第四節 ― 沈黙の一歩
ユラ=シラビョウは、もう一度、稽古板の端に立った。
そこは正式な舞台ではない。
神前の御簾の真正面でもない。
祭礼の順路にも含まれていない。
参列者の目に触れる場所でもない。
ただ、舞が舞になる前に、神楽師が何度も足を置くための板だった。
けれど今のユラにとっては、その板でさえ遠かった。
彼女は鈴を持つ。
指の形は正しい。
袖を上げる。
肩の力も、呼吸の間も、何ひとつ崩れていない。
舞を忘れていない。
それは、この場にいる誰の目にも明らかだった。
入口近くでは、陰陽寮から記録のために同行していたセイラン=ナナツジが筆を止めていた。袖の中の紙狐ヒヨリも顔だけを出し、ぴたりと動かない。
アヤメは、サヨの半歩後ろに立っている。
護衛としての警戒は解いていない。
それでも今だけは、刀の柄ではなく、ユラの足元を見ていた。
サヨは稽古板の端をじっと見つめている。
そこに、まだ自分が踏んでいない一歩の影を探すように。
ユラが息を吸った。
その瞬間、舞殿の空気が変わった。
音が消える。
表舞台を掃く箒の音も、鈴棚の金具が触れ合う音も、遠い参道のざわめきも、すべて薄く引いていく。
沈黙。
神を迎える前の沈黙。
世界が、舞い出す者の足元だけを残して、息を止める。
ユラの右足が、ほんの少し浮きかけた。
しかし、そこで止まった。
動かない。
足袋の先が板に触れたまま、前へ出られない。
鈴を持つ指が震える。
袖がわずかに落ちる。
呼吸が浅くなる。
ユラは、泣きそうな顔で笑った。
「違うんです」
声がかすれていた。
「怖いわけじゃない」
イロハは頷いた。
「わかっています」
「忘れたわけでもない」
「わかっています」
「じゃあ、どうして」
ユラの声が、そこで折れた。
「どうして、足が出ないんですか」
誰も答えられなかった。
神楽師たちも、アヤメも、セイランも、サヨも。
皆、ユラが舞えることを見ている。
そして、始められないことも見ている。
イロハの手が、自然と面箱へ伸びかけた。
鈴祈舞面。
白札の貼られた面箱。
そこに触れれば、月痕の奥へ指を入れることはできるかもしれない。
仮札を置けば、一歩くらいは戻せるかもしれない。
あの時のように。
消えかけた舞の一節を、ほんの一瞬だけ呼び戻すことは、できるかもしれない。
だが、イロハはその手を止めた。
指先が、面箱の縁に触れる寸前で止まる。
違う。
今、それをしてはいけない。
ユラが自分で踏める入口を探さなければ、また誰かが役を置いたことになる。
それがたとえ救うためでも。
それがたとえ善意でも。
それがたとえ、ユラ自身が望んだとしても。
その一歩は、イロハが置いた一歩になってしまう。
あの濁った水桶が脳裏に浮かんだ。
映らないミツの顔。
ぼやけるサヨの顔。
水底に浮かんだ白い半面。
救うのか。
作り変えるのか。
イロハは、息を吐いた。
そして、面箱から手を離した。
「ユラさん」
「はい」
「正しい一歩を探さないでください」
ユラが、顔を上げる。
「え?」
「最初から正しいと、たぶん月に見つかります」
その言葉に、セイランが眉を動かした。
「月に、見つかる?」
イロハは、ユラの足元を見たまま答えた。
「月は、役へ入る瞬間を喰います。ユラさんも、ハルマサさんも、そしてセイランさんも。みんな、技術を失ったんじゃありません。役へ入る入口を噛まれた」
セイランは黙った。
自分の星読式面に浮かんだ満月の痕を思い出したのだろう。
イロハは続ける。
「なら、入口らしい入口から入ろうとすれば、また見つかるかもしれません」
ユラは戸惑う。
「でも、神楽には入口があります。沈黙があって、呼吸があって、一歩目がある。それを崩したら」
「神楽ではなくなるかもしれません」
イロハは正直に言った。
ユラの顔が曇る。
けれど、イロハは目を逸らさなかった。
「でも、今探しているのは、神楽そのものではありません」
「では、何を」
「神楽になる前の、ユラさんの一歩です」
サヨが、静かに息を吸った。
その言葉を聞いている。
自分にも関わる言葉として。
「正しくなくていいんです」
イロハは言った。
「綺麗でなくてもいい。舞殿の帳面に残る形でなくてもいい。神楽師として認められる一歩でなくてもいい」
ユラの手の中で、鈴が小さく揺れた。
「それは……舞じゃありません」
「はい」
「神に見せるものでもありません」
「はい」
「では、何のために」
ユラの声には、迷いと、ほんの少しの怒りが混じっていた。
