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序節 ― 舞台へ向かう朝

 舞台とは、許された者だけが立つ場所ではない。


 立てなかった者の足音を、床下に溜めておく場所でもある。


 面を持つ者は、役を舞う。

 面を持たぬ者は――さて、何を踏むのだろう。


 帝都カミザの朝は、薄い金色をしていた。


 夜の名残を抱いた瓦の上に、淡い光が滑っていく。白木の回廊はまだ冷たく、黒漆の門には朝露が細く光っていた。遠くで役面市の支度をする声が聞こえ、面師小路のほうからは、木粉と漆と湯気の匂いが流れてくる。


 けれど、イロハの耳には別の音が残っていた。


 とん、とん。


 灰面長屋の奥、壊れた小さな舞台板を踏む、子どもたちの足音。


 月を踏む遊び。


 神楽でもなく、祭礼でもなく、誰かに許された舞でもない。

 それでも、そこには確かに「始まり」があった。


 あの音を、サヨも聞いていた。


 御簾車の中、女房姿に身を隠したサヨ=ミカゲは、薄布越しに外を見ていた。白影宮の皇女としての装いではない。髪飾りも控えめで、袖の色も沈められている。だが、その静かな座り方だけは、どんな衣をまとっても隠しきれなかった。


 アヤメ=シラハは、車のそばを歩いていた。


 表向きは、面師イロハの調査に付き添う護衛。

 白影宮の名は伏せられている。


 けれど、アヤメの足取りには朝から緊張があった。


「白影宮外の公式儀礼参加は止められています」


 低い声だった。


 人目を避けるため、通りの角を曲がったところで、アヤメはようやくそう言った。


 イロハは御簾車の横を歩きながら、少しだけ肩をすくめる。


「参加ではありません。見るだけです」


「見ることも、時には儀礼になります」


 アヤメの返答は早かった。


 それは護衛としての警戒だけではない。以前の審査以来、仮面籍庁がどこに目を光らせているか、誰にもわからなかった。


 ユラの鈴祈舞面ユラノスズは使用停止。

 ハルマサの暁刃戦面アカツキノハは封役。

 セイランの記録は仮記録扱い。

 イロハは白影宮への単独出入りを制限され、サヨは役名保留候補とされた。


 そこへ、ウズメの舞殿。


 舞、面、神前、役。


 どれも、仮面籍庁が目を向けるには十分すぎる言葉だった。


 御簾の向こうから、サヨの声がした。


「なら、なおさら見なければ」


 アヤメは一瞬、言葉を失った。


「サヨ様」


「わたしは、舞に参加するのではありません。神前に立つのでもありません。ただ、見るのです」


「ですから、その見ることが」


「役になる前の動きを」


 サヨの声は静かだった。


 けれど、その中に昨日までとは違う芯があった。


「灰面長屋で、面を持たない子どもたちは、舞台板を踏んでいました。誰に許されたわけでもないのに。どの台帳にも書かれていないのに」


 イロハは、その言葉に胸を押された。


 とん、とん。


 あの足音が、また聞こえた気がした。


 サヨは続ける。


「あの子たちは、面が追いつく前に足を鳴らしていました。ならば、わたしも知らなければなりません。面が作られる前に、何が始まるのかを」


 アヤメは黙った。


 反論はあったはずだ。


 危険だ。

 軽率だ。

 仮面籍庁に知られれば処分材料になる。

 白影宮へ戻ってからでも話し合える。


 だが、そのどれも口にしなかった。


 サヨは、もう白影宮の奥で待つだけの皇女ではなくなりつつあった。


 アヤメは、それを誰より近くで見ている。


「……見るだけです」


 やがて、アヤメはそう言った。


「舞台には上がらないでください」


 サヨは、少しだけ間を置いた。


「約束はできません」


「サヨ様」


「でも、無理には上がりません」


 アヤメは深く息を吐いた。


「その違いが、私には一番怖いのですが」


 イロハは思わず苦笑した。


 けれど、その笑いはすぐに消えた。


 自分も、怖かった。


 サヨを舞殿へ連れていくことが怖い。

 ウズメの気配に触れることが怖い。

 ユラの白札をもう一度見ることが怖い。

 そして何より、サヨの面に必要なものを本当に見てしまうことが怖かった。


