第三節 ― 舞台に立てぬ皇女
りん、と鳴った鈴の音は、すぐに消えた。
けれど、消えたあとも、稽古板の上には何かが残っていた。
音ではない。
形でもない。
それは、誰かが初めて息を吸ったあとのような、かすかな余白だった。
ユラ=シラビョウは、自分の手の中の鈴を見つめていた。
鳴った。
ほんの短く、かすれて、頼りない音だった。
けれど、鳴った。
白札を貼られた鈴祈舞面の前で、彼女の足は一度だけ動いた。正しい神楽の一歩ではなかった。舞殿の記録に残るような美しい所作でもなかった。
でも、それはユラ自身の一歩だった。
「……こんなの」
ユラは小さく呟いた。
「こんなの、神楽じゃないのに」
声が震えていた。
イロハは、すぐに答えなかった。
神楽ではない、と言えば、ユラを傷つける。
神楽だ、と言えば、白札の現実を無視することになる。
だから、ただ見ていた。
今の一歩が、どこから来たのかを。
ユラの足元。
鈴を握る指。
沈黙を避けるように少し崩した膝。
正しさから一度だけ横へ逸れた、その身体の動き。
それは、灰面長屋の子どもたちの足音に似ていた。
月が来る。
見つける。
踏む。
誰かに教えられた舞ではない。
けれど、怖さに飲まれないための動き。
サヨは、その一歩をじっと見ていた。
彼女の視線は、ユラの顔ではなく、足元に向けられていた。まるで、そこに自分が探しているものが落ちているかのように。
その時、稽古場の入口にいた若い神楽師が、かすかに声を漏らした。
「白影宮の……」
アヤメの視線が鋭く走る。
若い神楽師は、はっと口を閉じた。
だが、もう遅かった。
ユラもその言葉を聞いていた。
彼女はゆっくりとサヨを見た。
御簾姿。
面を持たぬ高貴な気配。
アヤメ=シラハの護衛。
イロハが連れてきた、舞台に立つ役を持たぬ者。
ユラの顔から、血の気が引いた。
彼女は慌てて鈴を置き、膝をつこうとした。
「申し訳ございません。わたし、知らずに」
「やめてください」
サヨの声が、静かに止めた。
強い声ではなかった。
けれど、ユラの膝はその場で止まった。
サヨは一歩だけ近づく。
その一歩に、アヤメがわずかに反応した。
だが、止めなかった。
「今日は皇女として来たのではありません」
ユラは、困惑した顔でサヨを見上げた。
「では、何として」
サヨは、すぐには答えられなかった。
御簾の奥で、唇がわずかに動く。
皇女として。
役名保留候補として。
面を持たぬ者として。
白影宮の主として。
それとも、灰面長屋の子どもたちの足音を聞いた者として。
どれも嘘ではない。
けれど、どれもまだ、サヨ自身の答えではなかった。
彼女は静かに言った。
「……まだ、わかりません」
ユラは目を見開いた。
アヤメの表情が、痛むように揺れる。
イロハは、その言葉を胸の奥で受け止めた。
まだ、わかりません。
サヨは、自分を定義できない。
面がないから。
役名が保留されているから。
皇族面台帳に、自分の役がないから。
けれど、それだけではない。
サヨはもう、誰かに与えられた答えだけで立とうとしていない。
だから、わからない。
自分が何者として立ちたいのかを、まだ探している途中なのだ。
ユラは、膝をつくのをやめ、ゆっくり立ち上がった。
「……わたしも」
鈴を見下ろす。
「わたしも、今は神楽師としては立てません」
サヨは答えた。
「でも、あなたは舞を覚えている」
「覚えています」
ユラは頷く。
「型も、鈴も、袖も、呼吸も。どこで目を伏せて、どこで神前へ向き直るのかも、覚えています」
そこで、彼女は稽古板の端を見た。
「でも、始められないんです」
その言葉が、稽古場に落ちた。
イロハは、ユラを見る。
サヨを見る。
そして、自分の手を見る。
ユラは舞えるが、始められない。
サヨは皇女だが、立てない。
イロハは面を作れるが、押しつけることを恐れている。
三人とも、入口の前にいる。
誰かに背を押されれば進めるかもしれない。
でも、それでは本当に自分の一歩なのか、わからなくなる。
イロハは、そこでようやく自分がこの舞殿へ来た理由を、少し理解した。
ユラの白札をどうにかするためだけではない。
サヨの未在面の輪郭を探すためだけでもない。
自分自身が、面師として何をしてはいけないのかを知るために、ここへ来たのだ。
ユラが言う。
「さっきの一歩は、舞じゃありません」
「はい」
イロハは頷いた。
ユラは少し驚いたようにイロハを見た。
イロハは続ける。
「でも、舞ではないから、無意味というわけでもありません」
「では、何なんですか」
その問いに、イロハはすぐ答えられなかった。
答えを先に与えてはいけない気がした。
ユラの一歩に、名前をつけるのは簡単だ。
未役の足音。
白札の外側の舞。
神楽になる前の動き。
けれど、いま言葉にしてしまえば、その一歩をまたイロハが決めてしまう。
だから、イロハは首を横に振った。
「まだ、わかりません」
サヨが、イロハを見た。
同じ言葉。
けれど、逃げではなかった。
わからないまま見ること。
わからないまま待つこと。
それもまた、面師に必要なことなのかもしれなかった。
ユラは小さく息を吐く。
「みんな、わからないんですね」
「はい」
イロハは少し笑った。
「でも、わからないまま、もう一度見ることはできます」
ユラは鈴を握り直した。
サヨは稽古板の端へ視線を落とす。
