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第一節 ― ミナ=クラの冥祀社

 黒い門をくぐった瞬間、音が遠ざかった。


 帝都カミザのざわめきも、ウズメの舞殿に残っていた鈴の余韻も、夕暮れの道を行き交う人々の声も、すべて一枚の薄布の向こうへ退いたようだった。


 ミナ=クラの冥祀社は、静かだった。


 ただ音がないのではない。


 音を、ひとつずつ終わらせている場所だった。


 石段は灰白。

 手すりは墨黒。

 境内の奥へ続く敷石には、薄紫の影が落ちている。


 ウズメの舞殿が朱と鈴と床板の場所なら、ここは灰と布と灯の場所だった。


 境内の左右には、小さな壺が整然と並んでいる。


 どれも同じ形ではない。

 丸いもの。細いもの。蓋に小さな紐がついたもの。子どもの手ほどの小さなもの。


 壺のひとつひとつには、焼かれた面の灰が納められているのだと、イロハは知っていた。


 役を終えた面。

 持ち主が亡くなった面。

 神前から退いた祈面。

 家を継がれず、役だけが残ってしまった古い生面。


 それらはここで焼かれ、灰となり、壺に納められる。


 面は顔であり、役であり、器である。


 ならば、その灰もまた、ただの灰ではない。


 誰かが世界の中で担っていたものの、最後の形だった。


 黒い灯籠には火が入っていた。


 けれど、その炎は高く燃えない。


 風がないのに、低く、低く揺れている。


 まるで、火であることを忘れないためだけに灯っているようだった。


 アヤメは、自然とサヨの半歩前へ出た。


 ここは敵地ではない。


 だが、白影宮とも、舞殿とも違う。生者の理屈だけで歩いてよい場所ではなかった。


 サヨは、境内に入ってからずっと言葉を発していない。


 彼女の目は、小壺の列、黒い灯籠、白布に包まれた面棚を順に追っていた。


 白影宮の空白とは違う。


 白影宮には、あるべき面がない空白があった。

 灰面長屋には、持つべき面を持てない欠落があった。

 ウズメの舞殿には、まだ始まっていない足音があった。


 けれど、ここには。


 終わったものを、終わったものとして置く静けさがあった。


 それは冷たいようで、どこか優しかった。


 終わったものを、無理に引き戻さないための優しさ。


 サヨは、ふと境内の奥の池に目を向けた。


 池には、蓋がされていた。


 黒い木蓋が、まるで水面を封じるようにぴたりと置かれている。隙間から水の匂いはする。だが、月も、空も、灯籠の火も映らない。


 サヨが小さく問う。


「水を、隠しているのですか」


 先を歩くエンジュ=クラモリが、静かに振り返った。


「はい」


「なぜ」


「死者の役が、月に映らないように」


 サヨは、その答えをすぐには飲み込めなかったようだった。


 イロハも、池の蓋を見る。


 これまで月は、あらゆるところへ映った。


 面箱の内側。

 鉄鉢の水。

 方位盤。

 鏡水。

 濁った水桶。


 そして映ったものは、ただの月ではなかった。


 喰われた役。

 隠された役。

 未在の役。

 映されることで、こちらへ戻ってくるもの。


 冥祀社では、その反射を恐れる。


 死者がもう一度、呼ばれないように。


 終わった役が、生者の未練で立ち上がらないように。


 イロハは、腕の中の冥箱を抱え直した。


 その時だった。


 とん。


 箱の内側から、また足音がした。


 今度は境内の静けさの中だったから、先ほどよりもはっきり聞こえた。


 とん。


 アヤメの手が刀へ近づく。


 セイランが息を呑み、仮記録帳へ視線を落とす。袖の中のヒヨリは、紙の尾だけを覗かせたまま動かない。


 サヨは冥箱を見た。


 音は、舞殿でユラが踏んだ一歩に似ていた。


 けれど、やはり違う。


 これは始まりではない。


 舞台へ上がる音ではなく、降りたはずの場所へ戻ろうとする音だった。


 エンジュは、驚かない。


 彼は冥箱の前へ戻ると、手を伸ばすでもなく、ただ箱へ向かって軽く頭を下げた。


「まだ、火の方角を覚えているのですね」


 イロハは顔を上げる。


