生者がその役を呼びすぎると、面だけが戻ろうとします」
とん。
低台の上の白面から、また足音がした。
まるで、エンジュの言葉を肯定するように。
イロハは、思わず身を乗り出した。
「でも、それなら」
言いかけて、止まる。
戻ろうとしているなら、戻してあげればいい。
そう言いそうになった。
その言葉が、喉元まで出てきた。
けれど、エンジュの目がそれを止めた。
責める目ではない。
ただ、イロハが何を言おうとしたのか、すでにわかっている目だった。
「面師イロハ」
「……はい」
「あなたは、直したい人ですね」
イロハは息を詰めた。
その言葉は、先ほども聞いた。
けれど、低台の上の《ヒドメ》を前にすると、意味が変わって聞こえた。
「壊れているなら」
イロハは、少し強く答えた。
「欠けているなら、直したいと思います。戻せるものなら、戻したいです」
「壊れていなくても、直そうとする人です」
エンジュは、同じ静けさで返した。
イロハの指が、膝の上で握られる。
「それは、悪いことですか」
「悪くはありません」
「なら」
「危ういことです」
その言葉は、黒い部屋の中へ落ちた。
アヤメが、わずかに目を細める。
セイランは筆を持っていない手で、仮記録帳の端を押さえた。記録したいのに、書く前に聞けと言われている。その葛藤が、顔に出ていた。
サヨは、イロハとエンジュを交互に見ている。
エンジュは、イロハを責めない。
だから、逃げ道がない。
「直したいという気持ちは、生者の側のものです」
エンジュは言った。
「それが、死者のためであるとは限りません」
「でも、面が鳴っています」
イロハは、低台の上の白面を見る。
「この面は、まだ何かを伝えようとしているんじゃないんですか」
「伝えようとしているかもしれません」
「なら、聞くべきです」
「はい。聞くべきです」
エンジュは頷いた。
「ですが、聞くことと戻すことは違います」
イロハは黙る。
「あなたは今、聞く前に戻すことを考えました」
図星だった。
イロハは唇を噛む。
エンジュの声は、変わらない。
「優しい手ほど、急ぎます。痛がっているように見えれば、すぐに塞ぎたくなる。欠けているように見えれば、すぐに埋めたくなる。鳴っていれば、すぐに応えたくなる」
彼は、低台の白面へ視線を落とした。
「けれど、死者の面にそれをすると、役を引き戻すことがある」
「……引き戻す」
「はい」
エンジュは、小刀へ手を伸ばした。
抜くのではない。ただ鞘の上から指を置く。
「終わった役を呼び戻すことは、死者をもう一度働かせることです」
イロハの胸が、きゅっと縮んだ。
働かせる。
その言葉はあまりにも現実的で、残酷だった。
死者を美しく飾る言葉ではない。
英霊として讃える言葉でもない。
ただ、もう働かなくていい者を、また働かせる。
それが、終わった役を戻すということ。
サヨが、静かに口を開いた。
「生きている者が、死者に役を求めるのですね」
エンジュはサヨを見た。
「そうです」
「それは、悪いことですか」
「悪いこととは言いません。生者は、死者を思うことで生きています。守ってくれた人を、守ってくれた役のまま覚えたい。導いてくれた人を、導き手のまま覚えたい。それは自然なことです」
「けれど」
「けれど、その思いが強すぎると、死者はいつまでも休めません」
サヨは、面棚の白布を見た。
そこに包まれている、数えきれないほどの終わった面たち。
「だから、ここでは送るのですね」
「はい」
エンジュは頷いた。
「死者を忘れるためではありません。死者を役から自由にするためです」
イロハは、膝の上の手を見つめた。
自分の手。
これまで、直すために使ってきた手。
欠けた面を支え、白化面の月痕を読み、仮札を置き、役の入口を繋ぎ止めてきた手。
その手が、ここでは危ういと言われている。
直せるからこそ、直してはいけない時がある。
その事実が、イロハの中でまだ形にならなかった。
「でも」
イロハは、顔を上げる。
「もし、死者本人が戻りたいと思っていたら?」
