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第二節 ― 白札の神楽師

 りん、と鳴った音の余韻が、稽古場の板の上に残っていた。


 ユラ=シラビョウは、鈴を持ったまま立ち尽くしている。


 彼女の手の中の鈴は、まだ鳴っていない。指先も動いていない。けれど、舞殿の奥で聞こえた小さな音に、ユラの肩だけがわずかに震えた。


「……今の」


 ユラが呟く。


 イロハは答えなかった。


 答えられなかった。


 ここがウズメの舞殿だから鳴ったのか。

 ユラの中に残っている舞の気配が鳴らしたのか。

 それとも、面箱の中の《ユラノスズ》が、まだ自分は死んでいないと知らせたのか。


 どれとも言えたし、どれとも言えなかった。


 イロハは、開かれた面箱へ視線を落とす。


 鈴祈舞面ユラノスズ


 白札は、面箱の蓋の内側に貼られている。

 仮面籍庁の細い印と、奉納舞参加保留の文字。


 その札は、面そのものには触れていない。


 けれど、面の呼吸を押さえつけているように見えた。


 イロハは指先を伸ばしかけて、止める。


 剥がせない。


 白札を剥がせば、ユラが救われるわけではない。むしろ、仮面籍庁への反抗として扱われ、ユラの立場をさらに悪くするかもしれない。


 たった一枚の紙。


 けれど、その紙の重さを、イロハは思い知っていた。


「イロハさん」


 ユラが、わざと明るい声を出した。


「面ばっかり見ても、つまらないですよ。どうせ白札つきですし」


「つまらなくありません」


「でも、舞えませんよ」


 ユラは笑った。


 けれど、その笑いは頬だけで作られていた。


「白札つきですから」


 その言い方は軽い。


 軽く見せようとしている。


 でも、鈴を握る指が白くなっていた。


 サヨは、それを静かに見ていた。


 面を持たない皇女と、白札によって舞台を止められた神楽師。立場は違う。けれど、どちらも「立てない者」だった。


 イロハは面箱の前から、ゆっくり立ち上がった。


「ユラさん。もう一度、見せてもらえますか」


「舞を?」


「舞ではなく、始めるところを」


 ユラは少し困ったように笑う。


「それができないんですけどね」


「だから、そこを見ます」


 イロハは面を見ない。


 ユラ本人を見る。


 面師としては、面を診るのが当然だった。木目、漆、内側に残った息、紐の擦れ、月痕の深さ。それらを読めば、多くのことがわかる。


 けれど、あのときにイロハは知った。


 面だけを先に見てはいけない時がある。


 面が追いついていない人を、面の側から決めてはいけない時がある。


 今、必要なのは《ユラノスズ》に何を置くかではない。


 ユラが、どこで止まっているのかを見ることだった。


 ユラは稽古板の端に立った。


 足袋の先を揃え、背筋を伸ばす。袖を静かに整え、鈴を持つ手を胸の前へ上げる。その動きは美しかった。無理に思い出しているのではない。身体が覚えている。


 呼吸も乱れていない。


 肩の落とし方。

 腰の入り方。

 視線の置き所。

 袖が空気を含む角度。


 すべてが神楽師のものだった。


 若い神楽師が、入口で小さく息を呑む。


 彼もわかっているのだ。


 ユラは、舞を忘れてなどいない。


 ユラは、ゆっくり息を吸った。


 稽古場が静まる。


 表舞台を掃く箒の音も遠のく。鈴棚の金具が触れ合う音も消える。朝の参道の声も、薄い幕の向こうへ引いていく。


 沈黙。


 神を迎える前の沈黙。


 舞が始まる前に、舞台が息を止める時間。


 ユラの足が、そこで止まった。


 出ない。


 右足の親指に力が入る。

 左足のかかとがわずかに浮きかける。

 けれど、その先へ進めない。


 鈴は鳴らない。


 ユラの唇が震えた。


「ほら」


 その声は、さっきよりも小さかった。


「ここまでは、来られるんです」


 イロハは黙っていた。


「鈴の持ち方も、袖の上げ方も、息の入れ方も、覚えています。次に何をするかも、頭ではわかっています」


 ユラは舞台板を見下ろす。


「でも、踏めない」


 鈴を持つ手が下がる。


「舞が怖いわけじゃないんです。神前が怖いわけでもない。失敗するのが怖いわけでも……たぶん、ない」


 笑おうとする。


 けれど、今度は笑えなかった。


「なのに、始められない」


 イロハは、一歩だけ近づいた。


「ユラさんが失ったのは、舞ではありません」


「……はい」


「型でも、鈴でも、身体でもありません」


「では、何ですか」


 ユラが顔を上げる。


 その目には、答えを求める怖さがあった。


 イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見た。


 白い月痕。


 それは、面の表情を壊しているのではない。


 舞台へ入るための道筋を、途中で噛み切っている。


「神を迎える沈黙へ入る入口です」


 イロハは言った。


 ユラの瞳が揺れる。


「入口……」


「はい。もっと言えば、その沈黙を破って、一歩目を踏む役」


 サヨが、静かに息を呑んだ。


 アヤメも、目を細める。


 イロハは続けた。


「あの時、私は一節だけ仮置きしました。だから、ユラさんは一瞬だけ舞を思い出せた。でも、戻ったのは舞全部ではなくて、消えかけた入口の形だけだったんだと思います」


