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第九節 ― 小さな舞台板

 灰面長屋の奥に、その板はあった。


 舞台と呼ぶには、あまりにも小さい。


 四方を囲む幕もない。

 朱塗りの欄干もない。

 神前へ続く白砂もない。

 笛方も太鼓方もいない。


 ただ、古い板が三枚、地面より少し高く渡されているだけだった。


 片隅は割れ、釘は錆び、雨に濡れた跡が黒く染みになっている。板の下には、子どもたちが拾ってきた石や木片が詰められ、傾かないように支えられていた。


 その奥に、小さな祠があった。


 祠というより、かつて祠だったもの、と言うべきかもしれない。


 屋根は半分落ち、扉は片方なく、朱の色もほとんど剥げている。だが、扉の内側には、かすかに舞扇の文様が残っていた。


 ゴウラが、低く言った。


「昔はここにも、ウズメの小祠があった」


 サヨが振り返る。


「ウズメの」


「ああ。正規の舞殿に上がれねえ者たちが、ここで足を鳴らした。祭礼に呼ばれなかった者、面を失った者、役が合わなくなった者。そういう連中がな」


 イロハは、壊れた舞台板を見つめた。


 正規の舞台ではない。


 記録に残る祭礼でもない。


 けれど、ここにも舞があったのだ。


 面を持たぬ者たちの舞。


 役からこぼれた者たちの足音。


 子どもたちは、その舞台板の上で遊んでいた。


 五人ほどいた。


 ミツと同じくらいの子もいれば、もっと幼い子もいる。誰も正式な面はつけていない。布で顔を巻いている子、片目だけ欠けた面を頭の横にずらしている子、何もつけていない子。