「火の方角?」


「この面の役です」


 エンジュは、境内の奥にある建物へ歩き出した。


「こちらへ。面棚の前では開けられません。戻りたがる面を、他の終わった面のそばで目覚めさせるのはよくありません」


「目覚めるんですか」


 イロハが問うと、エンジュは振り向かずに答えた。


「目覚めるのは、面ではありません」


 灰白の石畳を踏む音だけが、低く響く。


「面に残った役です」


 イロハは、言葉を失った。


 面に残った役。


 それは、ずっとイロハが見てきたものでもある。


 ユラの舞面には、神を迎える沈黙の入口が喰われていた。

 ハルマサの戦面には、抜刀の理由へ入る入口が欠けていた。

 セイランの式面には、読む役が揺らいでいた。


 だが、それらはまだ生者の面だった。


 持ち主がいて、戻る身体があった。


 この冥箱の面には、もう持ち主がいない。


 それなのに、役だけが鳴っている。


 境内の奥には、長い庇を持つ建物があった。


 正殿ではない。


 面を納め、ほどき、送るための場所。


 戸口の前には、白布に包まれた面箱が棚に並んでいる。どの箱にも役名札はついていない。代わりに、小さな灰紐が結ばれていた。


 生前の役を示すためではなく、役を解いたあとであることを示す紐。


 サヨはその棚の前で足を止めた。


「ここにある面は、もう誰の役でもないのですか」


 エンジュは少し考えてから答えた。


「誰の役でもあった、面です」


 サヨが目を上げる。


「今は」


「今は、休んでいます」


 その答えに、サヨの表情がほんの少し変わった。


 終わった役は、消えるのではない。


 なかったことになるのでもない。


 休む。


 そういう扱い方が、この場所にはあるのだ。


 イロハは、冥箱を抱えたまま、面棚を見上げた。


 白布の下にある面たちは、すべてかつて誰かの顔だった。


 誰かの役だった。


 農家の面。

 香役の面。

 火留番の面。

 舞い終えた祈面。

 継ぐ者のいなかった家面。


 面師小路では、面は直されるものだった。


 白影宮では、面は待たれるものだった。


 仮面籍庁では、面は判定されるものだった。


 ウズメの舞殿では、面は一歩を残す器だった。


 ここでは。


 面は、休ませるものだった。


 エンジュは戸を開けた。


 中は薄暗かった。


 香の匂いはある。だが、白檀や沈香のように華やかではない。灰、乾いた木、古い布、わずかな火の匂い。


 中央には黒い低台が置かれている。


 その横に、黒い皿があった。


 水ではない。


 灰が薄く敷かれている。


 灰を映す皿。


 反射するものではなく、反射を受け止めて沈めるための器。


 エンジュは、低台の前に膝をついた。


「こちらへ」


 イロハは冥箱を置こうとして、手が止まった。


 箱の中から、また音がする。


 とん。


 先ほどよりも近い。


 まるで、黒い低台を見つけて、そこへ上がろうとしているようだった。


 イロハは思わず箱を抱え直す。


 エンジュが、その手を見た。


「怖いですか」


「……わかりません」


 イロハは正直に答えた。


「壊れている面なら、怖くても触れます。白化面でも、月痕でも、何を見ればいいか少しはわかる。でも、これは」


 言葉を探す。


「終わっているのに、動いている」


 エンジュは静かに頷いた。


「だから、急いで直してはいけません」


 イロハは唇を噛んだ。


「直せるかもしれないのに?」


「直せるからこそです」


 その言葉は、鋭くはなかった。


 けれど、イロハの胸を深く刺した。


 直せるからこそ、直してはいけない。


 面師にとって、それは残酷な言葉だった。


 エンジュは続ける。


「終わった役を呼び戻すことは、死者をもう一度働かせることです」


 サヨが小さく息を呑む。


 アヤメも眉を寄せた。


 エンジュの声は変わらない。


「生きている者は、死者の役を美しく覚えます。強かった人。優しかった人。守ってくれた人。最後まで働いた人。けれど、その記憶が強すぎると、死者はいつまでも役を脱げません」


