第五節 ― 灰面長屋の足音
鈴の音が消えたあと、稽古板の上には、まだ小さな震えが残っていた。
ユラは鈴を胸に抱いたまま、何度も足元を見ている。
信じられない、という顔だった。
正しい神楽ではなかった。
作法としては崩れていた。
神前へ捧げるには、あまりにも幼く、不格好で、名づけようのない一歩だった。
けれど、足は出た。
舞台板は、その一歩を拒まなかった。
サヨは、その光景を見つめていた。
稽古板の端に残る、見えない足跡。
それを見ているうちに、彼女の中で、灰面長屋の夕暮れが蘇っていく。
灰色の長屋。
欠けた面を吊るした物干し紐。
煤けた面箱。
濁った水桶。
そして、壊れた小さな舞台板。
その上で、子どもたちが足を鳴らしていた。
とん、とん。
とん、たたん。
月を踏む遊び。
神楽とは呼べない。
祭礼でもない。
誰かに許された舞でもない。
けれど、あの足音は、今もサヨの耳の奥に残っていた。
「あの子たちは」
サヨは静かに口を開いた。
ユラが顔を上げる。
「あの子たちは、神楽を知りませんでした」
稽古場の空気が少し変わった。
若い神楽師が、入口で不思議そうにこちらを見る。
サヨは続けた。
「鈴もありませんでした」
ユラの手の中で、鈴が小さく揺れる。
「けれど、月が来ると言って、見つけて、踏んでいました」
「月を、踏む……」
ユラは、戸惑ったように繰り返した。
「それは、舞ではありません」
「そうかもしれません」
「神楽でもありません」
「はい」
サヨは頷いた。
「でも、始まりではありました」
ユラは言葉を失った。
始まり。
その言葉は、稽古板の上に静かに落ちた。
神楽には、決められた始まりがある。
沈黙があり、呼吸があり、神を迎えるための一歩がある。
その一歩を失ったユラは、舞台に立てなくなった。
だが、灰面長屋の子どもたちは、始まりの型など知らなかった。
彼らは、月が怖いから踏んだ。
自分たちが消えないように、足音を鳴らした。
サヨは、稽古板の端へ一歩近づいた。
アヤメが微かに動く。
けれど、サヨは板へは上がらない。
ただ、ユラの立っている場所を見つめる。
「ユラ」
「はい」
「正しい一歩でなくても、始めることはできますか」
その問いは、誰に向けられたものだったのだろう。
ユラへ。
イロハへ。
あるいは、サヨ自身へ。
イロハは、胸の奥を掴まれたように感じた。
正しい一歩でなくても、始めることはできるか。
それは、今この場にいる全員の問いだった。
ユラは、稽古板の上で立ち尽くしている。
「わかりません」
彼女は正直に答えた。
「でも」
鈴を握り直す。
「さっき、少しだけ、足が動きました」
「はい」
「正しくなかったのに」
「はい」
「月に見つからなかったのでしょうか」
その声には、子どものような頼りなさがあった。
イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見た。
白い月痕は消えていない。
白札も剥がれていない。
月が見逃したのか。
それとも、舞になる前のものまでは喰えなかったのか。
まだわからない。
けれど、わからないからこそ見なければならない。
「もう一度、試してみてください」
イロハは言った。
「ただし、神楽を始めようとしないでください」
ユラは戸惑う。
「神楽師なのに?」
「はい」
「神楽師なのに、神楽を始めようとしない」
「今だけは」
イロハは頷いた。
「月を踏むつもりで」
ユラは、思わず小さく笑った。
その笑いは、泣きそうな笑いだった。
「そんなこと、舞殿の先生に聞かれたら叱られます」
入口の若い神楽師が、気まずそうに視線を逸らした。
けれど、彼は止めなかった。
それどころか、ほんの少しだけ、うなずいたようにも見えた。
ユラは稽古板の中央ではなく、端へ立ち直った。
正規の立ち位置ではない。
神前へ向かう正しい角度でもない。
少しずれている。
それだけで、彼女の身体はいつもと違う呼吸を始めた。
沈黙は来なかった。
いや、沈黙に似たものはあった。
けれど、それは舞殿全体を凍らせるようなものではない。
灰面長屋の夕暮れ、子どもたちが月を踏む前に一瞬だけ息を合わせた、あの不揃いな間に近かった。
ユラは鈴を構えない。
袖を正しく上げない。
膝を少し緩める。
足袋の先で、板を探る。
まるで、そこに月の影が落ちているかどうかを確かめるように。
サヨは、息を止めた。
イロハも、手を出さない。
アヤメも、セイランも、若い神楽師も、誰も口を挟まなかった。
ユラの足が上がる。
ほんのわずか。
そして。
とん。
