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終節 ― 映らぬ者も、ここにいる

 夕暮れが、灰面長屋の屋根を低く染めていた。


 白影宮へ戻るには、もう遅い時刻だった。


 それでも、サヨは急ごうとしなかった。アヤメは何度か空の色を見上げたが、最終的には何も言わなかった。ただ、御簾車の周囲と路地の影を確かめながら、サヨの歩幅に合わせていた。


 灰札の先触れが去った後も、長屋には薄い不安が残っていた。


 戸板の上の古面には、まだ布がかけられている。割れた生面を抱いて泣いていた女は、ようやく奥へ戻った。ゴウラは店先に座り直したが、いつものように面を磨く手つきには戻っていなかった。


 それでも、舞台板のほうからは、子どもたちの足音が聞こえていた。


 とん、とん。


 とん、たたん。


 月を踏む遊び。


 面を持たない子どもたちが、まだ役になる前の動きを、壊れた板の上で鳴らしている。


 イロハは、その音を聞きながら、古井戸のそばに戻った。


 濁った水桶は、まだそこにあった。


 さきほど白い半面が浮かんだ水。


 ミツとサヨの顔を、はっきり映さなかった水。


 ミツは、借り物の面を胸に抱いたまま、少し緊張した顔で立っている。面紐は直した。右耳の後ろの擦れも、今日はこれ以上ひどくならないはずだ。


 だが、それでこの子の顔がすぐに水へ映るわけではない。


「もう一度、見てもいい?」


 イロハが尋ねると、ミツは小さく頷いた。


「うん」


 水桶の前に、ミツが立つ。


 イロハとサヨも、そっと覗き込んだ。


 水面は夕暮れの色を映していた。


 灰色の空。

 長屋の軒。

 古井戸の欠けた縁。

 イロハの顔。

 アヤメの立ち姿。


 それらは、揺れながらも映っている。


 けれど、ミツの顔だけは、やはりはっきりしなかった。


 借り物の面の輪郭は見える。


 目元も、頬も、紐も見える。


 だが、そこにミツの顔としての芯がまだ通っていない。水の中で輪郭が揺れ、少し油を落としたようにぼやけている。


 ミツは、少し唇を尖らせた。


「まだ、ぼやけてる」


「うん」


 イロハは頷いた。


「でも、消えてはいない」


 ミツは、水面をじっと見た。


 ぼやけた顔。


 曖昧な輪郭。


 けれど、そこには確かに何かがある。


「ちょっといる」


「そう。ちょっといる」


 イロハは、静かに言った。


「映らないんじゃない。まだ、面が追いついていないだけです」


 それは、ミツへ向けた言葉だった。


 けれど、同時にサヨへ向けた言葉でもあった。


 サヨは、水面を覗き込んだ。


 ミツの横に、サヨの姿が映る。


 薄布。

 女房姿。

 隠した髪飾り。

 白影宮の香を薄く残した袖。


 けれど、やはり顔ははっきりしない。


 髪の線も、肩の形も映っている。そこにいることはわかる。だが、顔だけが水の中で定まらない。


 サヨは、しばらく自分の曖昧な反射を見つめていた。


 そして、静かに言った。


「では、わたしの面も」


 イロハは、サヨを見た。


「はい」


 言葉はすぐに出た。


「追いつかせます」


 サヨの目が、薄布の奥でかすかに揺れる。


 イロハは続けた。


「けれど、押しつける面にはしません」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが定まった。


 サヨの面を作る。


 それは、王朝に認めさせるためだけの面ではない。


 仮面籍庁に白札を剥がさせるためだけの面でもない。

 アリノリ=シジョウの《コトサダメ》に判定させるためだけの面でもない。

 白影宮の空の棚を埋めるためだけの面でもない。


 それでは、足りない。


 制度に認めさせるだけでは、サヨを救ったことにはならない。


 サヨ自身が、何者として立つのか。


 何を覚え、何を見て、どんな足音をこの国に響かせるのか。


 それを選べる余白を持つ面でなければならない。


 役を押しつける面ではなく、まだない役を選ぶための面。


 イロハは、ようやくその輪郭に触れた気がした。


 水桶の底が、ふっと白く揺れた。


 アヤメが即座に身構える。


 サヨは動かなかった。


 ミツは、面を胸に抱いたまま、イロハの袖を掴む。


 濁った水の奥に、白い半面が一瞬だけ浮かんだ。


 鏡ノ客。


 今度も、恐ろしいほど静かだった。


 夕暮れの水面の奥で、その半面は、誰の顔でもないままこちらを見ていた。


 声が響く。


「ならば、彫る者よ」


 水が揺れた。


「救うのか」


 イロハの喉が乾く。


「作り変えるのか」


 答えは、なかった。


 少なくとも、今のイロハの中には、まだなかった。


 救うことと、変えること。


 その境目は、簡単に線を引けない。


 ロウセツは、幼いイロハを救った。


 けれど、その救いの中には、イロハを作り変えたものが含まれていたかもしれない。


 イロハがサヨの面を作る時も、同じ危うさを避けては通れない。


 面を彫るとは、人の顔に触れることだ。


 顔に触れるとは、その人の世界での立ち方に触れることだ。


