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第一節 ― ウズメの舞殿

 ウズメの舞殿は、朝の光の中で、静かに開かれていた。


 灰面長屋の奥にあった舞台板は、板が三枚、地面より少し高く渡されただけのものだった。釘は錆び、端は欠け、足を置けばぎしりと鳴った。けれどそこには、面を持たぬ子どもたちの笑い声があり、月を踏む足音があった。


 ここは、違う。


 朱塗りの舞台は広く、磨かれた床は朝日を薄く返している。黒漆の柱は舞台を支えるように四隅に立ち、神前の御簾は奥深く垂れていた。御簾の向こうは見えない。だが、そこに何かがいると思わせる静けさがあった。


 舞台の脇には鈴棚がある。


 大小さまざまな鈴が、朱紐に結ばれて並んでいた。祭礼用の大鈴、神楽師が手に持つ小鈴、足首に結ぶ細鈴。どれもよく磨かれ、触れられるのを待っているようだった。


 さらに奥には、舞面の蔵があった。


 白木の扉に、舞扇と笑みの文様が彫られている。扉の前には香が焚かれ、舞に使われる面たちは、神前に出る前の眠りについているように静まり返っていた。


 すべてが整っていた。


 すべてが清められていた。


 だからこそ、イロハには、灰面長屋の壊れた板の音がよけいに思い出された。


 とん、とん。


 不揃いで、軽くて、けれど確かにそこにいると知らせる足音。


 サヨも、同じ音を思い出しているのかもしれなかった。


 彼女は舞殿の広さにも、鈴棚の美しさにも、面蔵の格式にも、すぐには目を奪われなかった。


 ただ、舞台の床を見ていた。


 磨かれた白木の床。


 無数の神楽師が踏み、滑り、回り、膝をつき、また立ち上がった場所。


 サヨは、その床が何かを待っているように見えたのだろう。


 踏まれるのを。


 足音を。


 まだ役の名になっていない、最初の一歩を。


「サヨ様」


 アヤメが小さく呼んだ。


 サヨは、はっとしたように顔を上げた。


「申し訳ありません」


「いえ。ただ、あまり長く見つめていると目立ちます」


 アヤメの声は低い。


 護衛として当然の警戒だった。


 舞殿には、すでに人の気配があった。朝の清掃をする者、鈴を点検する者、舞台袖で袖布を畳む者、面蔵の前で帳面を開く者。彼らはみな、イロハたちに気づいている。


 イロハは中級面師の札を出していた。


 だから門前で止められることはなかった。


 けれど、サヨの存在は目立った。


 女房姿に身を隠してはいる。白影宮の名も伏せている。だが、彼女の立ち方、視線の静けさ、周囲の空気が自然と道を空ける感じは、どうしてもただの女房には見えない。


 舞殿の者の中には、それに気づいて深く頭を下げる者もいた。


 おそらく、白影宮の関係者だと察した者だ。


 一方で、正体までは知らない若い者たちは、御簾を纏うサヨを不審そうに見ていた。


 面を持たぬ者が、舞殿にいる。


 その違和感は、言葉にされなくとも空気に滲んでいた。


 イロハは、その視線を感じて唇を引き結んだ。


 ここでも同じだ。


 白影宮でも、灰面長屋でも、仮面籍庁でも、舞殿でも。


 人はまず、面を見る。


 面がない者は、何者としてそこにいるのかを問われる。


 舞殿の奥から、若い神楽師が一人近づいてきた。


