序節 ― 鈴のない送り音
舞台に上がることを、始まりと呼ぶなら。
舞台を降りることもまた、ひとつの役である。
けれど、降りたはずの足が、なお床を踏む時。
それは舞か。
未練か。
それとも、誰かが終わりを見届けなかったために残った、名のない音か。
ウズメの舞殿を出た時、夕暮れはすでに帝都カミザの屋根を斜めに染めていた。
朱塗りの柱は背後へ遠ざかり、鈴棚の音も、御簾の揺れも、舞殿の奥で笑った気配も、少しずつ暮色の中へ沈んでいく。
けれど、イロハの腕の中には、舞殿とは違う静けさを持つ面箱が残っていた。
ミナ=クラの冥祀社から預けられた、古い白面。
箱は、舞殿の舞面を納めるものとは造りが違っていた。白木ではなく、灰を薄く刷り込んだような色の木でできている。角は黒い紐で結ばれ、蓋には小さな冥祀印が押されていた。
面箱ではない。
冥箱。
役を眠らせるためではなく、役を終わらせるための箱。
イロハは、その重さを両腕で受け止めていた。
重いわけではない。
むしろ、空のように軽い。
けれど、その軽さがかえって怖かった。
面が、もうほとんど何も持っていないような軽さ。
それでも、何かだけが最後まで残っているような重さ。
サヨは、イロハの隣を歩いていた。
公式の行列ではない。
皇女としての参詣でもない。
白影宮の名を伏せた、あくまで面師イロハの調査への同行。
けれど、サヨの横顔は、舞殿へ向かった朝よりもずっと静かだった。
彼女は今日、稽古板の端へ一歩を置いた。
舞ではなかった。
神楽でもなかった。
だが、待つ場所から見届けられる場所へ出る一歩だった。
面がない皇女は、それでも一歩を出せる。
その事実は、まだサヨの胸の奥で、淡く鳴っているようだった。
アヤメは、その少し後ろを歩いている。
周囲への警戒を解かず、サヨから離れすぎず、近づきすぎず。
舞殿でサヨを止めなかったことを、まだ自分の中で咀嚼しているのだろう。横顔には、守る者としての緊張が残っていた。
セイランも同行していた。
彼は歩きながら、小さな仮記録帳を胸に抱えている。紙狐ヒヨリは袖の奥へ引っ込んだまま、時折、紙の耳だけを覗かせた。
ウズメの舞殿で起きたこと。
白札の外側で鳴った鈴。
サヨの一歩。
白い客席の鏡ノ客。
どれも正式記録にしにくいものばかりだった。
だが、セイランはもう、それを消すつもりはないのだろう。
読めないものを、読めないまま残す。
それもまた、今の彼の役になりつつあった。
帝都の道は、舞殿を離れるにつれて少しずつ静かになっていく。
朱塗りの鳥居が遠ざかり、香と鈴の気配が薄れる。代わりに、灰の匂いが風に混じり始めた。
ミナ=クラの冥祀社は、帝都カミザの中心から少し外れた、古い墓地と役納め所の間にある。
死者の名を祀る場所ではない。
死者が持っていた面を納め、終えた役をほどき、戻らない名を静かに送る場所。
イロハは、その場所へ向かうのが初めてではなかった。
面師小路の仕事でも、役を終えた面を納めに行くことはある。
古い職面。
使い終えた祈面。
亡くなった者の生面。
持ち主のいなくなった面箱。
けれど、今日の冥箱は違う。
この面は、まだ何かを鳴らしている。
とん。
イロハは足を止めた。
サヨも振り返る。
「今の音は」
「箱の中からです」
イロハは冥箱を見下ろした。
黒紐は結ばれている。蓋も閉じている。面が動く隙間などない。
それでも、確かに音がした。
とん。
板を踏むような音。
ユラが稽古板に置いた一歩に似ていた。
だが、違う。
あの音は、始まりだった。
不格好で、かすれていて、それでも前へ出る音だった。
今の音は、重い。
前へ出るというより、戻ろうとしている。
もう降りたはずの舞台へ、もう一度足をかけようとしている。
そんな音だった。
アヤメが目を細める。
「開けますか」
イロハは首を横に振った。
「ここでは開けないほうがいいと思います」
なぜ、とは言えなかった。
ただ、開けた瞬間、この面がどこかへ向かってしまう気がした。
火の方へ。
舞台の方へ。
あるいは、もう戻れないどこかへ。
サヨは、冥箱をじっと見ていた。
「始まりの足音では、ありませんね」
イロハは頷く。
「はい」
「でも、終わってもいない」
「……そう見えます」
サヨの表情が少し曇る。
舞殿でサヨは知った。
面がなくても一歩は出せる。
面は、その一歩を失わせないためにあるのかもしれない。
だが、この冥箱の音は、同じ問いの反対側にある。
失われないことは、いつも救いなのか。
残り続けることは、本当に正しいのか。
イロハは、冥箱を抱く腕に力を込めた。
自分の答えが、もう試されている。
面は、一歩を失わせないための器。
そう思った。
けれど、すでに終わった一歩まで、面の中に残し続けることは。
それは救いなのだろうか。
セイランが低い声で言った。
「冥祀社の面が鳴るというのは、通常のことではありません」
「記録にありますか」
「あります。ですが、良い記録ではありません」
イロハはセイランを見た。
セイランは仮記録帳を少し強く握っていた。
「終えた役が、面の中で動き続ける現象です。正式には、冥返りと呼ばれることがあります」
「冥返り」
「死者本人が戻るわけではありません。多くの場合、役だけが戻ります」
役だけが戻る。
その言葉に、イロハの背筋が冷えた。
人がいないのに、役だけが残る。
