第六節 ― 舞殿が笑う
とん。
ユラの足音が、もう一度、稽古板を鳴らした。
その音は小さかった。
けれど、舞殿の奥へ吸い込まれるように消えたあと、何かが返ってきた。
りん。
鈴ではない。
ユラの手の中の鈴は、まだ鳴っていない。鈴棚の鈴も揺れていない。神前の御簾の向こうにも、人の気配はない。
それでも、音はした。
りん、と。
まるで、板の下に溜まっていた古い足音が、ユラの一歩に応えたように。
ユラは息を呑んだ。
サヨも、稽古板の端を見つめたまま動かない。
アヤメの手が、刀の柄に触れかけて止まる。これは敵意ではない。斬るべきものでも、払うべき怪異でもない。けれど、護衛としては見過ごせない異変だった。
セイランは筆を持ったまま固まっていた。
袖口から顔を出した紙狐ヒヨリだけが、耳を立てるように紙の角をぴんと伸ばしている。
風はなかった。
なのに、神前の御簾が揺れた。
ふわり、と。
誰かが、内側から息を吹きかけたように。
続いて、舞台板がかすかに軋んだ。
表舞台の広い板ではない。ユラが立っている稽古板だけでもない。舞殿全体が、足裏で感じるほどわずかに、ぎしり、と鳴った。
それは、古い建物の軋みではなかった。
もっと近い。
笑いをこらえた喉の奥のような音だった。
客席の暗がりに、気配が走る。
誰も座っていないはずの席。
朝の光が届かない柱の陰。
舞台を見上げるために設えられた、空の場所。
そこに、一瞬だけ、誰かが身を乗り出したような感じがした。
イロハは息を止めた。
笑われているのではない。
ユラの不格好な一歩を嘲っているのではない。
許された、という感じでもなかった。
神が慈悲深く頷いたのでもない。
もっと、いたずらっぽい。
もっと、古くて、明るくて、危うい。
閉じた戸が、内側から少しだけ開いた時のような笑い。
隠していたものが、つい表へこぼれ出てしまった時の笑い。
始まった、と告げる笑い。
ウズメ=ムゲン命。
名を呼ばなくても、その気配は舞殿の床下から湧き上がっていた。
イロハは、ようやく理解した。
ウズメの舞は、正しい型をなぞるだけのものではない。
神前に定められた順番で、定められた面をつけ、定められた足運びで舞う。もちろん、それも舞だ。長く受け継がれてきた神楽であり、舞殿が守ってきたものだ。
けれど、それだけではない。
舞は、閉じた場所を開く。
沈黙を破る。
隠されたものを、表へ引きずり出す。
泣いている者を笑わせるためではなく、泣いていることを隠せなくするために。
閉じ込められた者を慰めるためではなく、閉じ込められていることを舞台の上へ出すために。
笑いとは、軽さではない。
笑いとは、封じられたものに隙間を作る力だ。
イロハの胸の奥で、何かがつながった。
白影宮の空の面箱。
灰面長屋の水桶。
ユラの白札。
サヨの未在。
そして、自分の《ナギノオモテ》。
どれも、閉じられたものだった。
箱に閉じられた月。
水面に映らない顔。
札で止められた舞。
台帳にない皇女。
救済か改変かもわからない面。
それらを無理に開ければ壊れる。
だが、閉じたままでは息ができない。
ならば、必要なのは鍵ではないのかもしれない。
最初の足音。
内側から戸を少しだけ揺らす、一歩。
イロハは、手の中の紙を見た。
さきほど引いた、短い線。
足跡のような線。
まだ面の輪郭にもならない線。
そこに、今のユラの一歩が重なった。
サヨ様の面には、表情より先に、足音がいる。
その思いは、突然ではなかった。
灰面長屋から、ずっとそこにあったものが、今やっと言葉になったのだ。
面は顔を作る。
けれど、サヨの面に最初から完成した顔を彫ってはいけない。
皇女らしい目元。
王朝に相応しい口元。
白影宮の主に相応しい眉。
仮面籍庁に認められる役名の形。
そんなものを彫れば、サヨはまた誰かの定めた皇女になる。
過去にある皇女面を探してもだめだ。
王朝が認める皇女役を写してもだめだ。
サヨ自身が踏み出す動きから、まだない役を呼び出す必要がある。
面は、そのあとだ。
動きが先。
足音が先。
顔は、その足音に追いつくために彫る。
イロハは、紙にもう一本線を引いた。
今度は少しだけ曲がっている。
正しい線ではない。
面師の下絵としては、まだ使えない。目元にも頬にも鼻梁にもならない。
けれど、それはユラの崩れた一歩と、灰面長屋の子どもたちの足音と、サヨのまだ踏まれていない足先を結ぶ線だった。
セイランが、その線を横から覗き込んだ。
「面の設計には見えませんね」
「はい」
「では、何の記録ですか」
イロハは少し考えた。
そして答えた。
「まだ、面になる前の記録です」
セイランはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
「正式記録には、できなさそうです」
「でしょうね」
「ですが、仮記録にはできます」
そう言って、彼は自分の紙に小さく書き加えた。
――未役の足音。
正式神楽に先立つ、非定型の始動反応。
ウズメ舞殿において、鈴鳴なき鈴音を伴う。
ヒヨリがその文字を覗き込み、紙の尾で一部を軽く叩いた。
セイランは眉を寄せる。
「そこは直すべきですか」
ヒヨリは、床に小さな折り目をつけた。
笑い。
セイランは少し困った顔をした。
