終節 ― 舞われるまで名はない
夕暮れの光が、ウズメの舞殿の朱を深く染めていた。
朝には明るく開かれていた舞台も、今は西日の端で、少しだけ違う顔をしている。朱塗りの柱は影を長く落とし、鈴棚の鈴はもう鳴らない。神前の御簾も静かに垂れ、昼のあいだ舞殿のどこかに満ちていた笑いの気配は、床下へ戻っていったようだった。
けれど、消えたわけではない。
イロハには、それがわかった。
ユラの足音は、まだ稽古板に残っている。
白札は剥がれていない。
《ユラノスズ》の月痕も、消えてはいない。
奉納舞へ戻れる日が来るかどうかも、まだ誰にもわからない。
それでも、ユラはもう「舞台から完全に降ろされた者」ではなかった。
白札の外側で、一歩を踏んだ。
それを、サヨが見た。
舞殿が聞いた。
セイランが仮記録に残した。
イロハが紙に線を引いた。
ならば、その一歩はもう、なかったことにはならない。
舞殿の門を出る前、サヨが足を止めた。
彼女は振り返り、夕暮れの舞台を見る。
御簾の向こうには誰もいない。
客席の白い席にも、もう鏡ノ客はいない。
けれど、見届けられていたという感覚だけが、まだ淡く残っていた。
「面がなくても、一歩は出せるのですね」
サヨが言った。
イロハは、彼女の横顔を見た。
朝、ここへ来た時のサヨとは違っている。
大きく変わったわけではない。
面が生まれたわけでも、役名が定まったわけでもない。
仮面籍庁の保留が解けたわけでもない。
それでも、サヨはもう、ただ待つだけの皇女ではなかった。
「はい」
イロハは答えた。
「では」
サヨは、舞台から目を離さない。
「面は、何のためにあるのでしょう」
その問いは、静かだった。
けれど、イロハの胸には深く刺さった。
面は、何のためにあるのか。
この国では、面こそが顔である。
面は役を示す。
面は家を示す。
面は職を示す。
面は神前に立つ資格を示す。
面がなければ、人は制度の中で曖昧になる。
それは、イロハがずっと知っていた答えだった。
けれど今は、それだけでは足りない。
アリノリ=シジョウの《コトサダメ》も、同じことを言うだろう。
面は、人を正しい役に置くためにある。
定まらぬ役を判定し、保留し、封じるためにある。
でも、それだけなら、面は札と同じだ。
白札や黒札と同じになる。
イロハは、胸元にしまった紙へ手を添えた。
そこには、面の輪郭ではなく、足音の線がある。
ユラの一歩。
サヨの一歩。
灰面長屋の子どもたちの足音。
まだ名にならないもの。
まだ役として定まらないもの。
それでも、確かにここにあったもの。
「その一歩が」
イロハは、ゆっくりと言った。
「失われないようにするためだと思います」
サヨが、イロハを見る。
「失われないように」
「はい」
イロハは頷いた。
「役を押しつけるためではなくて。誰かに定められるためだけでもなくて。本人が踏み出した一歩を、月に喰われたり、人に消されたり、札で止められたりしないようにするために」
言いながら、イロハ自身もその答えを初めて聞いているような気がした。
「面は、その一歩を世界の中に残す器なのだと思います」
サヨは、黙ってその言葉を受け止めた。
夕暮れの舞台から、微かな木の匂いが流れてくる。
舞われるまで、舞に名はない。
踏まれるまで、一歩に役はない。
けれど、踏まれたあとなら。
誰かが見届けたあとなら。
それを失わせないための器が必要になる。
イロハは思った。
サヨの面は、皇女という役を固定する面ではない。
王朝に認めさせるためだけの面でもない。
サヨが自分で踏み出した一歩を、奪われず、喰われず、誰かに勝手に定められないようにする面でなければならない。
面が、サヨに追いつく。
そのために、自分は彫るのだ。
アヤメは黙って聞いていた。
彼女は反論しなかった。
ただ、サヨの少し後ろで、守る者の位置に立っている。その距離は、朝よりもほんの少しだけ変わっていた。
近すぎず、遠すぎず。
閉じ込めるためではなく、一歩が戻れなくなった時に支えるための距離。
セイランは、舞殿の門の脇で筆をしまっていた。
「正式記録には、できませんね」
彼は言った。
イロハは少し笑った。
「今日のことですか」
「はい。白札対象者の非公式動作、舞殿反応、鈴鳴なき鈴音、未在役名者の一歩。どれも、分類が難しい」
「それでも書くんでしょう」
「仮記録としては」
セイランは真面目に頷いた。
「消すよりは、ましです」
その言葉に、イロハは胸が少し温かくなった。
セイランもまた、変わり始めている。
正式記録にできないものを、なかったことにしない。
読めないものを、読めないまま残す。
それもまた、見届けるということなのかもしれない。