 ユラは、鈴を見つめた。


「では、私が舞えないのは」


「臆したからではありません」


 イロハは、はっきり言った。


「怠けたからでも、未熟だからでも、神に拒まれたからでもありません。入口を喰われたんです」


 その言葉を聞いた瞬間、ユラの顔が歪んだ。


 泣きそうになって、でも泣かなかった。


 代わりに、鈴を胸に抱いた。


「そう言ってもらえるだけで、少し息ができます」


 声が震えていた。


「みんな優しいんです。誰も私を責めません。けれど、責めないまま、舞台から少しずつ遠ざけてくれる」


 若い神楽師が俯いた。


 ユラは彼を責めるようには見なかった。


「わかっているんです。舞殿を守るためです。神前を乱さないためです。わかっているんですけど」


 鈴が、かすかに震える。


「優しく外されるのも、痛いんですね」


 稽古場に、重い沈黙が落ちた。


 サヨが、ゆっくり口を開く。


「わたしも、似ています」


 ユラがサヨを見る。


「面がないから、公式の儀礼に出られません。誰も怒鳴りません。誰もわたしを責めません。ただ、丁寧に、わたしのためだと言って、わたしの立つ場所を空白にします」


 サヨの声は静かだった。


「優しく外される痛みは、少しだけわかります」


 ユラは、しばらくサヨを見ていた。


 それから、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありません」


「でも、言わせてください」


 ユラは小さく笑った。


 今度の笑みは、少しだけ柔らかかった。


 イロハは、二人を見つめながら、自分の手を握った。


 仮置きしたい。


 ユラの入口に、もう一度仮の役を置きたい。


 そうすれば、一歩くらいは戻せるかもしれない。


 けれど、あの水桶の前で決めたはずだった。


 勝手には決めない。


 救うためと言って、相手の役をこちらで置かない。


 ユラには戻すべき役がある。

 それでも、今ここでイロハがまた一方的に入口を置けば、ユラは「イロハが戻した一歩」を踏むことになる。


 それは本当にユラの一歩だろうか。


 イロハは、伸ばしかけた手を下ろした。


「今日は、仮置きはしません」


 ユラが目を瞬かせる。


「しないんですか」


「はい」


「じゃあ、私は」


「ユラさん自身が、踏める入口を探します」


「そんなの」


 ユラは笑いかけた。


 けれど、その笑いは途中で止まる。


「……そんなの、あるんでしょうか」


「わかりません」


 イロハは正直に答えた。


「でも、仮に置いた入口ではなく、ユラさんの足が見つける入口を見たいんです」


 ユラは黙った。


 その沈黙は、さっきの舞の沈黙とは違っていた。


 少し戸惑い、少し怖がり、それでもかすかに何かを探し始める沈黙。


 サヨが稽古板を見た。


「灰面長屋では」


 その言葉に、イロハは顔を上げる。


 サヨは続けた。


「あの子たちは、正しい舞を知りませんでした。鈴もなく、面もなく、神前でもありませんでした」


 ユラは、静かに聞いている。


「でも、月が来ると言って、見つけて、踏んでいました」


「月を……踏む?」


「はい」


 サヨの声に、ほんの少し温かさが混じった。


「舞ではないのかもしれません。神楽でもないのかもしれません。でも、始まりではありました」


 ユラは、稽古板を見下ろした。


 正しい一歩。


 神を迎える沈黙。


 白札。


 舞殿の決まり。


 すべてが、彼女の足を縛っている。


 サヨは問う。


「正しい一歩でなくても、始めることはできますか」


 その問いが、稽古場の板の上に落ちた。


 誰もすぐには答えなかった。


 舞殿の奥で、また小さく、りん、と音がした。


 今度も、誰の鈴も鳴っていない。


 けれどユラは、確かにその音を聞いたようだった。


 彼女は、ゆっくりと息を吸う。


 鈴を構える。


 けれど、今度は神前の型に入らなかった。


 足を揃えすぎない。


 袖を整えすぎない。


 正しい沈黙を待ちすぎない。


 まるで灰面長屋の子どもたちが、月を踏む前に少し跳ねたように。


 ユラは、ほんのわずかに膝を緩めた。


 そして。


 とん。


 稽古板が鳴った。


 鈴は、まだ鳴らない。


 けれど、ユラの足は出た。


 正しい神楽の一歩ではなかった。


 舞殿の記録に残るような美しい型でもなかった。


 少しずれた、不格好な、けれど確かにユラ自身の一歩だった。


 ユラは、自分の足を見つめる。


「……出た」


 声が震えていた。


 イロハは、息を止めたまま頷いた。


「はい」


「でも、こんなの、神楽じゃありません」


「まだ、神楽になる前の動きです」


 その言葉を言った瞬間、舞殿の御簾が、風もないのにふわりと揺れた。


 奥の暗がりで、誰かが笑ったような気がした。


 嘲笑ではない。


 許しでもない。


 始まった、と告げる笑い。


 ウズメ=ムゲン命の気配が、稽古板の下から、舞殿全体へ静かに広がっていく。


 ユラの手の中で、鈴が小さく鳴った。


 りん。


 今度は、本当に鳴った。


 かすれて、短く、途中で切れそうな音。


 それでも、確かにユラの鈴だった。

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