「……笑い、ですか」
イロハは思わず小さく笑った。
「必要だと思います」
セイランは真面目な顔で頷き、書き足した。
――笑いの気配あり。
その堅い書き方に、アヤメがわずかに目を細めた。
「それでは怪異報告のようです」
「実際、観測異常です」
「舞殿でそれを言うと怒られますよ」
「正式には提出しません」
「また仮ですか」
「今の私に許されているのは、仮の記録ですので」
その言葉には自嘲が混じっていた。
けれど、以前のセイランとは少し違った。
仮でも残す。
正式でなくても、消さない。
それは、白札の外側で一歩を踏んだユラと同じ姿勢だった。
ユラは、まだ稽古板の上にいた。
彼女はもう一度だけ、足を動かしてみる。
とん。
今度は、少しだけ軽い音だった。
鈴は鳴らない。
けれど、客席の暗がりで、また何かが笑った。
ユラは顔を上げる。
「……怒られている感じでは、ないですね」
サヨが頷いた。
「はい」
「許されている感じでもありません」
「はい」
「では、何なのでしょう」
サヨは、少しだけ考えた。
「見られているのだと思います」
その言葉に、稽古場の空気が変わった。
イロハも、はっとする。
見られている。
舞台とは、見られる場所。
ユラは、見られることを恐れていた。
サヨは、見られることそのものに慣れていなかった。
イロハは、見ることで相手を決めてしまうことを恐れていた。
だが、見られることは、裁かれることだけではない。
見届けられることでもある。
今のユラの一歩は、神楽として認められたわけではない。
仮面籍庁の白札が剥がれたわけでもない。
舞殿の正式記録に載るわけでもない。
それでも、舞殿は見た。
ウズメは笑った。
セイランは仮記録に残した。
サヨは、それを始まりだと言った。
だから、その一歩は完全には消えない。
イロハは、サヨを見た。
サヨは稽古板の端に立っている。
まだ上がってはいない。
だが、もう目を逸らしていない。
舞台を見ている。
床を見ている。
そして、自分の足元を見ている。
イロハは思う。
サヨ様の面も、誰かに認めさせるためだけのものではいけない。
見届けられるための面でなければならない。
ただし、見られることで閉じ込められるのではなく、見られることで消されないための面。
仮面籍庁の《コトサダメ》は、役を判定する。
あるか、ないか。
認めるか、保留するか。
白札か、黒札か。
でも、ウズメの舞殿は違う。
これは何か、とすぐには決めない。
正しいか、正しくないかを急がない。
始まったものを、面白がって見る。
だから閉じた場所が開く。
だから沈黙が破れる。
だから隠されたものが、少しだけ表へ出てくる。
ユラは、稽古板から降りた。
足取りはまだ不安定だったが、来た時よりも顔が明るい。
「白札は、剥がれませんね」
彼女は自分からそう言った。
イロハは頷く。
「はい」
「月痕も、消えていませんね」
「はい」
「でも」
ユラは、鈴を見た。
「鳴りました」
「はい」
ユラは笑った。
涙の跡がまだ残っている。
けれど、その笑みは固くなかった。
「それだけで、今日は十分です」
サヨが、静かに言った。
「わたしには、十分以上に見えました」
ユラは、少し照れたように頭を下げる。
その時、御簾の奥がもう一度揺れた。
今度は、はっきりと。
風ではない。
誰かが、笑いながら袖を振ったような揺れ方だった。
サヨは御簾を見た。
「ウズメ=ムゲン命は」
彼女は小さく呟く。
「役を与える神ではないのですね」
イロハは、サヨの隣で頷いた。
「たぶん」
「では、何をなさるのでしょう」
イロハは、舞台板を見る。
さっきまでユラが立っていた場所。
不格好な一歩が鳴った場所。
「閉じた場所に、隙間を作るのだと思います」
「隙間」
「はい。そこから、まだない役が出てこられるように」
サヨは、その言葉を胸に落とすように黙った。
まだない役。
それは、サヨ自身のことでもある。
彼女は、面がない。
役名がない。
皇女として立つための面が、まだこの国に存在しない。
だが、存在しないからといって、封じられるためだけのものではない。
まだないからこそ、出てくる余地がある。
そのためには、閉じた場所に隙間が必要だ。
イロハは、自分の紙をもう一度開いた。
足音の線。
短く、曲がり、不揃いな線。
サヨの未在面に必要なのは、まずこの線だ。
表情より先に。
紋より先に。
皇女としての格式より先に。
足音。
サヨが、自分で踏むための余白。
それを彫るのだ。
まだ面にはならない。
まだ輪郭にも届かない。
けれど、イロハの中で、確かに最初の設計思想が生まれた。
その瞬間、舞殿の客席の奥で、白いものがかすかに動いた気がした。
イロハは顔を上げる。
誰もいないはずの席。
朝の光から外れた、柱の陰。
そこに、一つだけ妙に白く見える場所がある。
空席。
しかし、ただの空席ではない。
誰かが、そこに座るために空けられているような白い席。
イロハは目を凝らした。
まだ、何も見えない。
けれど、その白い席だけが、舞殿の笑いから少し遅れて、こちらを見返しているようだった。
舞台の内側では、ウズメが笑っている。
ならば、舞台の外側では。
誰が見ているのか。
イロハの手の中で、紙がかすかに震えた。