その時、舞殿の奥から足音が近づいてきた。
若い神楽師が一人、白木の箱を抱えている。
箱は古かった。
舞面の箱ではあるが、舞殿のものとは少し違う。白木ではなく、灰を薄く刷り込んだような色をしている。角には黒い紐が掛けられ、蓋には小さな冥祀の印が押されていた。
ミナ=クラ命。
死者、失われた面、剥がされた役、戻らない名を祀る神域の印。
アヤメが表情を引き締める。
イロハも、すぐに空気が変わったのを感じた。
舞殿の笑いが、遠ざかる。
代わりに、冷たい灰の匂いが近づいてくる。
神楽師は、イロハの前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「冥祀社より、面師イロハ殿へ」
「私に?」
「はい」
神楽師は、白木の箱を差し出した。
「戻すべきか、弔うべきか、見てほしいとのことです」
イロハは、その言葉に息を止めた。
戻すべきか。
弔うべきか。
今日、イロハは知ったばかりだった。
まだない役は、舞によって呼び出せること。
白札の外側でも、一歩は踏めること。
面は、その一歩を失わせないための器にもなりうること。
けれど、差し出された箱は、それとは別の問いを持っていた。
すべての役が、戻ることを望むとは限らない。
すべての面が、再び舞台へ出るべきとは限らない。
イロハは、箱を受け取った。
軽い。
けれど、ひどく重かった。
「中を、見ても?」
神楽師が頷く。
イロハは、そっと蓋を開けた。
中には、古い白面が納められていた。
白い。
けれど、白化面の白ではない。
月に噛まれた白ではなく、灰に近い白だった。長い時間をかけて色を失い、役を終え、静かに眠るはずだった面。
目元は穏やかで、口元にはかすかな笑みがある。
かつて舞われた面なのだろう。
いや、舞い終えた面、と言うべきか。
本来なら、ミナ=クラの冥祀社で弔われるべきもの。
役を終え、舞台から下り、灰へ還るための面。
だが、その面の内側に、かすかな傷があった。
月痕ではない。
噛み跡でもない。
もっと古い、ひびのような線。
そして、イロハが覗き込んだ瞬間、その面の奥で、何かが動いた気がした。
舞台へ戻ろうとする気配。
もう終わったはずの足音が、箱の底から立ち上がろうとしている。
サヨが、静かに息を呑んだ。
「この面は」
イロハは、蓋を閉じなかった。
閉じてはいけない気がした。
けれど、すぐに直してよいものでもない。
ユラの面とは違う。
ハルマサの戦面とも違う。
カンナの香役とも違う。
これは、失われた役ではない。
終わった役だ。
終わったはずなのに、まだ戻ろうとしている役。
舞殿の若い神楽師が、声を落として言った。
「夜になると、その面が鳴るそうです」
「鳴る?」
「鈴もないのに、舞台へ上がろうとするような音が」
ユラが、顔を青ざめさせる。
白札の外側で鳴った鈴の音とは違う。
始まりの音ではない。
終わったものが、終わりきれずに戻ってくる音。
イロハは、箱の中の白面を見つめた。
今日、舞殿は始まりを笑った。
ならば、終わるべきものには、何をするのか。
戻すのか。
弔うのか。
それとも、戻りたがっている理由を見届けるのか。
サヨが小さく言った。
「舞われるまで、名はない」
イロハは振り向く。
サヨは、白面を見ていた。
「けれど、舞い終えたものには、何が残るのでしょう」
その問いに、誰も答えられなかった。
夕暮れの舞殿で、鈴は鳴らない。
ウズメの笑いも、いまは遠い。
ただ、冥祀社の白い面だけが、箱の中で静かに眠っている。
眠っているはずなのに。
イロハには、その内側で、まだ誰かの足音が消えずにいるのがわかった。
とん。
聞こえた気がした。
今度の音は、始まりではない。
終わりを拒む音だった。
イロハは白木の箱を抱きしめ、静かに息を吸った。
「見ます」
神楽師が頭を下げる。
サヨがイロハを見る。
アヤメが周囲を警戒する。
セイランは筆を取り出しかけて、やめた。
この問いは、すぐに記録へ落とせるものではない。
イロハは、夕闇の中で舞殿をもう一度振り返った。
今日は、始まりを見た。
次は、終わった役を見ることになる。
戻してはいけない役もある。
その言葉を、まだ誰からも聞いていないのに、イロハの胸の奥ではもう、冷たい予感として形を持ち始めていた。
舞われるまで名はない。
けれど、舞い終えた名を、無理に呼び戻せば。
生きている者の顔は、きっと壊れる。
夕暮れの舞殿の奥で、御簾が最後に一度だけ揺れた。
笑いではない。
別れのような、送りのような、微かな揺れだった。
そしてイロハたちは、冥祀社から来た白い面を抱え、舞殿を後にした。




