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第八節 ― 面を持たぬ者のところへ

 下役の手は、まだ止まったままだった。


 灰札は、ミツの借り物の面へ触れる寸前で宙に浮いている。


 薄い灰色の紙。


 そこに書かれた文字は小さい。


 登録確認待ち。

 使用資格未確認。

 未認定面保留。


 けれど、その小さな文字ひとつで、ミツは明日から水を汲みに行けなくなるかもしれない。


 イロハは、ミツの前に立った。


「その面は、今日取り上げないでください」


 声は震えていた。


 けれど、退かなかった。


 下役はイロハを見る。


「取り上げるとは申しておりません。確認のため、灰札を貼るだけです」


「灰札を貼られたら、この子は使えなくなります」


「確認が済むまで、未認定面の使用は控えるべきです」


「それは、この子に顔なしで歩けと言っているのと同じです」


 下役は困ったように眉をひそめた。


 悪意の顔ではなかった。


 むしろ、なぜそこまで言われるのかわからないという顔だった。


「規定では、未認定面の常用は推奨されません。特に現在、白化面および不安定役面に関する再検査期間中です。仮置き面、借用面、登録不明面については、使用状況を確認する必要があります」


「でも、この面がなければ」


「面師イロハ=ナギ殿」


 下役の声が、少しだけ硬くなった。


「あなたご自身も、登録確認命令を受けています」


 イロハの胸が詰まった。


 言葉が止まる。


 下役は続けた。


「白影宮への単独出入り制限。《ナギノオモテ》の登録確認。ロウセツ=カガミ工房への後日査察。現在、あなたの判断による未認定面への関与は、すべて確認対象となります」


 正しい。


 制度上は、何ひとつ間違っていない。


 だからこそ、イロハは強く出られなかった。


 ここで無理にミツの面を守ろうとすれば、ミツの面だけでなく、ゴウラの店も、灰面長屋の他の面も、より厳しく見られるかもしれない。


 イロハが口を開けずにいる間に、下役は再び灰札を持ち上げた。


 ミツが、面を胸に抱きしめる。


「やだ」


 小さな声だった。


「これ、まだぼくのじゃないけど。でも、これないと、ぼく、どこにも行けない」


「確認が済むまでです」


「いつ済むの」


 下役は答えられなかった。


 確認がいつ済むのか。


 その問いもまた、規定の紙には書かれていない。


 ミツは、面を抱いたまま一歩後ろへ下がった。


 その背中が水桶に触れる。


 かすかに水が揺れた。


 さきほど、そこにはミツのぼやけた顔が映っていた。


 サヨの顔も、同じように映らなかった。


 イロハは、胸の奥に熱が上がるのを感じた。


 白影宮だけじゃない。


 サヨだけじゃない。


 この国で、面を持てなかった人たちは、ここにもいる。


 役名を保留された者は、宮の奥だけにいるのではない。


 井戸端にいる。

 横丁にいる。

 古い面を抱いて泣く女の腕の中にいる。

 借り物の面を胸に抱えた子どもの手の中にいる。


 イロハが一歩踏み出そうとした、その時だった。


「待ちなさい」


 サヨの声がした。


 アヤメが素早く振り返る。


「お待ちください」


 低い声だった。


 止めようとする声。


 けれど、サヨは静かに首を横に振った。


 その仕草だけで、アヤメは言葉を飲み込んだ。


 サヨは一歩、ミツの横へ出る。


 女房姿。


 薄布で顔を隠し、身分を示す飾りも外している。


 それでも、そこに立つだけで空気が変わる。


 下役たちは、彼女が誰なのかをまだ知らない。


 けれど、ただの長屋の女ではないことは察したらしい。先頭の男が姿勢を正し、少しだけ頭を下げた。


「失礼ですが、どちらの」


「名は、今は必要ありません」


 サヨは穏やかに言った。


 アヤメの表情がわずかに険しくなる。


 しかしサヨは続けた。


「わたしも、役名を保留された者です」


 その言葉に、路地の空気が変わった。


 下役の顔が、はっきりと強張る。


 イロハは息を呑んだ。


 サヨは、自分の身分を明かしてはいない。


 けれど、自分の傷を隠さなかった。


 役名を保留された者。


 その言葉は、ここにいる誰よりも灰面長屋の人々に届いた。


 ゴウラが目を細める。

 古面を隠していた女が布の隙間からこちらを見る。