火消しがいないのに、火消しの役だけが火事場へ向かう。
舞い手がいないのに、舞の足音だけが舞台へ戻る。
持ち主の顔がないのに、面だけが役を続けようとする。
それは、白化面とは違う怖さだった。
月に喰われて欠けるのではない。
終わったはずのものが、終われずに残る。
サヨがぽつりと言った。
「役にも、終わりが必要なのですね」
誰もすぐには答えなかった。
帝都の空は、すでに藍色へ変わり始めている。
今日は満月ではない。暦の月も、空の月も、満ちてはいないはずだった。
それでも、イロハは無意識に水面を探してしまう。
白影宮の面箱。
陰陽寮の鏡水。
アカツキ家の鉄鉢。
灰面長屋の濁った水桶。
どこにでも、月は映った。
けれど、ミナ=クラの冥祀社では、月を映すものを隠すという。
死者の役が、月に映らないように。
死者が、もう一度呼ばれないように。
イロハは、前方に石段を見た。
灰白の石段。
その左右に、黒い灯籠が並んでいる。火は入っているのに、炎は高く燃え上がらない。まるで、燃えることを許されていない火のように、低く、静かに揺れていた。
石段の上には、黒い門。
朱ではない。
白木でもない。
黒漆でもない。
煤と灰を重ねたような、深い黒。
門の奥には、白布に包まれた面箱がいくつも並んでいるのが見えた。
風はほとんどない。
それなのに、境内に吊るされた細い鈴が、かすかに揺れている。
音はしない。
鳴らない鈴。
舞殿の鈴とは違う。
始まりを告げるものではなく、終わりを乱さないために、あえて音を失った鈴。
冥箱の奥で、また音がした。
とん。
今度は、少しだけ強い。
アヤメが身構える。
ヒヨリが袖の中で小さく震える。
サヨは冥箱から目を逸らさない。
イロハは、箱を抱え直した。
逃げる音ではない。
助けを求める音でもない。
ただ、まだ終われないものが、床を探している音。
その音を聞きながら、イロハは思った。
直せるかもしれない。
もし面の中に役が残っているなら。
もし面がまだ動こうとしているなら。
もし持ち主の最後の願いが、そこにあるなら。
手を入れれば、戻せるかもしれない。
仮置きではなくても。
少しだけなら。
一歩だけなら。
そう考えた瞬間、イロハは自分の手が怖くなった。
ミツの面を前にした時と同じだった。
戻すべき役がない子に、役を置きかけた。
救いたいと思うあまり、押しつけそうになった。
今度は逆だ。
終わった役を、救いたいと思うあまり、呼び戻そうとしている。
それは、本当に救いなのか。
門の内側から、一人の男が現れた。
灰白の僧衣に、墨黒の外衣。
髪は後ろで低く結ばれ、顔立ちは若いが、目元には年齢よりも深い静けさがある。
腰には、小さな小刀と、黒紐で結ばれた冥鈴。
背には、白布に包まれた細長い面箱。
彼は石段の途中まで降りてきて、イロハたちへ静かに礼をした。
「お待ちしておりました」
声は柔らかい。
けれど、その柔らかさは、人を安心させるためのものではなかった。
泣く者を急がせないための声。
死者を引き戻さないための声。
「エンジュ=クラモリです。ミナ=クラ命に仕える冥祀僧をしております」
イロハは名乗ろうとして、冥箱の中の面がまた鳴った。
とん。
エンジュの視線が、まっすぐ箱へ落ちる。
彼は驚かなかった。
眉一つ動かさず、ただ静かに言った。
「まだ、降りられずにいるようですね」
イロハは冥箱を抱えたまま、唇を引き結んだ。
「この面は、白化面ですか」
エンジュは首を横に振った。
「いいえ」
そして、ゆっくりと言った。
「これは、終わった面です」
終わった面。
その言葉が、冥祀社の黒い門の前で、低く沈んだ。
イロハは、すぐには返せなかった。
終わった。
そう言われているのに、箱の中では足音がする。
終わった役が、まだ床を踏もうとしている。
エンジュはイロハの腕の中の冥箱を見たまま続けた。
「本来なら、すでに送られているはずでした」
「では、なぜ舞殿へ?」
「最後の役を、誰も見届けなかったからです」
サヨが、わずかに息を呑む。
エンジュは彼女のほうへ目を向けた。
サヨの身分を問わない。
御簾の有無も、面の有無も、確かめない。
ただ、その人がそこにいることを見てから、再びイロハへ視線を戻す。
「面師イロハ」
「はい」
「あなたは、直したい人ですね」
唐突な言葉だった。
イロハは、眉を寄せる。
「壊れているなら」
「壊れていなくても、直そうとする人です」
声は責めていない。
だからこそ、痛かった。
イロハは冥箱を抱く腕に力を込める。
「直せるなら、直したほうがいい時もあります」
「あります」
エンジュはあっさり頷いた。
「ですが、直さないほうがよい時もあります」
黒い灯籠の火が、低く揺れる。
「戻せば救いになるとは限りません」
冥箱の奥が、沈黙した。
まるで、その言葉を聞いていたかのように。
エンジュは石段の上へ向き直った。
「中へ。夜が深くなる前に、この面の足音を見ましょう」
イロハは、冥祀社の門を見上げた。
あのとき、彼女は始まりの一歩を見た。
そして今。
終わりを拒む足音を抱え、死者の役を送る場所へ入ろうとしている。
面師の仕事は、直すことだけではない。
その答えを、まだ受け入れたわけではない。
けれど、冥箱の中で鳴った重い足音が、もうイロハを逃がしてはくれなかった。




