第九節 ― 白札の外側の舞
未在面の最初の線は、まだ紙の中にあった。
けれど、イロハにはわかった。
それはもう、ただの下書きではない。
サヨが稽古板の端に置いた一歩。
ユラが正しさから少し外れて踏んだ足音。
灰面長屋の子どもたちが、月を踏むと言って鳴らした板の音。
それらは、同じ場所へ流れ込んでいた。
まだ面ではない。
まだ役名でもない。
けれど、消えないための始まり。
ユラ=シラビョウは、稽古板のそばで鈴を握っていた。
さきほどまで泣きそうだった顔は、まだ涙の跡を残している。だが、瞳の奥には、ほんの少しだけ違う光が宿っていた。
舞台へ戻れたわけではない。
白札は、まだ面箱に貼られている。
鈴祈舞面は、正式な神前には出られない。
奉納舞への参加保留は解けていない。
それでも、ユラは完全に舞台から降ろされたわけではなかった。
そのことを、ユラ自身がまだ信じきれずにいる。
「もう一度」
ユラは、小さく言った。
イロハが顔を上げる。
「もう一度、やってみてもいいですか」
その声は震えていた。
怖いからではない。
希望を持つことのほうが、怖いのだ。
また足が止まったら。
また鈴が鳴らなかったら。
さっきの一歩が、偶然だったら。
そう思えば、踏まないほうが傷つかずに済む。
けれど、ユラは鈴を握り直した。
イロハは頷いた。
「はい」
アヤメはサヨの横に立ち、黙って見ている。
セイランは筆を構えたが、すぐに少しだけ下ろした。すべてを文字にしようとするには、この場の空気はまだ柔らかすぎた。
ヒヨリは袖口から顔を出し、紙の耳をぴんと立てている。
サヨは、稽古板の端を見た。
自分がさきほど片足を置いた場所。
そこに、自分の足跡が残っているわけではない。けれど、何かが変わったように見えた。
見られる場所へ向かう怖さ。
それでも消えたくないという願い。
その小さな気配が、まだ板の上に残っている。
ユラは、稽古板に立った。
今度は、最初から正式な位置には立たなかった。
神前へ向かう角度ではない。
袖の上げ方も、少しだけ崩れている。
鈴を構える高さも、教本通りではない。
舞殿の作法から見れば、間違いだらけの姿だった。
けれど、その間違いの中に、ユラ自身の呼吸があった。
灰面長屋の子どもたちは、神楽を知らなかった。
鈴も持っていなかった。
面もなかった。
舞台とも呼べない板の上で、ただ月を見つけて踏んでいた。
ユラは、その足音を思い出すように、ゆっくり膝を緩めた。
沈黙が来る。
だが、さっきまでのように、彼女を閉じ込める沈黙ではなかった。
神を迎えるためにすべてを正しく整える沈黙ではなく、誰かが笑い出す前の、少しあたたかい間だった。
ユラの足が上がる。
ほんの少し。
そして。
とん。
稽古板が鳴った。
その音は、前よりもはっきりしていた。
ユラの身体がわずかに揺れる。
けれど、止まらない。
鈴を持つ手が遅れて動いた。
りん。
鈴が鳴った。
完全な音ではなかった。
かすれている。
途中で切れかける。
本来の奉納舞なら、鈴の余韻はもっと長く、もっと澄んで、神前の御簾まで届くはずだった。
けれど、鳴った。
確かに、ユラの手の中で鳴った。
ユラは、目を見開いた。
「鳴った」
声が掠れる。
イロハは頷いた。
「はい」
「今、鳴りましたよね」
「鳴りました」
「でも」
ユラは、自分の足元を見る。
「こんなの、神楽じゃない」
その声には、悔しさと、安堵と、どうしてよいかわからない震えが混じっていた。
イロハは、静かに答えた。
「まだ、神楽になる前の動きです」
ユラは唇を噛んだ。
「神楽になる前」
「はい」
「それでも、残していいんでしょうか」
イロハは、すぐには答えなかった。
残していい。
そう言うのは簡単だった。
けれど、この国では、残されるものには形が必要になる。面、札、記録、役名、台帳。何かに納められなければ、たやすくなかったことにされる。
白札の外側で生まれた一歩は、弱い。