エンジュは、しばらく黙った。
それから、静かに問うた。
「どうやって、それを確かめますか」
イロハは答えられない。
「面が鳴るから?」
エンジュの声は、少しだけ厳しくなる。
「遺族が願うから?」
イロハは目を伏せる。
「あなたが、戻せると思うから?」
その問いで、イロハの胸の奥が、深く痛んだ。
誰が戻りたがっているのか。
面か。
死者か。
遺族か。
自分か。
前にミツの面を前にした時の問いが、別の形で戻ってくる。
私が置いた役は、本当にその人のものなのか。
今度は。
私が戻したい役は、本当に死者のものなのか。
エンジュは、イロハの沈黙を急かさなかった。
沈黙を急がせない人なのだ。
しばらくして、彼は穏やかに言った。
「面師イロハ。あなたの手は、生者を救うためには必要です」
イロハは顔を上げる。
「白化面を診たことも、仮置きをしたことも、無意味ではありません。あなたが繋いだから、舞えた者がいる。刀を抜けた者がいる。自分の一歩を知った方もいる」
サヨが、わずかにイロハを見る。
エンジュは続けた。
「ですが、死者の面に対しては、別の手つきが要ります」
「別の手つき」
「直す手ではなく、ほどく手です」
その言葉に、イロハは息を呑んだ。
ほどく。
壊すのではない。
捨てるのでもない。
戻すのでもない。
結ばれた役を、解く。
「冥祀僧は、面を壊すのですか」
セイランが、思わず口を挟んだ。
エンジュは首を横に振る。
「いいえ。壊しません。役を解きます。焼くのは、その後です」
「焼かない場合もあるのですか」
「あります」
「基準は」
セイランが反射的に聞く。
エンジュは少しだけ彼を見た。
「まず、聞きます」
セイランは言葉を止めた。
ヒヨリが袖の中で、紙の尾を小さく揺らす。
また同じ答え。
読む前に、聞く。
分類する前に、聞く。
記録する前に、聞く。
この場所では、すべてがそれから始まる。
サヨが、白い面を見つめた。
「この面の持ち主は、どのような方だったのですか」
エンジュは、低台の横に置かれた薄い木札を手に取った。
そこには簡潔に記されていた。
ソウマ=カガリ。
元・帝都火留番。
火留職面。
役終えの儀、未了。
冥返り、あり。
「火を消す者ではなく、火を留める者でした」
エンジュは言った。
「火をここから先へ通さない。家並みを守り、人を逃がし、火の境を作る役です」
イロハは、ハルマサを思い出した。
ここから先へ、月を通さない。
あの時、ハルマサは刀を抜いた。
斬るためではなく、通さないために。
この《ヒドメ》も同じだ。
火を倒すためではなく、火をここから先へ通さないための面。
そう思った瞬間、イロハの中で《ヒドメ》が生者の面として立ち上がりかけた。
火の前に立つ背中。
逃げる人々。
燃える屋根。
その前に踏み出す足音。
とん。
面が鳴る。
イロハは、また手を伸ばしそうになった。
エンジュが、静かに言う。
「今、その背中を美しいと思いましたね」
イロハの手が止まる。
「はい」
嘘はつけなかった。
「なら、なおさら気をつけてください」
エンジュの声が、低くなる。
「美しい役ほど、生者は戻したがります」
白い面は、低台の上で沈黙している。
けれど、その沈黙の奥に、まだ足音がある。
イロハは、自分が何を見ようとしていたのかに気づいた。
火留番の誇り。
守る背中。
最後まで役を果たした者の美しさ。
それを見てしまうと、戻したくなる。
もう一度、その人を役の中に立たせたくなる。
それは、遺族でなくても起こるのだ。
面師である自分にも。
サヨが、静かに言った。
「美しい役でも、終わらなければならないのですね」
エンジュは頷く。
「はい」
サヨは、少し悲しそうに白い面を見る。
「終わらせることは、冷たいことではないのですか」
「冷たく見えます」
エンジュは答えた。
「ですから、冥祀僧は嫌われることがあります」
その声には、かすかな苦みがあった。
初めて、エンジュの中に隠されていた感情が見えた気がした。