舞えない神楽師に、舞でないものを踏めと言う。
それは残酷な言葉にも聞こえただろう。
イロハは受け止めた。
「月に、あなたの始まりを全部渡さないためです」
稽古場が静まり返った。
ユラの目が揺れる。
「月に」
「はい。あなたの正式な一歩は、喰われました。でも、あなたの中にある全部が喰われたわけじゃない。さっき、足は出ました。鈴も鳴りました」
「でも、あれは」
「正しくなかった」
イロハは頷いた。
「だから、残っていたのかもしれません」
サヨが稽古板の端を見る。
灰面長屋の子どもたちの足音が、そこに重なっているのかもしれなかった。
月を踏む遊び。
誰も正しいとは言わない。
誰も神楽とは呼ばない。
けれど、そこにいることを示すための動き。
ユラはしばらく黙っていた。
それから、鈴を胸元へ引き寄せた。
「正しくない一歩を、踏む」
「はい」
「神楽師なのに」
「神楽師だからです」
ユラは、イロハを見る。
「神楽師だから?」
「はい」
イロハは稽古板を見た。
「正しい舞だけを知っている人なら、正しさから外れた一歩がどれほど怖いかも知っているはずです。でも、それを踏めたなら、きっと戻れる場所も変わります」
ユラは息を呑んだ。
「戻る場所が、変わる」
「完全に前と同じ舞台には、戻れないかもしれません」
イロハは、白札の貼られた面箱を見る。
「でも、前と同じでなければ舞えないわけじゃない」
その言葉は、ユラだけでなく、サヨにも届いた。
サヨは、胸元に手を当てる。
面がないから、公式儀礼には立てない。
皇女の役がないから、皇女としての舞台に上がれない。
それでも、前と同じでなければ立てないわけではない。
そもそも、サヨには「前」がない。
ならば、これから探すしかない。
アヤメが、サヨの横顔を見た。
心配と、誇らしさと、恐れが混じった視線だった。
ユラは、もう一度稽古板の端に立った。
今度は、深く息を吸わなかった。
神を迎える沈黙を、完璧には作らなかった。
袖を上げすぎない。
鈴を構えすぎない。
足を揃えすぎない。
少しだけ、崩す。
少しだけ、遊ぶ。
灰面長屋の子どもたちのように、月を見つけて踏むつもりで。
沈黙が来る。
だが、それはさっきほど硬くない。
舞殿全体が息を止めるのではなく、誰かが幕の裏で笑いをこらえているような沈黙だった。
ユラの足が動く。
とん。
不格好な音がした。
けれど、板は受け止めた。
ユラの身体が少し傾く。
アヤメが一瞬手を伸ばしかける。
しかし、ユラは倒れなかった。
自分で戻る。
そして、鈴を鳴らした。
りん。
さっきよりも、長い。
まだ細い音だった。
でも、途中で切れなかった。
ユラは、目を見開いた。
「鳴った」
声が震える。
「今、鳴りましたよね」
「鳴りました」
イロハは答えた。
サヨも頷く。
「聞こえました」
セイランは、震える筆先で記録しようとして、途中で止まった。
紙狐ヒヨリが袖口から顔を出し、床に小さな足跡のような折り目をつける。
若い神楽師は、入口で目元を押さえていた。
ユラは笑った。
泣きながら笑った。
「こんなの、神楽じゃないのに」
「まだ、神楽になる前の動きです」
イロハは言った。
「でも、消えていません」
その瞬間、舞殿の奥の御簾がふわりと揺れた。
風はない。
鈴棚の鈴が、いくつも小さく震える。
りん。
りん。
りん。
誰も触れていないのに、音が重なる。
舞殿が笑っている。
そう思った。
嘲笑ではない。
正しさから外れた者を責める笑いではない。
閉じた場に、少しだけ隙間が開いたことを喜ぶ笑い。
ウズメ=ムゲン命の気配が、舞台板の下を通り、柱を伝い、神前の御簾の奥へ抜けていく。
ユラは、鈴を抱きしめた。
イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見る。
白札は剥がれていない。
月痕も消えていない。
制度上、ユラはまだ奉納舞へ戻れない。
でも、稽古板の上に一歩が生まれた。
誰かが置いた役ではなく、ユラ自身が探し当てた、正しくない始まり。
イロハはそれを見届けた。
そして、胸の奥で静かに思う。
サヨ様の面にも、これが必要だ。
完成された役ではない。
正しい皇女の型でもない。
最初から台帳に載るための形でもない。
月に見つからないほど小さく、けれど本人だけが確かに踏める一歩。
その余白を、どう彫るのか。
まだわからない。
だが、面の輪郭より先に、足音が必要なのだと、イロハは確かに知った。