稽古板が鳴った。
鈴は鳴らなかった。
ユラの手の中の鈴は、ただ小さく揺れただけだった。
だが、舞台の奥で、かすかに音がした。
りん。
鈴のない鈴の音。
誰も触れていない鈴棚の奥から、あるいは神前の御簾の裏から、あるいは板の下に溜まった無数の足音の底から、細い音が立ち上がった。
ユラが目を見開く。
「今のは」
イロハは答えられなかった。
サヨが、静かに言った。
「舞殿が、聞いたのだと思います」
「舞殿が?」
「はい」
サヨは稽古板を見つめた。
「神楽ではないかもしれません。けれど、始まりだと」
ユラの唇が震えた。
その目に、涙が浮かぶ。
「始まり」
「はい」
「こんな一歩でも」
「はい」
サヨは頷いた。
「わたしには、始まったように見えました」
その言葉に、ユラは顔を伏せた。
涙が一粒、稽古板へ落ちる。
木の上に、小さな丸い染みができた。
ユラはすぐに袖で拭おうとして、手を止める。
その染みも、足音の一つのように見えたのかもしれない。
セイランが、ようやく筆を動かした。
しかし、書き始めてすぐに眉を寄せる。
「記録名が、ありません」
イロハは振り向いた。
「記録名?」
「これは神楽ではない。舞殿の正式稽古でもない。白札対象者の非公式動作……では、あまりにも」
袖から紙狐ヒヨリが顔を出し、セイランの筆先を前足で軽く叩いた。
そして、床に小さな文字のような折り目をつける。
足音。
セイランは、それを見て黙った。
「……足音」
彼は小さく呟く。
「そう記録しておきます。正式記録ではなく、仮記録として」
アヤメが少しだけ口元を緩めた。
「また仮記録ですか」
「正式記録にできないものを、何も書かないよりはましです」
セイランの声には、以前よりも柔らかい意地があった。
イロハは、ユラの足元を見た。
今の一歩は、舞ではなかった。
神楽でもなかった。
けれど、記録されずに消えてよいものでもなかった。
サヨは、板の端へさらに一歩近づいた。
今度はアヤメも止めなかった。
サヨは、ユラが踏んだ場所を見つめる。
「正しい一歩でなくても、始めることはできる」
自分に言い聞かせるような声だった。
ユラが顔を上げる。
「サヨ様も、何かを始めたいのですか」
アヤメが緊張する。
イロハも息を止めた。
サヨはすぐには答えなかった。
自分の胸元に手を当てる。
そこには、面がない。
役名もない。
台帳に定められた皇女の役もない。
けれど、灰面長屋の足音を聞いた。
ユラの不格好な一歩を見た。
舞殿がそれに応える音を聞いた。
「始めたいのだと思います」
サヨは言った。
それは、とても小さな答えだった。
けれど、初めての答えだった。
「何を、とはまだ言えません」
彼女は続ける。
「けれど、保留されているだけではなく、何かを始めたいのだと思います」
イロハの腰の奥で、《ナギノオモテ》の鍵が熱を帯びた。
今度は、はっきりと。
まるで、サヨの言葉に反応したかのように。
イロハは、そっと鍵を押さえた。
開けない。
まだ開けない。
これはサヨの一歩だ。
自分の面の影を重ねてはいけない。
だが、見逃してもいけない。
イロハは道具袋から紙を取り出した。
面の輪郭を描くための紙ではない。
いつもなら、頬の線、目元、鼻梁、紐穴の位置を描き込む紙。
けれど今、イロハが引いたのは、顔の線ではなかった。
一本の短い線。
足跡のような、板を踏む音のような線。
そこから少し遅れて、もう一本。
まだ面にはならない。
けれど、サヨの未在面に必要な最初の動きだった。
ユラはそれを見て、不思議そうに尋ねた。
「面の設計ですか」
「まだ、面ではありません」
イロハは答えた。
「では?」
「足音です」
サヨが、紙の上の線を見た。
自分のものか、ユラのものか、灰面長屋の子どもたちのものか。
そのどれでもあって、どれでもない線。
サヨは小さく息を吸った。
「面を作るのに、足音を描くのですね」
「はい」
イロハは、紙を大切に畳んだ。
「たぶん、サヨ様の面には、それが必要です」
その時、舞殿の奥の御簾がふわりと揺れた。
笑いの気配が、また走る。
誰かが、幕の陰で頬杖をつきながら、面白そうにこちらを見ているようだった。
ウズメ=ムゲン命。
その名を口にする者はいなかった。
けれど、この場にいる全員が、何かが見届けたことを感じていた。
ユラは、もう一度だけ足を鳴らした。
とん。
今度も鈴は鳴らなかった。
だが、舞台の奥で、鈴のない鈴の音が静かに応えた。
りん。
正しい一歩ではない。
けれど、始まった。
そして始まったものは、まだ名がなくても、もう完全には消えない。