 あの夜、鏡ノ客は問うた。


 救うのか。

 作り変えるのか。


 イロハはまだ答えを持っていない。


 ただ、「勝手には決めない」とだけ答えた。


 ならば、見なければならない。


 サヨが自分でどこへ足を出そうとするのか。

 役になる前の動きが、どこから生まれるのか。


 面を彫る前に。


 線を引く前に。


 帝都の道は、やがて舞殿へ続く参道へ変わった。


 ウズメの舞殿は、帝都カミザの内でも古い神域に属している。天帝宮ほど高くはない。白影宮ほど静かでもない。だが、そこには別の種類の気配があった。


 朝から参道には人がいた。


 舞面を納めに来た神楽師。

 鈴を修理する職人。

 祭礼用の布を運ぶ若者。

 祈面を抱えた女。

 舞を習う子どもたち。


 みな、それぞれの面を持っている。


 面を抱く者。

 面箱を背負う者。

 すでに面をつけている者。


 その中で、サヨだけが面を持たない。


 御簾車の中にいても、イロハにはそのことが痛いほどわかった。


 周囲の人々は、サヨの正体を知らない。

 けれど、何かを感じるのか、御簾車が通ると少しだけ道を空けた。


 アヤメが小さく警戒を強める。


 イロハは、サヨの横顔を見た。


 薄布越しの顔は、まだ水面のように曖昧だった。

 けれど、昨日と違っていた。


 映らない者ではない。


 まだ面が追いついていない者。


 そう思えるようになっただけで、イロハの中の見え方は変わっていた。


 参道の途中、小さな水鉢があった。


 参詣者が手を清めるためのものだ。


 水面に、朝の空が映っている。


 イロハは足を止めかけた。


 白い半面が映るのではないかと思った。


 しかし、何も映らなかった。


 ただ、揺れる空と、参道の鳥居の影と、イロハ自身の顔が映っているだけだった。


 ほっとしたはずなのに、少しだけ物足りない。


 見られていないことが、かえって不安になる。


 エル=ネフリドは、現れなかった。


 ウズメの舞殿へ向かう道では、鏡の客よりも先に、舞台の神が待っているのかもしれなかった。


 やがて、朱塗りの鳥居が見えてきた。


 朝日を受けた朱は、燃えるようではなく、舞台の幕がゆっくり上がる前の色に似ていた。


 その奥に、黒漆の柱と白木の床を持つ大きな舞殿がある。屋根の端には金の鈴が吊るされ、風もないのに、ほんのかすかに揺れていた。


 りん、と音がした。


 実際に鳴ったのか、耳の奥で鳴ったのか、イロハにはわからなかった。


 サヨが御簾の内側で顔を上げる。


「今の音」


「聞こえましたか」


「はい」


 アヤメも眉を寄せている。


「鈴は、鳴っていないように見えます」


 イロハは舞殿を見た。


 鈴は揺れている。


 けれど、音を出すほどではない。


 それでも、確かに聞こえた。


 鈴のない鈴の音。


 灰面長屋の小祠でも聞いた音。


 ウズメ=ムゲン命の気配が、朝の舞殿の床下から、静かに立ち上がっている。


 イロハは息を吸った。


 木の匂い。

 古い漆の匂い。

 焚きしめられた香の匂い。

 そして、何度も踏まれて磨かれた舞台板の匂い。


 ここには、無数の足音が眠っている。


 許された者の足音。

 役を持つ者の足音。

 神を迎えた者の足音。


 そして、もしかしたら。


 立てなかった者の足音も。


 サヨが御簾車から降りる。


 アヤメがすぐに手を添えた。


 サヨは舞殿を見上げた。


 昨日、灰面長屋の壊れた舞台板を見た時と同じように。


 けれど、その目は少し違っていた。


 圧倒されているのではない。

 ただ、問うている。


 面がなくても、ここで一歩を踏めるのか。


 自分は何を踏めばよいのか。


 イロハは、その横に立った。


「行きましょう」


 サヨは頷いた。


「はい」


 朱の鳥居をくぐる。


 その瞬間、舞殿の奥の御簾が、風もないのにわずかに揺れた。


 誰かが笑ったような気がした。


 まだ幕は上がっていない。


 けれど、舞台はもう、こちらを見ていた。

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