表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
66/108

第三節 ― 舞台に立てぬ皇女

 りん、と鳴った鈴の音は、すぐに消えた。


 けれど、消えたあとも、稽古板の上には何かが残っていた。


 音ではない。

 形でもない。

 それは、誰かが初めて息を吸ったあとのような、かすかな余白だった。


 ユラ=シラビョウは、自分の手の中の鈴を見つめていた。


 鳴った。


 ほんの短く、かすれて、頼りない音だった。

 けれど、鳴った。


 白札を貼られた鈴祈舞面ユラノスズの前で、彼女の足は一度だけ動いた。正しい神楽の一歩ではなかった。舞殿の記録に残るような美しい所作でもなかった。


 でも、それはユラ自身の一歩だった。


「……こんなの」


 ユラは小さく呟いた。


「こんなの、神楽じゃないのに」


 声が震えていた。


 イロハは、すぐに答えなかった。


 神楽ではない、と言えば、ユラを傷つける。

 神楽だ、と言えば、白札の現実を無視することになる。


 だから、ただ見ていた。


 今の一歩が、どこから来たのかを。


 ユラの足元。

 鈴を握る指。

 沈黙を避けるように少し崩した膝。

 正しさから一度だけ横へ逸れた、その身体の動き。


 それは、灰面長屋の子どもたちの足音に似ていた。


 月が来る。

 見つける。

 踏む。


 誰かに教えられた舞ではない。

 けれど、怖さに飲まれないための動き。


 サヨは、その一歩をじっと見ていた。


 彼女の視線は、ユラの顔ではなく、足元に向けられていた。まるで、そこに自分が探しているものが落ちているかのように。


 その時、稽古場の入口にいた若い神楽師が、かすかに声を漏らした。


「白影宮の……」


 アヤメの視線が鋭く走る。


 若い神楽師は、はっと口を閉じた。


 だが、もう遅かった。


 ユラもその言葉を聞いていた。


 彼女はゆっくりとサヨを見た。


 御簾姿。

 面を持たぬ高貴な気配。

 アヤメ=シラハの護衛。

 イロハが連れてきた、舞台に立つ役を持たぬ者。


 ユラの顔から、血の気が引いた。


 彼女は慌てて鈴を置き、膝をつこうとした。


「申し訳ございません。わたし、知らずに」


「やめてください」


 サヨの声が、静かに止めた。


 強い声ではなかった。


 けれど、ユラの膝はその場で止まった。


 サヨは一歩だけ近づく。


 その一歩に、アヤメがわずかに反応した。

 だが、止めなかった。


「今日は皇女として来たのではありません」


 ユラは、困惑した顔でサヨを見上げた。


「では、何として」


 サヨは、すぐには答えられなかった。


 御簾の奥で、唇がわずかに動く。


 皇女として。


 役名保留候補として。


 面を持たぬ者として。


 白影宮の主として。


 それとも、灰面長屋の子どもたちの足音を聞いた者として。


 どれも嘘ではない。


 けれど、どれもまだ、サヨ自身の答えではなかった。


 彼女は静かに言った。


「……まだ、わかりません」


 ユラは目を見開いた。


 アヤメの表情が、痛むように揺れる。


 イロハは、その言葉を胸の奥で受け止めた。


 まだ、わかりません。


 サヨは、自分を定義できない。


 面がないから。

 役名が保留されているから。

 皇族面台帳に、自分の役がないから。


 けれど、それだけではない。


 サヨはもう、誰かに与えられた答えだけで立とうとしていない。


 だから、わからない。


 自分が何者として立ちたいのかを、まだ探している途中なのだ。


 ユラは、膝をつくのをやめ、ゆっくり立ち上がった。


「……わたしも」


 鈴を見下ろす。


「わたしも、今は神楽師としては立てません」


 サヨは答えた。


「でも、あなたは舞を覚えている」


「覚えています」


 ユラは頷く。


「型も、鈴も、袖も、呼吸も。どこで目を伏せて、どこで神前へ向き直るのかも、覚えています」


