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第七節 ― 白い客席

 白い席は、最初からそこにあったのかもしれない。


 舞殿の客席の奥。

 柱の陰。

 朝の光が届かず、けれど闇にも沈みきらない場所。


 そこだけが、妙に白かった。


 畳でもない。

 座布でもない。

 ただ、誰かが座るために空けられたような、空白の席。


 イロハは、目を凝らした。


 さっきまでは何もなかった。


 そう思いたかった。


 けれど、舞殿が笑ったあと、その席は確かにこちらを見返していた。


 舞台の奥では、ウズメ=ムゲン命の気配がまだ揺れている。御簾がふわりと動き、鈴棚の奥で、鳴らないはずの鈴が細く震える。


 舞台の内側には、笑いがある。


 では、舞台の外側には何があるのか。


 その問いの答えのように、白い席に影が座った。


 人の形をしている。


 けれど、人とは言い切れない。


 顔の半分を覆う、白い半面。


 目穴はない。


 それなのに、見ている。


 白漆の面の表に、舞台の光が薄く映っている。そこにはユラの足元があり、サヨの足袋の先があり、イロハの手の中の紙があった。


 鏡ノ客。


 イロハは、喉の奥が冷えるのを感じた。


 あのとき鏡水に映った白い半面。

 そして、定役面コトサダメの裏に現れた、あの白い客。


 水にも、面の裏にも、そして今度は客席に。


 舞台の外側から、こちらを見ている。


 アヤメが、即座に刀へ手をかけた。


「下がってください」


 声は低い。


 サヨの前へ半歩出る。


 セイランは筆を取り落としかけ、慌てて紙を押さえた。記録しようとしているのか、記録してよいものか迷っているのか、その手は震えていた。


 袖口から顔を出していたヒヨリは、ぴゃっと紙の身体を折りたたみ、セイランの袖の中へ隠れた。尾の先だけが、わずかに震えている。


 ユラは鈴を抱いたまま、動けなかった。


 白い半面の客は、こちらを見ない。


 イロハたちを見ていない。


 アヤメの刀も、セイランの筆も、ヒヨリの怯えも、まるで興味がないようだった。


 その視線なき視線は、舞台に注がれている。


 ユラが踏んだ一歩。


 サヨの足元。


 まだ名にならない動き。


 まだ面にならない線。


 それだけを、客席の奥から見ていた。


 イロハは、紙を握る手に力を込めた。


「あなたは」


 声が出た。


 白い半面が、わずかに傾く。


 答えはない。


 ただ、舞殿の空気が、少しだけ薄くなる。


 舞台の内側に満ちていた笑いが、今度は客席の静けさへ流れ込んでいく。


 白い半面の客は言った。


「舞は、演じる者だけでは成立しません」


 声は、男とも女ともつかなかった。


 近くから聞こえるようで、遠くから響くようでもある。客席の柱、舞台板、面蔵の白木、鈴棚の金具、そのすべてが同じ言葉を小さく返しているようだった。


「見る者がいて、初めて役はかたちを持つ」


 イロハの胸に、反発が生まれた。


 それはほとんど本能だった。


「見られなければ、役にならないんですか」


 強い声になった。


 アヤメが、わずかにイロハを見る。


 イロハは止まらなかった。


「灰面長屋の子どもたちは、誰にも見られなくても足を鳴らしていました。ユラさんの一歩だって、誰かが認めたから出たわけじゃない。サヨ様だって」


 そこまで言って、息を詰める。


 サヨの役は、まだない。


 けれど、誰かに見られなければ存在できないなどと、言わせたくなかった。


 仮面籍庁と同じではないか。


 台帳に載らなければ役ではない。

 面がなければ顔ではない。

 見届ける権威がなければ、存在しない。


 そんなものを、ここで受け入れたくなかった。


 白い半面の客は、静かに答えた。


「いいえ」


 その一言は、意外なほど柔らかかった。


「見られなければ、始まらないのではありません」


 白い面の表に、ユラの足音が映る。


 とん。


 音はしないのに、イロハには見えた。