 ならば、怖くないはずがない。


 イロハは、水面の白い半面を見つめた。


 逃げたくなった。


 けれど、逃げなかった。


「まだ、わかりません」


 声は震えていた。


 それでも、はっきり言った。


「でも、勝手には決めません」


 白い半面は、沈黙した。


 イロハは続けた。


「救うと言って、相手の役を私が決めることはしません。作ると言って、その人の余白を削り落とすこともしません」


 水面が小さく波打つ。


「見ます。聞きます。待ちます。その人がどこへ立ちたいのか、どんな足音を鳴らすのか。それを知らないまま、彫りません」


 白い半面は、ほんの少しだけ傾いた。


 笑ったようにも見えた。


 泣いたようにも見えた。


 やがて、その輪郭は水の底へ溶けていった。


 後に残ったのは、夕暮れの空と、ぼやけたミツの顔と、曖昧なサヨの顔。


 そして、そこに並んで映るイロハの顔だった。


 イロハ=ナギ。


 《ナギノオモテ》を持つ面師。


 救われた者。


 変えられたかもしれない者。


 それでも今、誰かの面を彫ろうとしている者。


 サヨが、静かに言った。


「その答えで、今はよいのだと思います」


 イロハは、サヨを見た。


「よいのでしょうか」


「わかりません」


 サヨは少しだけ微笑んだ。


「けれど、勝手に決めないと言ってくれる面師に、わたしは作ってほしいです」


 その言葉は、イロハの胸へ深く染みた。


 アヤメが小さく息を吐く。


「危うい話です」


「はい」


 イロハは頷いた。


「でも、危うくない面なんて、たぶんありません」


 アヤメは少し黙った。


 そして、珍しく柔らかい声で言った。


「ならば、その危うさを忘れないでください」


「はい」


 ミツが水桶を覗きながら言った。


「ぼくの面も、勝手に決めない?」


「決めない」


「じゃあ、ぼくが決めるの?」


「一緒に見る」


 イロハは答えた。


「ミツがどう歩くのか、この面がどう追いつくのか、一緒に見る」


 ミツは、少し考えた。


「じゃあ、明日も転ばないように歩く」


「それは大事だね」


「でも、ちょっと転んだら、面も覚える?」


「覚えると思う」


 ミツは満足そうに頷いた。


 その時、遠くから足音が聞こえた。


 壊れた小さな舞台板のほうだ。


 とん、とん。


 とん、たたん。


 子どもたちは、まだ遊んでいる。


 月を踏む遊び。


 面を持たないまま、足で自分を知らせる遊び。


 夕暮れが夜へ変わろうとしているのに、その音だけは明るかった。


 サヨは、御簾車へ向かいかけていた足を止めた。


 薄布の向こうで、舞台板のほうを振り返る。


「イロハ」


「はい」


「次は、舞を見たいです」


 イロハは、舞台板の足音を聞いた。


 鈴のない鈴の音が、またどこかで鳴ったような気がした。


 ウズメの小祠は壊れていた。


 けれど、完全に眠っているわけではないのかもしれない。


 正規の舞殿でなくても、面を持たぬ者の足音に、神は耳を澄ませることがある。


「ウズメの舞殿へ行きましょう」


 イロハは答えた。


「面をつけて舞うためだけではなく、面が生まれる前の動きを見るために」


 サヨは静かに頷いた。


「はい」


 アヤメは、少し心配そうな顔をした。


「白影宮の外出許可は、簡単には」


「公式儀礼ではありません」


 サヨが穏やかに言う。


 アヤメは眉を寄せた。


「またその理屈ですか」


「はい」


「……私の胃が持ちません」


 その言葉に、イロハは思わず少し笑った。


 サヨも、薄布の奥で笑ったようだった。


 灰面長屋の入口まで戻ると、ゴウラが店先から声をかけた。


「面師」


 イロハは振り返る。


 ゴウラは、古い片目の職面を手にしていた。


「また来い」


「はい」


「今度は、親方も連れてこい。あの馬鹿に聞きたいことが山ほどある」


 イロハは苦笑した。


「私もです」


 ゴウラは、ふっと笑った。


「なら、ちょうどいい」


 御簾車がゆっくり動き出す。


 イロハは最後に、灰面長屋を振り返った。


 吊るされた欠け面。

 煤けた面箱。

 濁った水桶。

 壊れた小祠。

 小さな舞台板。


 そして、そこから聞こえる足音。


 映らぬ者も、ここにいる。


 水面にはぼやけても、台帳には載らなくても、面が追いついていなくても。


 ここにいる。


 イロハは、その音を胸に刻んだ。


 サヨの面に必要なものが、少しだけ見えた。


 それは、王朝が与える役ではない。


 仮面籍庁が定める役でもない。


 まだ誰にも決められていない場所で、自分の足を鳴らすための余白。


 その余白を、どう彫るのか。


 答えはまだない。


 けれど、次に見るべき場所は決まった。


 ウズメの舞殿。


 面が役を与える前に、舞が何を呼ぶのか。


 それを見なければならない。


 灰面長屋の夜風が、欠け面を揺らす。


 からから、と小さな音がした。


 それは、舞台の外で鳴る鈴のようだった。

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