 そこで、彼女は稽古板の端を見た。


「でも、始められないんです」


 その言葉が、稽古場に落ちた。


 イロハは、ユラを見る。

 サヨを見る。

 そして、自分の手を見る。


 ユラは舞えるが、始められない。


 サヨは皇女だが、立てない。


 イロハは面を作れるが、押しつけることを恐れている。


 三人とも、入口の前にいる。


 誰かに背を押されれば進めるかもしれない。

 でも、それでは本当に自分の一歩なのか、わからなくなる。


 イロハは、そこでようやく自分がこの舞殿へ来た理由を、少し理解した。


 ユラの白札をどうにかするためだけではない。


 サヨの未在面の輪郭を探すためだけでもない。


 自分自身が、面師として何をしてはいけないのかを知るために、ここへ来たのだ。


 ユラが言う。


「さっきの一歩は、舞じゃありません」


「はい」


 イロハは頷いた。


 ユラは少し驚いたようにイロハを見た。


 イロハは続ける。


「でも、舞ではないから、無意味というわけでもありません」


「では、何なんですか」


 その問いに、イロハはすぐ答えられなかった。


 答えを先に与えてはいけない気がした。


 ユラの一歩に、名前をつけるのは簡単だ。


 未役の足音。

 白札の外側の舞。

 神楽になる前の動き。


 けれど、いま言葉にしてしまえば、その一歩をまたイロハが決めてしまう。


 だから、イロハは首を横に振った。


「まだ、わかりません」


 サヨが、イロハを見た。


 同じ言葉。


 けれど、逃げではなかった。


 わからないまま見ること。

 わからないまま待つこと。


 それもまた、面師に必要なことなのかもしれなかった。


 ユラは小さく息を吐く。


「みんな、わからないんですね」


「はい」


 イロハは少し笑った。


「でも、わからないまま、もう一度見ることはできます」


 ユラは鈴を握り直した。


 サヨは稽古板の端へ視線を落とす。


 そこには、さきほどユラが踏んだ一歩の跡があるように見えた。


 もちろん、床に本当に跡が残っているわけではない。

 けれど、舞殿の床は覚えているようだった。


 正しい神楽ではなかった一歩を。


 白札の外側で鳴った、かすかな鈴を。


 サヨは、稽古板へ近づいた。


 アヤメがすぐに前へ出る。


「サヨ様」


「上がりません」


 サヨは言った。


「ただ、近くで見ます」


 アヤメはしばらく黙った。


 それから、一歩だけ退いた。


 サヨは稽古板の端に立つ。


 そこは、まだ舞台ではない。

 けれど、舞台に入る手前だった。


 サヨは足元を見る。


「ここに立つと」


 小さく呟く。


「足が、重いのですね」


 ユラが頷いた。


「はい」


「白影宮の御簾の前に立つ時とは違います」


「どう違いますか」


 ユラが尋ねた。


 サヨは考えた。


「御簾の前では、わたしは隠されます。見られないように、そこにいます」


 その声は淡々としていた。


「でも、ここでは、見られるために立つのですね」


 ユラは黙った。


 サヨは続ける。


「見られるために立つのは、少し怖いです」


 イロハは、その言葉を聞いた瞬間、鏡ノ客のことを思い出した。


 映す者。

 見る者。

 舞台の外側の観客。


 まだ姿はない。


 けれど、この舞殿では「見られること」そのものが、役と関わっている。


 サヨは面を持たない。


 だから、水面にも顔がうまく映らない。


 けれど、舞台に立つとは、自分を世界へ映すことでもある。


 サヨは、その怖さを今、初めて身体で知ろうとしている。


 ユラが静かに言った。


「わたしは、見られるのは好きでした」


 少し照れたように笑う。


「神楽師ですから。舞を見てもらえるのは、嬉しいことでした。神に見てもらう。人に見てもらう。舞殿に見てもらう」


 けれど、その笑みはすぐに翳った。


「でも、今は怖いです。見られた時に、『ああ、あの子はもう舞えない』と思われるのが怖い」