「見届ける者がいれば、まだ名のない動きも、失われずに済むということです」


 イロハは黙った。


 見られること。


 それは、裁かれることだけではない。


 仮面籍庁の審査所で、見られることは判定だった。

 白札か、黒札か。

 保留か、剥奪か。

 役名があるか、ないか。


 けれど、ここでの見るは違う。


 定めるためではない。


 消えないようにするため。


 サヨが小さく息を吸った。


「見届ける」


 白い半面は、サヨのほうを向いたように見えた。


 だが、顔には目がない。


 それでも、サヨは見られていると感じたのだろう。胸元に手を置き、まっすぐに客席を見返した。


 アヤメの指が刀の柄にかかる。


「それ以上、サヨ様を見るな」


 鋭い声だった。


 白い客は、動かない。


 イロハはアヤメの横顔を見た。


 その警戒は当然だ。


 この客は救いの神ではない。

 守護でもない。

 手を差し伸べる者ではない。


 あのときも、さらに別のときもそうだった。


 鏡ノ客は、映す。


 ただ映す。


 隠されたものも、喰われたものも、恐れているものも、そのままこちらへ返す。


 それが残酷なほど正確だから、危うい。


 ユラが小さく言った。


「では、さっきの一歩も」


 白い半面の客は、ユラを見た。


「舞ではありません」


 ユラの肩がびくりと震える。


 だが、白い客は続けた。


「神楽でもありません」


 ユラの顔が、少し青ざめる。


「けれど、始まりではあります」


 サヨが、わずかに目を見開いた。


 自分が言った言葉を、客席の白い半面が映し返したのだと気づいたのだろう。


 白い客は、ユラの足元を見る。


「名がないものは、弱い」


 その声に、舞殿の空気が冷える。


「名がないものは、流れやすい。見られず、記されず、面にもならず、役にもならぬまま、次の月に薄れていく」


 ユラは鈴を握りしめる。


「では、どうすれば」


 白い半面の客は答えない。


 助言しない。


 救わない。


 ただ、言葉を置く。


「見届ける者がいれば、薄れ方が変わります」


 セイランが、はっとしたように筆を動かす。


「薄れ方が、変わる……」


 彼は紙に書きつける。


 正式記録ではない。

 仮記録。


 それでも残す。


 セイランは、今その意味を少し理解したのかもしれなかった。


 ヒヨリが袖の奥から恐る恐る顔を出し、紙の端に小さな足跡のような折り目をつけた。


 白い半面の客は、今度はイロハの手元を見る。


 紙。


 そこに引かれた、足音の線。


「彫る者」


 イロハの背筋に冷たいものが走った。


 その呼び方は、面師でも、イロハでもない。


 彫る者。


 役を形にする手。


「あなたが彫るものは、顔ですか」


 イロハは、すぐには答えられなかった。


 面師なら、顔と答えるべきだった。


 面とは顔だ。

 この国では、面こそが顔だ。


 けれど、あの水桶の前で、イロハは言った。


 映らないんじゃない。

 まだ、面が追いついていないだけです。


 そして今、舞殿で知った。


 面が追いつくべきものは、顔だけではない。


 足音だ。


 始まりだ。


 本人が踏んだ、まだ名のない一歩だ。


「……今は」


 イロハはゆっくり答えた。


「顔より先に、足音を彫るべきだと思っています」


 白い半面の客は沈黙した。


 笑ったのかもしれない。


 面に表情はない。


 けれど、客席の空気がほんの少し揺れた。


「ならば、見届けなさい」


 白い客は言った。


「あなたが彫る前に」


 イロハの手の中で、紙が震えた。


 あなたが彫る前に。


 それは、鋭い言葉だった。


 イロハは、彫ることで救ってきた。


 仮置きで繋ぎ、面を直し、欠けた役を一時的にでも戻してきた。


 だが、彫ることは決めることでもある。


 線を入れた瞬間、可能性は形になる。


 形になれば、別の可能性は削り落とされる。


 だから、彫る前に見届けなければならない。