「戻してほしいと泣く人に、戻してはいけないと言う。もう一度だけ声を聞きたいと願う人に、声を呼べば役が縛られると言う。面を焼くなと叫ぶ人の前で、火を入れる」
彼は、冥導面へ視線を落とした。
「優しく見えない仕事です」
イロハは、エンジュを見つめた。
冷たい人だと思いかけていた。
けれど違う。
彼は、冷たくなければならない場所に立っているだけだ。
生者の涙に流されれば、死者が休めないから。
エンジュは顔を上げる。
「けれど、生きている者の涙で、死者の面を濡らしてはいけません」
その言葉は、部屋の奥へ深く沈んだ。
イロハは、白い面を見た。
戻したい。
その気持ちは、まだ消えない。
でも、戻していいのかは、もうわからなかった。
その時、外の方から足音が近づいてきた。
冥祀社の者ではない。
急ぐ足音。
戸口の向こうで、若い女の声がした。
「エンジュ様」
震える声だった。
「祖父の面を、今夜こそ戻していただけるのですか」
イロハは顔を上げる。
エンジュは、目を閉じるように一度だけ瞬きをした。
「遺族の方です」
戸が開く。
そこに立っていたのは、まだ若い娘だった。
火留番の家の者らしく、袖口に小さな火留紋が縫われている。目は赤く、けれど泣き崩れてはいない。ずっと泣くのを我慢してきた人の顔だった。
彼女は低台の白い面を見るなり、一歩踏み込んだ。
「お祖父様」
その呼びかけに、面の内側から、かすかな音がした。
とん。
イロハの胸が痛む。
エンジュは、静かにその娘を見た。
「ミオ=カガリさん」
娘は、イロハたちには目もくれず、白い面だけを見ていた。
「まだ鳴っているんです」
声が震える。
「やっぱり、お祖父様はまだ行きたがっているんです。火事場へ。まだ役が残っているんです」
エンジュは答えない。
ミオは、イロハへ目を向けた。
面師だと気づいたのだろう。
縋るような目だった。
「あなたが、面師イロハさんですか」
「はい」
「白化面を直した人でしょう。神楽師の舞も、武士の刀も、もう一度動かした人でしょう」
イロハは、返事に詰まる。
直したわけではない。
完全に戻したわけでもない。
でも、ミオにとっては同じなのだろう。
失われた役を、もう一度動かした人。
「お願いします」
ミオは、深く頭を下げた。
「祖父の面を、戻してください」
その言葉に、イロハの心が大きく揺れた。
戻してほしいと願う人がいる。
面は鳴っている。
役は、まだ何かを伝えようとしている。
なら。
なら、戻せるなら。
イロハの手が、また動きかける。
だが、その前に、エンジュの声が落ちた。
「その役は、もう終わっています」
ミオの顔が、はっきりと歪んだ。
「終わっていません」
静かな部屋の中で、初めて感情が強く響いた。
「終わっているなら、どうして鳴るんですか」
エンジュは答えない。
ミオは白い面を見つめる。
「祖父は、最後まで火消しでした。最後まで、火の中へ行ったんです。だから、まだ戻りたいんです」
サヨが、白い面を見る。
その瞳が、わずかに揺れた。
イロハは、その変化に気づいた。
サヨには、何かが見え始めている。
けれど、この節ではまだ言葉にならない。
ただ、冥祀社の静けさの中で、死者の役と生者の願いが、白い面の上に重なっていく。
エンジュは、ミオへ向き直った。
「戻したいのは、誰ですか」
ミオは眉を寄せる。
「祖父です」
「本当に、お祖父様ですか」
「何を言って」
「お祖父様が戻りたいのですか。それとも、あなたがもう一度、火留番だったお祖父様を見たいのですか」
ミオの頬が、白くなった。
その問いは、残酷だった。
けれど、必要な問いでもあった。
イロハは、何も言えなかった。
その問いは、ミオだけに向けられたものではない。
自分にも向けられている。
戻したいのは、誰か。
面か。
死者か。
遺族か。
それとも、直せると信じたい自分か。
低台の上で、《ヒドメ》が小さく鳴った。
とん。
その音は、さっきよりも遠かった。
まるで、火事場から聞こえる足音のように。