誰かが見届けなければ、次の月に薄れてしまうかもしれない。
その時、サヨが言った。
「残してよいのだと思います」
ユラが顔を上げる。
サヨは稽古板を見つめていた。
「正しい舞ではないかもしれません。神楽でもないのかもしれません。でも、今の一歩がなければ、あなたはずっと白札の内側に閉じ込められたままでした」
ユラの目が揺れる。
サヨは続ける。
「なら、それは残してよいものです」
「サヨ様」
ユラは、小さくその名を呼んだ。
サヨは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「わたしも、同じなのかもしれません」
イロハはサヨを見る。
サヨは自分の胸元に手を置いた。
そこに面はない。
「なら、わたしもまだ、皇女になる前の何かなのでしょうか」
静かな問いだった。
だが、その問いは稽古場の空気を深く震わせた。
皇女になる前の何か。
面がないから。
役名がないから。
王朝儀礼上の立場が定まっていないから。
そう考えれば、確かにサヨは「皇女になる前」と言えるのかもしれない。
仮面籍庁なら、そう言うだろう。
血統上は皇女。
儀礼上の役名は未定。
ゆえに保留。
だが、イロハは首を横に振った。
「いいえ」
その声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。
サヨがイロハを見る。
イロハは一歩前へ出た。
「サヨ様はもう、ここにいます」
稽古場が静まる。
サヨの瞳が揺れた。
「でも、わたしには面がありません」
「はい」
「皇女としての役名も、定まっていません」
「はい」
「それでも?」
「それでもです」
イロハは、胸元にしまった紙へ手を添えた。
「サヨ様は、これから皇女になるために存在しているわけではありません。もう、ここにいます。白影宮にも、灰面長屋にも、この舞殿にも」
サヨは、息を止めていた。
イロハは続ける。
「ただ、その役に面が追いついていないだけです」
その言葉を口にした瞬間、あの濁った水桶がイロハの脳裏に蘇った。
映らなかったミツの顔。
ぼやけていたサヨの顔。
水面の底に現れた白い半面。
映らないんじゃない。
まだ、面が追いついていないだけです。
あの時の言葉が、今、別の意味で戻ってくる。
サヨの存在がないのではない。
役がないのでもない。
ただ、この国の面が、制度が、台帳が、まだサヨに追いついていない。
サヨは、何度もゆっくり瞬きをした。
まるで、その言葉を身体の中へ落としているようだった。
「面が、追いついていない」
「はい」
「わたしが、面に追いつかなければならないのではなく」
「違います」
イロハは答えた。
「面が、サヨ様に追いつくんです」
アヤメは、その言葉を聞いて、深く目を伏せた。
サヨを守る者として、彼女はずっと、サヨを制度の中にどう置くかを考えていたのかもしれない。どうすれば危険を避けられるか。どうすれば仮面籍庁に潰されずに済むか。どうすれば、白影宮の内側でサヨを守れるか。
だが、イロハの言葉は、それとは少し違っていた。
サヨを制度に合わせるのではない。
面のほうが、サヨへ追いつく。
そのために面を作る。
ユラが、鈴を握ったまま小さく笑った。
「それなら、わたしも」
イロハが見る。
「わたしの舞も、まだ鈴が追いついていないだけでしょうか」
冗談めかした声だった。
でも、目は真剣だった。
イロハは少し考え、頷いた。
「そうかもしれません」
「白札も?」
「白札は、たぶん一番遅いです」
ユラは、ぽかんとしたあと、初めて声を立てて笑った。
その笑いは、舞殿の奥へ軽く跳ねた。
御簾が、ふわりと揺れる。
どこかで、また鈴のない鈴の音がした。
りん。
今度は、祝福というより、いたずらに応える音だった。
セイランが真面目な顔で記録しようとして、筆を止める。
「白札は一番遅い……これは記録してよいのでしょうか」