 相手がどこへ足を出すのかを。


 サヨが何者として立ちたいのかを。


 サヨ自身が、まだ言葉にできない一歩を。


 サヨは、白い客席を見つめていた。


「あなたは、わたしを見届けるのですか」


 アヤメが止めようとする。


「サヨ様」


 だが、サヨはそのまま問うた。


「それとも、映すだけですか」


 白い半面の客は、静かに答えた。


「映すだけです」


 迷いのない答えだった。


「救いはしません。定めもしません。守りもしません」


 アヤメの目が険しくなる。


「ならば、近づくな」


「近づいてはいません」


 確かに、白い客は客席から動いていない。


 舞台には上がらない。

 稽古板にも触れない。

 サヨの足元にも、ユラの鈴にも、イロハの紙にも手を伸ばさない。


 ただ、見る。


 映す。


 それが、この存在の領分なのだろう。


 ウズメは舞台の内側で、閉じた場所に隙間を作る。


 エル=ネフリドは舞台の外側で、そこからこぼれ出たものを映す。


 どちらも救いではない。


 けれど、どちらも今のイロハたちに必要だった。


 ユラの一歩は、舞殿に笑われた。


 そして、鏡ノ客に映された。


 だから、その一歩はもう「なかったこと」にはできない。


 サヨは静かに言った。


「では、見ていてください」


 アヤメが息を呑む。


 イロハもサヨを見る。


 サヨは白い半面から目を逸らさなかった。


「まだ何をするかはわかりません。何者として立つのかも、まだ言えません」


 声は震えていなかった。


「でも、保留されるためではなく、始めるためにここに来ました」


 白い半面の客は、答えない。


 ただ、その白い面の表に、サヨの足元が映った。


 まだ動いていない足。


 けれど、舞台のほうを向いた足。


 イロハは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 この瞬間を、彫ってはいけない。


 まだ早い。


 けれど、忘れてはいけない。


 紙に残すだけでも足りない。


 自分の目で見届けなければならない。


 サヨの足が、どこへ出るのかを。


 その時、舞殿の奥で御簾が大きく揺れた。


 まるで、舞台の内側の神が、客席の外側の客へ向かって笑ったようだった。


 白い半面の客の姿が、ほんの少し薄れる。


 イロハは思わず一歩前へ出た。


「待ってください」


 白い客は、首だけをわずかに傾ける。


「あなたは、エル=ネフリドなんですか」


 その名を出した瞬間、舞殿の空気が微かに軋んだ。


 セイランの筆が止まる。


 アヤメの目が鋭くなる。


 サヨは、静かに白い客を見つめている。


 白い半面は、答えなかった。


 ただ、面の表に一瞬だけ、別の景色が映った。


 鏡水の庭。

 定役面コトサダメの裏。

 灰面長屋の濁った水桶。

 そして、まだ見ぬ白い原。


 それだけを映して、白い客は言った。


「名で呼ぶと、あなたがたは安心する」


 イロハは息を呑む。


「けれど、安心は時に、見る力を鈍らせます」


 その言葉を最後に、白い席の上の影は薄れていった。


 白い半面も、人影も、朝の光に溶けるように消える。


 客席には、ただ空白の白い席だけが残った。


 そこには誰もいない。


 けれど、見られていたという感覚だけが、舞殿の床に残っていた。


 ユラが、小さく息を吐いた。


「……怖いですね」


 サヨが答えた。


「はい」


 ユラは少し驚いたようにサヨを見る。


 サヨは白い席を見つめたまま続けた。


「でも、見届けるという言葉は、嫌ではありませんでした」


 イロハは、紙を握り直した。


 ウズメは、舞台の内側で始まりを笑う。


 エル=ネフリドは、舞台の外側で始まりを映す。


 そして自分は。


 まだ彫ってはいけない。


 まず、見届ける。


 その役を、イロハは初めて自分に課した。

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