 淡い朱の稽古装束に、まだ正式な舞面はつけていない。腰に小さな鈴を結び、髪を後ろでまとめている。年はユラと近いだろう。彼は礼儀正しく一礼した。


「面師イロハ=ナギ様ですね。お話は伺っております」


「はい。白化面の件で、少し見せていただきたいものがあって来ました」


「承っております」


 若い神楽師はそう言ったが、目がサヨのほうへ一瞬だけ流れた。


 アヤメがすぐに半歩前へ出る。


「同行者です」


「失礼いたしました」


 神楽師は深く頭を下げた。


 その丁寧さは、嘘ではなかった。


 けれど、警戒も消えなかった。


 ここは舞殿だ。


 誰でも入れる市場ではない。


 神前に立つ者、舞面を扱う者、神楽に関わる者。そのすべてに役と作法があり、面と資格がある。


 イロハは、その格式を責めるつもりはなかった。


 神域を守るには、境界がいる。


 だが、境界はときに、人を外へ押し出す。


「ユラ=シラビョウさんは、いらっしゃいますか」


 イロハが尋ねると、若い神楽師の表情がわずかに曇った。


「ユラは……今は表舞台には出ておりません」


「白札の件ですか」


 神楽師はすぐには答えなかった。


 舞台のほうを一度見た。


 それから、小さく頷く。


「決まりですので」


 その言葉は、アリノリ=シジョウの「規定です」と同じ種類の冷たさを持っていた。


 ただし、ここには悪意がない。


 若い神楽師は、ユラを責めているわけではない。むしろ、痛ましそうだった。だが、白札を貼られた面を持つ者を、神前の表舞台へ立たせることはできない。


 神を迎える舞台だから。

 祭礼を乱せないから。

 舞殿を守らなければならないから。


 そのすべては、きっと正しい。


 正しいからこそ、ユラは舞台から遠ざけられている。


 イロハの胸に、小さな怒りが灯った。


 怒りというより、痛みだった。


「ユラさんは、舞えないわけではありません」


 イロハが言うと、若い神楽師は目を伏せた。


「存じています」


「なら」


「ですが、神を迎える沈黙に入れない舞を、神前へ出すわけにはいきません」


 その言葉に、空気が止まった。


 アヤメが少しだけ視線を鋭くする。


 サヨは黙って聞いていた。


 イロハは、若い神楽師を見た。


 彼は後悔したように唇を引き結んでいた。


 傷つけるために言ったのではない。

 だが、それでも言わなければならない立場だった。


「……すみません」


 神楽師は小さく頭を下げた。


「我々も、ユラに戻ってほしいと思っています。ただ、舞殿としては」


「わかります」


 イロハは、ゆっくり答えた。


 本当は、完全にはわからない。


 でも、ここで責めても何も進まない。


「ユラさんに会わせてください」


「はい。奥の稽古板におります」


「稽古板?」


「正式な舞台ではありません。神前へ出す前の稽古場です」


 その言葉に、サヨがわずかに顔を上げた。


 正式な舞台ではない場所。


 灰面長屋の小さな舞台板と、どこか響き合う言葉だった。


 若い神楽師は、イロハたちを舞殿の脇へ案内した。


 大舞台の横を通る。


 床は磨かれ、足袋で歩くだけでも音が吸い込まれるようだった。イロハは思わず足元を見た。ここを、いくつもの役が踏んできたのだろう。神楽師、舞姫、祝詞を読む者、鈴を鳴らす者、面をつけて神を迎える者。