そこには、さきほどユラが踏んだ一歩の跡があるように見えた。
もちろん、床に本当に跡が残っているわけではない。
けれど、舞殿の床は覚えているようだった。
正しい神楽ではなかった一歩を。
白札の外側で鳴った、かすかな鈴を。
サヨは、稽古板へ近づいた。
アヤメがすぐに前へ出る。
「サヨ様」
「上がりません」
サヨは言った。
「ただ、近くで見ます」
アヤメはしばらく黙った。
それから、一歩だけ退いた。
サヨは稽古板の端に立つ。
そこは、まだ舞台ではない。
けれど、舞台に入る手前だった。
サヨは足元を見る。
「ここに立つと」
小さく呟く。
「足が、重いのですね」
ユラが頷いた。
「はい」
「白影宮の御簾の前に立つ時とは違います」
「どう違いますか」
ユラが尋ねた。
サヨは考えた。
「御簾の前では、わたしは隠されます。見られないように、そこにいます」
その声は淡々としていた。
「でも、ここでは、見られるために立つのですね」
ユラは黙った。
サヨは続ける。
「見られるために立つのは、少し怖いです」
イロハは、その言葉を聞いた瞬間、鏡ノ客のことを思い出した。
映す者。
見る者。
舞台の外側の観客。
まだ姿はない。
けれど、この舞殿では「見られること」そのものが、役と関わっている。
サヨは面を持たない。
だから、水面にも顔がうまく映らない。
けれど、舞台に立つとは、自分を世界へ映すことでもある。
サヨは、その怖さを今、初めて身体で知ろうとしている。
ユラが静かに言った。
「わたしは、見られるのは好きでした」
少し照れたように笑う。
「神楽師ですから。舞を見てもらえるのは、嬉しいことでした。神に見てもらう。人に見てもらう。舞殿に見てもらう」
けれど、その笑みはすぐに翳った。
「でも、今は怖いです。見られた時に、『ああ、あの子はもう舞えない』と思われるのが怖い」
サヨはユラを見た。
「わたしは、見られた時に、『あの方は面がない』と思われるのが怖いです」
二人の間に、静かな理解が生まれた。
ユラは舞えるが、始められない。
サヨは皇女だが、立てない。
怖いものは違う。
けれど、舞台の手前で足が重くなることは同じだった。
イロハは、その二人を見ていた。
自分は面を作れる。
ユラの面に、仮の入口を置けるかもしれない。
サヨの未在面に、仮の役を彫れるかもしれない。
でも、それをしてはいけない。
少なくとも、今は。
この二人が、どこに足を置きたいのかを知らないままでは。
稽古場の奥で、御簾がまたわずかに揺れた。
鈴棚の鈴は動いていない。
それでも、どこかに笑いの気配がある。
ウズメ=ムゲン命は、まだ姿を見せない。
ただ、舞台の下から、見えない手で床を軽く叩いているようだった。
始めよ、と命じるのではない。
始まるのを、面白がって待っている。
サヨは、ふとユラへ尋ねた。
「ユラ」
「はい」
「舞は、必ず正しい形で始めなければならないのですか」
ユラは困った顔をした。
「神楽としては、そうです」
「では、神楽になる前は」
ユラは言葉に詰まった。
神楽になる前。
それは、舞殿ではあまり問われないことなのかもしれなかった。
舞は作法を持ち、神楽は型を持ち、祭礼は順番を持つ。
けれど、それらになる前の身体の動きは、どこに置かれるのか。
サヨは、自分の足元を見た。
「わたしは、皇女として立つ作法を知りません」
アヤメが小さく息を呑む。
サヨは続けた。
「知る機会も、ありませんでした。面がなかったからです」
声は静かだった。
けれど、痛みがあった。
「でも、皇女になる前の一歩なら、探せるかもしれません」
イロハは、胸が熱くなるのを感じた。
サヨは、まだ答えを持っていない。
けれど、待つだけではなくなっている。
自分の足で探そうとしている。
その瞬間、イロハの腰の道具袋の奥で、小さく何かが熱を持った。
《ナギノオモテ》の鍵。
イロハは、とっさに手を添えた。
開けてはいけない。
今ここで開ければ、自分の面の影がサヨの一歩に重なる。
それでは、また押しつけになる。
イロハは鍵を握り、静かに息を吐いた。
開けない。
今は見る。
サヨがどこへ足を出すのかを。
ユラがもう一度鈴を持ち直す。
「では」
彼女は、少しだけ笑った。
「神楽になる前の、変な一歩を、もう一度やってみます」
サヨも、ほんの少し笑った。
「見ています」
その言葉に、ユラの顔が変わった。
見られることへの怖さが、少しだけ別のものに変わる。
裁かれるために見られるのではない。
失敗を数えられるために見られるのでもない。
見届けられるために見られる。
ユラは稽古板の端に立った。
沈黙。
今度は、正しい沈黙ではなかった。
少し揺れて、少し息が混じって、少し笑いの気配を含んだ沈黙。
ユラは足を上げた。
そして、不格好に踏んだ。
とん。
鈴が鳴った。
りん。
まだ短い。
まだ危うい。
でも、さっきよりも少しだけ澄んでいた。
サヨは、その音を聞いて、胸元に手を当てた。
イロハは、サヨの足元を見た。
サヨはまだ動かない。
けれど、足袋の先が、ほんのわずかに前へ向いていた。
舞台に立てぬ皇女は、まだ舞台には上がっていない。
だが、舞台のほうを向いた。
それだけで、イロハには十分だった。
まだ、一歩目ではない。
けれど、一歩目の前の向きが生まれた。
その小さな変化を、見逃してはいけない。
面師として。
未在面を彫ろうとする者として。