 割れた生面を抱いて泣いていた女が、泣き止みきれないまま顔を上げる。


 サヨは、灰札を持つ下役へ向き直った。


「その子の面を取り上げれば、その子は明日、誰として水を汲みに来ればよいのですか」


 下役は、少し間を置いて答えた。


「取り上げるわけではありません。確認が済むまでは、未認定面の使用は控えるべきです」


「では、その確認が済むまで、この子の朝は保留されるのですか」


 誰も動かなかった。


 ミツは、サヨを見上げている。


 イロハは、その言葉を聞いて胸が痛くなった。


 第5話で、サヨ自身がアリノリに問うた言葉。


 では、わたしは役名が定まるまで、何者として息をすればよいのでしょう。


 あの問いを、サヨは今、ミツへ向けている。


 自分のためではなく。


 灰面長屋の子どものために。


 下役は、帳面を握り直した。


「個別事情については、本査察時に確認いたします」


「本査察まで、この子は顔を借りることもできないのですか」


「未認定面の使用は」


「その言葉は聞きました」


 サヨの声は荒くならない。


 けれど、静けさの奥に強さがあった。


「わたしが聞いているのは、規定の名前ではありません。この子の明日のことです」


 下役は答えられない。


 サヨは、少しだけミツの方へ視線を落とした。


「朝、水を汲む。店へ行く。名前を呼ばれたら返事をする。そのたびに面が必要な国で、面を保留するということは、その人の朝も、声も、足も保留するということです」


 ミツは、借り物の面を強く抱きしめた。


 その手は震えていた。


 サヨは続ける。


「わたしは、それを今日知りました」


 その言葉は、イロハの胸へ深く落ちた。


 サヨも、見たのだ。


 白影宮の空の面箱だけではない。


 灰面長屋の水桶に映らない子どもを。


 自分と同じように、顔が定まらない者が、この国の外縁にいることを。


 サヨは、もう自分の孤独を自分だけのものとして抱いていない。


 それは、この国の歪みと繋がっている。


 役名を保留された皇女と、仮面籍からこぼれた子。


 遠すぎる二人が、同じ問いの前に立っている。


 下役は、しばらく黙った。


 そして、少しだけ声を落とした。


「……本日は先触れです。強制回収の権限はありません」


 ゴウラが低く息を吐く。


 下役は灰札を持ったまま、ミツの面を見た。


「ただし、所在確認は必要です」


 イロハがすぐに言った。


「私が記録します」


 下役が視線を向ける。


「面師イロハ=ナギ殿」


「仮置きはしません。役名補正もしません。紐穴調整と保護布の追加のみ。面の所在、持ち主状況、使用理由を記録します。仮面籍庁へ提出するなら、その写しを出します」


「あなたの記録は、現在確認対象です」


「それでも、何も書かないよりはましです」


 イロハは、セイランのことを思い出した。


 正式記録ではなく仮記録扱いにされた報告書。


 それでも彼は言った。


 仮記録なら残せます。


 ならば、自分も残す。


 たとえ正式でなくても。


 ミツの面がここにあり、この子が明日水を汲むために必要だということを。


 下役は迷っていた。


 規定の中に、目の前の状況をそのまま収める欄がないのだろう。


 サヨは静かに言った。


「灰札を貼らず、所在確認のみとしてください」


「それは」


「本査察までに所在を明らかにする必要があるのでしょう。ならば、貼ることではなく、記すことで足りるはずです」


 下役は、サヨを見た。


「あなたは、いったい」


 アヤメが一歩出た。


 その袖口から、白影宮の小さな袖印が一瞬だけ見えた。


 下役の目が、それを捉える。


 顔色が変わった。


 完全に名乗ったわけではない。


 だが、相手が白影宮に連なる者だと知るには十分だった。


 下役は、深くは問わなかった。


「……本日は、所在確認のみとします」


 路地のあちこちで、息を吐く音がした。


 ミツの肩から力が抜ける。


 イロハも、ようやく呼吸が戻った。


 だが、下役は続けた。


「ただし、後日査察時には改めて確認されます。未認定面であることに変わりはありません」


「わかっています」


 イロハは答えた。


 わかっている。


 今日、完全に守れたわけではない。


 灰札を一枚止めただけだ。


 それも、白影宮の気配がなければ難しかった。