 踏むたびに、床がその役を覚える。


 ならば、踏ませてもらえなかった者の足音は、どこへ行くのだろう。


 サヨも同じことを考えているようだった。


 彼女の視線は、舞台の端を追っていた。


 中央ではない。


 神前に最も近い場所でもない。


 舞台の端。


 そこは、舞に入る者が最初に足を置く場所だった。


 舞殿の裏へ回ると、空気が少し変わった。


 表舞台の香と格式の匂いが薄れ、代わりに汗、木粉、古い布、鈴の金属臭が混じった匂いがした。


 稽古用の板床がある。


 大舞台ほど広くはない。だが、灰面長屋の舞台板よりはずっと整っている。壁には稽古用の鈴、布、古い舞扇が掛けられ、隅には面箱がいくつも並んでいた。


 そのひとつに、白札が貼られていた。


 イロハはすぐにわかった。


 ユラの鈴祈舞面ユラノスズだ。


 面箱の前に、ユラ=シラビョウが座っていた。


 彼女は膝の上に鈴を置き、指先で紐を撫でている。以前見た時よりも、少し痩せたように見えた。けれど、イロハに気づくと、ぱっと顔を上げて笑った。


「イロハさん」


 その笑顔は明るい。


 明るくあろうとしている。


「来てくれたんですね」


 イロハは、少し胸が痛くなった。


「はい。診に来ました」


 ユラは面箱に貼られた白札を見て、肩をすくめた。


「舞えませんよ。白札つきですから」


 軽い口調だった。


 でも、その手は鈴の紐を強く握っていた。


 サヨが、静かにユラを見ていた。


 ユラもサヨに気づき、立ち上がろうとした。


 その動きの途中で、何かを察したのか、彼女の表情が変わる。


 御簾姿。

 アヤメの護衛。

 そして、面を持たぬ高貴な気配。


 ユラは慌てて膝をつこうとした。


 サヨが、それを止めた。


「今日は、そのような礼は不要です」


「ですが」


「わたしも、舞台に立つ役を持たぬ者として来ました」


 ユラは、言葉を失った。


 イロハも、少し驚いた。


 サヨは自分を皇女とは名乗らなかった。


 けれど、自分の欠落は隠さなかった。


 舞台に立つ役を持たぬ者。


 その言葉は、ユラの胸にも届いたようだった。


 ユラはゆっくり座り直す。


「……それなら、少しだけ気が楽です」


 そう言って笑った。


 今度の笑みは、さっきよりも本当のものに近かった。


 イロハは面箱の前に膝をついた。


 白札は、きれいに貼られている。


 鈴祈舞面ユラノスズ


 使用停止。

 奉納舞参加保留。


 文字は細く、整っていた。


 だが、その下にある面の息を、イロハは知っている。


 白化し、噛まれ、それでも完全には死んでいない面。


 イロハは白札に触れず、面箱の縁にだけ指を添えた。


 剥がしてはいけない。


 剥がせば、ユラがさらに不利になる。


 制度の札は、紙でできているのに重い。


「開けてもいいですか」


 イロハが尋ねると、ユラは頷いた。


「はい」


 面箱が開かれる。


 中には、白化の痕を残した舞面が眠っていた。


 本来なら、鈴の音に似た明るさを持つ面だったのだろう。口元には柔らかな笑みがあり、目元には舞い出す直前の静けさがある。


 けれど、その目元から頬にかけて、薄い月痕が走っていた。


 白い噛み跡。


 以前見た時よりも、少しだけ深くなっている気がした。


 イロハは息を詰めた。


 仮置きした一節は、完全に残ってはいない。


 けれど、消えきってもいなかった。


 面の奥に、かすかな足音のようなものが眠っている。


 サヨが、面を覗き込んだ。


「この面は、まだ舞台を覚えていますね」


 ユラが驚いたようにサヨを見た。


「わかるんですか」


「少しだけ」


 サヨは静かに答えた。


「けれど、舞台へ戻る道が、途中で白くなっています」


 イロハは胸の奥が震えた。


 その見方は、面師の診断ではない。


 だが、正しい。


 ユラが喰われたのは、舞の技術ではない。

 神を迎える沈黙へ入る入口。

 舞台へ戻る道の、最初の白い部分。


「ユラさん」


 イロハは言った。


「少し、身体を見せてもらえますか」


「身体?」


「舞を忘れていないか、確認したいんです」


 ユラは苦笑した。


「忘れてはいません」


「はい。だから、確認します」


 ユラはしばらく黙った。


 やがて、鈴を手に取る。


 小さな鈴だった。


 細い朱紐がついている。


 ユラが立ち上がると、周囲の空気がわずかに変わった。


 彼女は確かに神楽師だった。


 足の置き方。

 腰の高さ。

 袖の扱い。

 鈴を持つ指の力。


 どれも、身体に染みついている。


 ユラは稽古板の端に立った。


 サヨが、じっと見つめる。


 アヤメは周囲を警戒しつつも、視線の端でユラの足を追っていた。


 若い神楽師は、入口近くで息を止めている。


 ユラは鈴を構えた。


 沈黙が落ちる。


 本当に、落ちたようだった。


 舞殿の裏の稽古場から、音が消えた。


 遠くの参道の声も、鈴棚の気配も、表舞台を掃く音も、すべて薄くなる。


 神を迎える前の沈黙。


 その手前で、ユラの足が止まった。


 動かない。


 足袋の先が、板に触れたまま動かない。


 ユラの肩が震える。


 鈴は、鳴らなかった。


「……ほら」


 ユラは、小さく笑った。


 笑おうとして、できなかった。


「ここまでは来られるんです。でも、ここから先に行けない」


 イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見た。


 月痕が、かすかに白く光ったように見えた。


 サヨは、稽古板の端を見ている。


 大舞台ではない。

 神前でもない。

 それでも、ここにも入口がある。


 ユラが入れない入口。


 サヨがまだ知らない入口。


 イロハが、勝手に役を置いてはいけない入口。


 その時、舞殿の奥で、かすかに鈴が鳴った。


 りん。


 誰も鈴を動かしていない。


 ユラの鈴も、まだ鳴っていない。


 それでも、確かに音はした。


 若い神楽師が顔を上げる。


 アヤメがわずかに身構える。


 サヨは、静かに舞台の床を見た。


 イロハは、その音を胸で聞いた。


 ウズメの舞殿は、まだ何も語らない。


 けれど、黙ってはいなかった。

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