ヒヨリが袖の中から顔を出し、紙の尾を左右に振った。
イロハは少し笑った。
「正式記録には向かなさそうですね」
「仮記録なら」
「仮記録でも怒られます」
アヤメが低く言う。
けれど、その声にもわずかな笑みが混じっていた。
ほんの少しだけ、稽古場の空気が緩む。
ユラはもう一度、稽古板に立った。
今度は誰に促されたわけでもない。
自分からだった。
彼女は白札の貼られた面箱を一度見る。
《ユラノスズ》は眠っている。
まだ白札の下にある。
まだ正式な舞台へは戻れない。
けれど、ユラはその面箱へ小さく頭を下げた。
「待っていて」
そう言った。
「私も、追いつくから」
その言葉に、イロハの胸が熱くなった。
面が人に追いつくこともある。
人が面に追いつくこともある。
けれど、それは一方的に押しつけることではない。互いに呼び合い、少しずつ距離を詰めることなのだ。
ユラは鈴を持ち、足を上げた。
とん。
りん。
また鳴った。
音はまだかすれていた。
途中で少し切れ、余韻も短い。
それでも、さっきよりも少しだけ、鈴の芯が戻っていた。
ユラは泣かなかった。
今度は、ただ笑った。
「鳴りました」
「はい」
イロハも笑った。
「鳴りました」
サヨはその音を、胸にしまうように聞いていた。
彼女はまだ舞台に立たない。
まだ自分の役を言えない。
けれど、ユラの鈴が白札の外側で鳴ったことを、確かに見届けた。
そしてその見届ける行為もまた、サヨ自身の一歩になっているのだと、イロハにはわかった。
サヨは、誰かに面を与えられるのを待つだけの存在ではない。
失われた役を覚え、保留された者の痛みを聞き、白札の外側で鳴る鈴を見届ける人だ。
その役は、まだ王朝の台帳にはない。
だが、もうここにある。
面が追いついていないだけで。
イロハは、紙を開いた。
そこに引かれた足音の線の横へ、もう一つ短い線を足す。
ユラの鈴の線。
白札の外側で、まだ神楽にはならない音。
その線は、サヨの未在面そのものではない。
けれど、サヨの面が持つべき余白を教えてくれる線だった。
決められた舞台の中心へ、すぐに立たせる面ではない。
白札や黒札に判定されるための面でもない。
正しさから外れた小さな始まりを、消さずに抱えられる面。
イロハは、ようやく少しだけわかり始めた。
サヨの未在面は、美しい皇女面であってはならない。
美しいだけなら、また飾られる。
正しいだけなら、また定められる。
格式だけなら、また閉じ込められる。
必要なのは、外へ出るための余白。
白札の外側でも、鈴が鳴る余白。
サヨが、自分の役に面を追いつかせるための余白。
ユラは稽古板から降りた。
その足元は少しふらついていたが、表情は明るかった。
「今日は、ここまでにします」
自分でそう言った。
以前なら、誰かに止められるまで続けたかもしれない。
舞えることを証明しようとして、無理に足を出そうとしたかもしれない。
だが今のユラは、自分で止めた。
それもまた、舞台から完全に降ろされた者ではなくなった証のように見えた。
サヨがユラへ歩み寄る。
「また、見てもよいですか」
ユラは少し驚いたあと、深く頷いた。
「はい。……まだ神楽ではありませんけど」
「はい」
サヨは微笑む。
「神楽になる前の動きを、また見せてください」
ユラの目に、また涙が浮かんだ。
けれど今度は、こぼれなかった。
「はい」
舞殿の奥で、御簾がやわらかく揺れる。
笑いの気配は、まだそこにあった。
客席の白い席は空のままだ。
けれど、今の一歩も、鈴の音も、サヨの問いも、きっと見届けられていた。
イロハは、そう感じた。
白札は剥がれない。
月痕も消えない。
でも、ユラはもう、白札の内側にだけいる人ではない。
白札の外側に、不格好な一歩を持った神楽師になった。
それはまだ、制度には認められない。
けれど、舞殿は笑った。
サヨは見届けた。
イロハは記した。
ならば、もう完全には消えない。