 制度はまだ来る。


 札はまた貼られるかもしれない。


 それでも、今日のミツの朝は保留されなかった。


 それだけでも、意味がある。


 下役は帳面に何かを書き込んだ。


「対象面、所在確認。使用者、ミツ=ハイノ。仮面籍未確認。管理者、欠け面横丁古面商ゴウラ。補修関与、面師イロハ=ナギ。後日確認」


 ミツが小さく呟く。


「いっぱい書かれた」


 イロハは苦く笑った。


「でも、面は持っていかれなかった」


「うん」


 ミツは面をぎゅっと抱いた。


「明日、水汲める?」


「汲める」


 イロハは答えた。


「でも、一人じゃなくて、誰かと行こう」


「じゃあ、ゴウラじい」


「わしは朝が弱い」


 ゴウラがぼやいた。


 ミツは少しだけ笑った。


 その小さな笑いが、張り詰めていた空気をほんの少し緩めた。


 下役たちは、他の面についても所在だけを確認することにしたらしい。灰札はすべて引っ込めたわけではなかったが、少なくともその場で貼る数は減った。


 それでも、住人たちの不安は消えない。


 古い職面を隠した老人は、まだ戸板の陰から出てこない。

 割れた生面を抱いた女は、面に頬を押し当てたまま泣いている。

 古面商たちは、布を完全には外さない。


 今日だけは逃れた。


 けれど、明日以降はわからない。


 その不安が、路地の上に薄く残っていた。


 下役たちが横丁の奥へ移動していくと、アヤメが小さく息を吐いた。


「危険なお振る舞いでした」


 サヨは静かに答えた。


「そうですね」


「ですが」


 アヤメは少し言葉を探した。


「必要なことでもありました」


 サヨはアヤメを見た。


 薄布の奥で、ほんの少し微笑む。


「ありがとうございます」


 アヤメは目を逸らした。


「礼を言われることではありません。私は、あなたをお守りする役です」


 サヨは、静かに言う。


「わたしが、面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役」


 アヤメの表情が、わずかに揺れた。


 第2話の夜、サヨがアヤメの役を呼び戻した言葉。


 その言葉が、灰面長屋の路地で再び響いた。


 イロハは、その二人を見ていた。


 そして、自分の中にも、ひとつの言葉が生まれつつあるのを感じた。


 自分はサヨを救いたい。


 けれど、皇女だからではない。


 王朝に必要だからでもない。


 白影宮から依頼されたからでもない。


 サヨは、かつての自分と同じだ。


 この国に、役を置く場所がない。


 そしてミツもまた、同じ場所に立っている。


「白影宮だけじゃない」


 イロハは、ぽつりと言った。


 サヨが振り返る。


「はい」


 イロハは、灰面長屋を見渡した。


 欠けた面。

 灰色の長屋。

 水桶。

 古井戸。

 布で隠された面。

 泣き止まない女。

 借り物の面を抱くミツ。


「面を持てなかった人たちは、ここにもいる」


 言葉にした瞬間、イロハは自分が何と戦うのか、少しだけ見えた気がした。


 月だけではない。

 白化面だけではない。

 仮面籍庁だけでもない。


 人を見ず、面だけを見るもの。


 朝を見ず、規定だけを見るもの。


 まだない役を、乱れとして封じようとするもの。


 それと戦わなければならない。


 その時、路地の奥から、また子どもたちの足音が聞こえた。


 とん、とん。


 さきほどより少し賑やかだった。


 ミツが顔を上げる。


「あ、舞台板のところだ」


「舞台板?」


 サヨが尋ねる。


 ミツは頷いた。


「壊れてるけど、みんなそこで遊ぶの。面がなくても怒られないから」


 面がなくても、怒られない。


 その言葉に、サヨが静かに反応した。


 イロハも、路地の奥を見た。


 壊れた小さな舞台板。


 灰面長屋の片隅にある、正規の舞台ではない場所。


 そこから、子どもたちの足音が響いている。


 とん、とん。


 不揃いで、軽くて、けれど確かに誰かがそこにいると知らせる音。


 サヨが言った。


「見てもよいですか」


 イロハは頷いた。


「行きましょう」


 灰札の気配がまだ消えない路地を抜け、イロハたちは、面を持たぬ子どもたちの小さな舞台へ向かった。

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