 サヨはユラを見た。


「わたしは、見られた時に、『あの方は面がない』と思われるのが怖いです」


 二人の間に、静かな理解が生まれた。


 ユラは舞えるが、始められない。


 サヨは皇女だが、立てない。


 怖いものは違う。


 けれど、舞台の手前で足が重くなることは同じだった。


 イロハは、その二人を見ていた。


 自分は面を作れる。


 ユラの面に、仮の入口を置けるかもしれない。

 サヨの未在面に、仮の役を彫れるかもしれない。


 でも、それをしてはいけない。


 少なくとも、今は。


 この二人が、どこに足を置きたいのかを知らないままでは。


 稽古場の奥で、御簾がまたわずかに揺れた。


 鈴棚の鈴は動いていない。


 それでも、どこかに笑いの気配がある。


 ウズメ=ムゲン命は、まだ姿を見せない。


 ただ、舞台の下から、見えない手で床を軽く叩いているようだった。


 始めよ、と命じるのではない。


 始まるのを、面白がって待っている。


 サヨは、ふとユラへ尋ねた。


「ユラ」


「はい」


「舞は、必ず正しい形で始めなければならないのですか」


 ユラは困った顔をした。


「神楽としては、そうです」


「では、神楽になる前は」


 ユラは言葉に詰まった。


 神楽になる前。


 それは、舞殿ではあまり問われないことなのかもしれなかった。


 舞は作法を持ち、神楽は型を持ち、祭礼は順番を持つ。

 けれど、それらになる前の身体の動きは、どこに置かれるのか。


 サヨは、自分の足元を見た。


「わたしは、皇女として立つ作法を知りません」


 アヤメが小さく息を呑む。


 サヨは続けた。


「知る機会も、ありませんでした。面がなかったからです」


 声は静かだった。


 けれど、痛みがあった。


「でも、皇女になる前の一歩なら、探せるかもしれません」


 イロハは、胸が熱くなるのを感じた。


 サヨは、まだ答えを持っていない。


 けれど、待つだけではなくなっている。


 自分の足で探そうとしている。


 その瞬間、イロハの腰の道具袋の奥で、小さく何かが熱を持った。


 《ナギノオモテ》の鍵。


 イロハは、とっさに手を添えた。


 開けてはいけない。


 今ここで開ければ、自分の面の影がサヨの一歩に重なる。


 それでは、また押しつけになる。


 イロハは鍵を握り、静かに息を吐いた。


 開けない。


 今は見る。


 サヨがどこへ足を出すのかを。


 ユラがもう一度鈴を持ち直す。


「では」


 彼女は、少しだけ笑った。


「神楽になる前の、変な一歩を、もう一度やってみます」


 サヨも、ほんの少し笑った。


「見ています」


 その言葉に、ユラの顔が変わった。


 見られることへの怖さが、少しだけ別のものに変わる。


 裁かれるために見られるのではない。

 失敗を数えられるために見られるのでもない。


 見届けられるために見られる。


 ユラは稽古板の端に立った。


 沈黙。


 今度は、正しい沈黙ではなかった。


 少し揺れて、少し息が混じって、少し笑いの気配を含んだ沈黙。


 ユラは足を上げた。


 そして、不格好に踏んだ。


 とん。


 鈴が鳴った。


 りん。


 まだ短い。


 まだ危うい。


 でも、さっきよりも少しだけ澄んでいた。


 サヨは、その音を聞いて、胸元に手を当てた。


 イロハは、サヨの足元を見た。


 サヨはまだ動かない。


 けれど、足袋の先が、ほんのわずかに前へ向いていた。


 舞台に立てぬ皇女は、まだ舞台には上がっていない。


 だが、舞台のほうを向いた。


 それだけで、イロハには十分だった。


 まだ、一歩目ではない。


 けれど、一歩目の前の向きが生まれた。


 その小さな変化を、見逃してはいけない。


 面師として。


 未在面を彫ろうとする者として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