「死者が、ですか」


 イロハが問う。


「いいえ」


 エンジュは首を横に振った。


「面が、です」


 低台の前に沈黙が落ちる。


 冥箱の中の足音も、しばらく止まった。


 エンジュは、イロハの腕の中の箱へ視線を落とす。


「面師イロハ。あなたは、まだ直す面と送る面を分けていない」


 イロハは、言い返そうとしてできなかった。


 直す面。

 送る面。


 そんなふうに考えたことが、あっただろうか。


 欠けていれば直す。

 白化していれば診る。

 役が揺らいでいれば、仮にでも繋ぐ。


 それが面師の仕事だと思っていた。


 けれど、ここでは違う。


 ここで急いで繋ぐことは、終わったものを縛ることになる。


 サヨは低台を見つめていた。


「終わったものを終わったものとして扱うことも、救いなのですね」


 エンジュは、サヨへ目を向けた。


 その目に、初めて少しだけ感情が動いた。


 驚きではない。


 この人は、それを言えるのか、という静かな確認。


「はい」


 エンジュは答えた。


「終わりを奪われることもまた、苦しみです」


 イロハは、冥箱をゆっくり低台へ置いた。


 箱が台に触れた瞬間、内側から小さな音がした。


 とん。


 それは、最後の確認のようだった。


 エンジュは冥鈴に触れたが、鳴らさなかった。


 音を出さない。


 まだ、この面がどんな音を持っているのか、聞く前だからだ。


「開けます」


 エンジュが言う。


 イロハは頷いた。


 アヤメはサヨの前に立ちすぎない位置へ移る。


 セイランは筆を構えたが、エンジュが静かに首を横に振った。


「今は、書かないでください」


 セイランの手が止まる。


「記録してはいけませんか」


「最初に記録すると、役がそちらへ寄ります」


 セイランは目を見開く。


 エンジュは穏やかに続けた。


「まず、聞きます。書くのは、そのあとです」


 ヒヨリが袖の中で小さく身じろぎした。


 読む前に、聞く。


 前にヒヨリが示した、セイランの役にも通じる言葉だった。


 セイランは、ゆっくり筆を下ろした。


「承知しました」


 エンジュは冥箱の黒紐をほどく。


 紐がほどける音は、やけに大きく聞こえた。


 蓋に手をかける。


 その瞬間、黒い灯籠の火が低く揺れた。


 池の蓋の向こうで、水がわずかに鳴った気がした。


 サヨが息を止める。


 イロハは、手のひらに汗が滲むのを感じた。


 蓋が開く。


 中に、白い面が眠っていた。


 白い。


 だが、白化面の白ではない。


 月に喰われた白ではなく、灰を被った白。


 深い煤朱だった名残が、頬の端にわずかに残っている。右頬には焦げ跡。額には火留番の役紋。目元は厳しく、口元は結ばれている。


 火を消す者の面ではない。


 火を止める者の面。


 火留職面ヒドメ


 エンジュは低く言った。


「ソウマ=カガリ。元・帝都火留番」


 その名が告げられた瞬間、面の内側で、かすかに足音がした。


 とん。


 イロハは、その音を聞いた。


 舞台ではない。


 火事場の床。


 崩れかけた梁。

 煙の向こう。

 誰かを呼ぶ足音。


 イロハは反射的に面へ手を伸ばしかけた。


 だが、エンジュの声がそれを止めた。


「深く読まないでください」


 イロハの指が宙で止まる。


「なぜですか」


「死者の役に、生者の面師が入りすぎてはいけません」


 エンジュは、静かに、けれど明確に言った。


「あなたが戻り道になってしまいます」


 イロハは、手を引いた。


 その胸の奥で、何かが重く鳴る。


 とん。


 冥箱の中の面が、また足音を鳴らした。


 それは、イロハを呼んでいるようにも聞こえた。


 直せ、と。


 戻せ、と。


 まだ終わっていない、と。


 けれど、エンジュは言った。


 これは、終わった面だと。


 イロハは初めて、自分の手を信じることが怖くなった。

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