 彼らは、ただ足を鳴らしていた。


 とん、とん。


 とん、たたん。


 誰かが両手を広げる。

 誰かがくるりと回る。

 誰かが笑いながら転びそうになる。

 別の子がそれを真似して、わざと大げさに倒れる。


 舞というには、整っていない。


 神楽ではない。


 祭礼でもない。


 拍子も合っていないし、手の形もばらばらだ。足を置く位置も違う。袖もない。鈴もない。笛もない。


 けれど、そこには確かに何かがあった。


 顔を隠すためではなく、顔がなくても笑うための動き。


 役を示すためではなく、ここにいると知らせるための足音。


 子どもたちは、イロハたちに気づくと一瞬動きを止めた。


 だが、ミツが駆け寄る。


「入っていい?」


「いいよ」


「今、月を踏むやつやってた」


「月を踏むやつ?」


 ミツは舞台板に飛び乗り、足を高く上げた。


 とん、と板が鳴る。


「こう。悪い月が来たら、踏んで割る」


 イロハは、思わずハルマサの一閃を思い出した。


 鉄鉢の水面に映った満月を断った、あの静かな刀。


 ここでは、刀ではなく足だった。


 子どもたちは、月を踏む。


 誰かに教えられたわけではないのだろう。


 月が怖いから。

 白化が怖いから。

 面を喰われるのが怖いから。


 だから、遊びにする。


 踏んで、笑って、少しだけ怖さを小さくする。


 サヨは、その光景を見て立ち止まっていた。


 薄布の奥の目が、舞台板の上の子どもたちを見ている。


 子どもたちは、面を持たないまま跳ねている。


 誰にも許可を取っていない。

 祭礼札もない。

 祈面もない。

 神楽師の面もない。


 それでも、足音は鳴る。


 笑い声は上がる。


 サヨが、静かに言った。


「面がなくても、舞えるのですね」


 その言葉に、イロハは胸を突かれた。


 第1話のユラを思い出す。


 神を迎える沈黙を喰われ、舞台の入口を失った神楽師。鈴を握りしめても、足が動かなくなった少女。


 あの時イロハは、白化した鈴祈舞面ユラノスズに一節を仮置きした。


 面が舞を呼び戻したのだと思っていた。


 けれど、ここには面がない。


 それでも子どもたちは舞っている。


 いや、舞と呼ばれなくても、足を鳴らしている。


 ならば。


 役は、面によってだけ与えられるものではないのかもしれない。


 役は、舞われることで呼び出されることもある。


 まだ名のない動き。


 まだ台帳にない足音。


 まだ儀礼に認められていない笑い。


 そこから、役が生まれることもあるのではないか。


 イロハは、壊れた小祠を見た。


 剥げた朱。

 欠けた屋根。

 扉の内側に残る舞扇の文様。


 その奥に、誰かが微笑んだような気がした。


 姿はない。


 白い半面も映らない。


 ただ、風が通った。


 祠の中に積もった埃がふわりと上がり、舞台板の上へ流れる。


 その瞬間、どこかで鈴が鳴ったように感じた。


 いや、鈴はない。


 誰も鈴を持っていない。


 ユラの鈴祈舞面もここにはない。


 それなのに、耳の奥で、りん、と小さな音がした。


 鈴のない鈴の音。


 神を迎えるためではなく、忘れられた舞台にも神が迷い込むことがあると告げるような音。


 サヨも、同じものを聞いたのかもしれない。


 薄布の下で、少しだけ顔を上げた。


 アヤメが辺りを見回す。


「今、何か」


「聞こえましたか」


 イロハが尋ねると、アヤメは眉を寄せた。


「音というより、気配です」


 ゴウラが、壊れた祠の前で深く息を吐いた。


「ここの祠は、もうずっと誰も祀っちゃいねえと思ってたがな」


 その声には、畏れよりも懐かしさがあった。


 舞台板の上では、ミツが他の子に混じって足を鳴らしている。


 さきほどまで灰札に怯えていた子が、今は「月を踏む」と言って笑っている。


 面は、少し傾いている。


 借り物の面だ。


 まだミツの顔に追いついていない。


 けれど、足音はミツのものだった。


 誰かに借りた足音ではない。


 イロハは、そのことに気づいた。


 面が追いついていなくても、息はしている。

 顔が水にぼやけても、足は板を鳴らしている。

 役が定まらなくても、動きは生まれる。


 ならば、面師がするべきことは、すべてを先に決めることではない。


 その人の足音を聞くこと。


 その人がどう息をして、どこへ立とうとしているのかを見届けること。


 それから、面を彫ること。


 イロハは、サヨへ向き直った。


「サヨ様」


「はい」


「あの舞台を見て、どう思われますか」


 サヨはすぐには答えなかった。


 子どもたちの足音を聞いている。


 とん、とん。


 たたん。


 とん。


 やがて、静かに言った。


「羨ましいです」


 イロハは少し驚いた。


「羨ましい?」


「はい」


 サヨは舞台板を見つめたまま続ける。


「あの子たちは、面を持っていません。けれど、自分の足で板を鳴らしています。誰かに役名を与えられなくても、そこにいると知らせています」


 薄布の奥の声が、ほんの少しだけ震えた。


「わたしは、白影宮でずっと待っていました。いつか面が与えられるのを。いつか、わたしの役名が見つかるのを」


 イロハは黙って聞いていた。


「でも、本当は、待つだけではいけないのかもしれません」


 サヨは、ミツたちを見た。


「面がなくても、まず足を鳴らしてよいのなら」


 その言葉は、静かな芽のようだった。


 まだ小さい。


 けれど確かに、サヨの中で何かが動き始めている。


 アヤメは、それを聞いて複雑な顔をした。


 守る側としては危うい考えだろう。


 白影宮の皇女が、面を与えられる前に自分から足を鳴らす。

 それは、王朝の儀礼から見れば危険なことだ。


 だが、サヨの面を作るためには、きっと必要なことでもある。


 イロハは、深く頷いた。


「第7話では、ウズメの舞殿へ行きましょう」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 まるで、誰かに言わされたようだった。


 いや、違う。


 言葉は自分の中から出た。


 けれど、その背中を、鈴のない鈴の音がそっと押したような気がした。


 サヨは、イロハを見た。


「ウズメの舞殿」


「はい。正式な舞台です。けれど、きっと今の私たちに必要なのは、面をつけて舞うための作法だけじゃありません」


「では、何を見に行くのですか」


 イロハは、壊れた舞台板を見た。


 子どもたちが笑っている。


 足を鳴らしている。


 誰にも許されていないのに、誰にも止められていない舞。


「まだ役になる前の動きです」


 サヨは、その言葉を静かに受け止めた。


「まだ役になる前の動き」


「はい」


 イロハは頷いた。


「サヨ様の面には、それが必要だと思います」


 その時、風がもう一度吹いた。


 壊れた小祠の扉が、かた、と鳴る。


 祠の奥で、誰かが笑ったような気がした。


 あでやかで、軽やかで、けれどどこか底知れない笑み。


 舞台の端で、幕の陰からこちらを見ている語り手のように。


 イロハは、思わず祠へ頭を下げた。


 誰へ向けた礼なのか、自分でもわからなかった。


 ただ、その場に礼をしたくなった。


 サヨも、静かに頭を下げた。


 アヤメは少し遅れて、それに倣う。


 ミツが舞台板の上から叫んだ。


「イロハさんもやる?」


「え?」


「月を踏むやつ!」


 子どもたちが笑う。


 イロハは戸惑った。


 けれどサヨが、ほんの少しだけ楽しそうに言った。


「見てみたいです」


「サヨ様まで」


「面師は、面だけでなく舞も見るのでしょう」


 その言い方が少しだけいたずらっぽくて、イロハは苦笑した。


 仕方なく舞台板へ上がる。


 板は思ったよりも頼りなかった。


 足を置くと、ぎし、と鳴る。


 ミツが得意げに教える。


「まず、月が来る」


「うん」


「それを見つける」


「うん」


「踏む!」


 ミツが、とん、と板を踏んだ。


 イロハも真似をする。


 とん。


 板が鳴る。


 舞ではない。


 神楽でもない。


 けれど、その一歩で、胸の奥の重さがほんの少し揺れた。


 子どもたちが笑う。


 サヨも、薄布の奥で笑った気がした。


 鈴のない鈴の音が、もう一度、遠くで鳴った。


 それは、面を持たぬ者たちの舞台にも、物語は宿るのだと告げる音だった。

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