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第七節 ― 灰札の先触れ

 灰白の官衣は、灰面長屋の色によく似ていた。


 けれど、住人たちはすぐに見分けた。


 長屋の灰は、火と雨と貧しさの色だ。

 官衣の灰は、札と台帳と保留の色だ。


 仮面籍庁の下役たちは、三人いた。


 先頭の男は細い筆箱を持ち、後ろの二人は灰色の札束と、面箱を確認するための帳面を抱えている。いずれも声を荒らさず、急ぎもせず、まるで決められた手順をなぞるように路地へ入ってきた。


 その静けさが、かえって横丁を凍らせた。


 ゴウラが、戸板の上に並べていた古面へ素早く布をかける。


 面を磨いていた女が、手元の祈面を懐へ隠した。


 井戸のそばにいた老人が、古い職面を背中の後ろへ回す。


 子どもたちは、一斉に戸板や桶の陰へ逃げた。


 ミツも、借り物の面を胸に抱えて一歩下がる。


 イロハは反射的に前へ出ようとした。


 だが、足が止まった。


 自分は第5話で、白影宮への単独出入りを制限され、《ナギノオモテ》の登録確認命令を受けた身だ。仮面籍庁の前では、今のイロハの言葉は弱い。


 中級面師の資格はある。


 けれど、それはこの場で灰札を止められる力ではない。


 そのことが、痛いほどわかった。


 アヤメはサヨの前に立っていた。


 女房姿のサヨを背に庇いながらも、刀へは手をかけていない。ここで刃を見せれば、かえって灰面長屋が危険になるとわかっているからだ。


 仮面籍庁の先頭の男は、路地の中央で立ち止まった。


「仮面籍庁より、事前確認に参りました」


 声は丁寧だった。


 怒鳴らない。


 脅さない。


 だからこそ、逃げ場がない。


「本日は本査察ではありません。白化面および不安定役面の再検査に伴い、灰面長屋、欠け面横丁に所在する未確認面、仮置き面、登録不明面の所在を確認いたします」


 その言葉が終わる前に、路地の奥で誰かがすすり泣いた。


 本査察ではない。


 ただの事前確認。


 そのはずなのに、住人たちの顔はすでに青ざめている。


 下役の一人が、灰色の札を取り出した。


 白札でも、黒札でもない。


 灰札。


 薄い灰色の和紙に、墨で細く印が入っている。中央には仮面籍庁の小印。下には、用途別に小さな文字が並んでいた。


 登録確認待ち。

 使用資格未確認。

 仮置き面提出命令。

 未認定面保留。

 後日査察対象。


 イロハは、その文字を見た瞬間、胸の奥が冷えた。


 白札や黒札ほど重くはない。


 けれど、灰面長屋にとっては十分すぎる。


 灰札を貼られた面は、確認が済むまで堂々とは使えなくなる。商いに出せない。水汲みにも行きにくい。祭礼どころか、通りを歩くことさえためらう。


 ここでは、正式な剥奪でなくても、生活が止まる。


「まず、こちらの面から」


 下役が、ゴウラの店先へ近づいた。


 ゴウラは布を押さえたまま、低く言う。


「これは修理待ちの古面だ。売り物じゃない」


「確認のみです」


「確認した後、札を貼るんだろう」


「必要に応じてです」


「その必要を決めるのは誰だ」


 下役は表情を変えなかった。


「仮面籍庁です」


 そのやり取りだけで、周囲の空気がさらに冷たくなった。


 下役は布をめくり、戸板の上に並ぶ面をひとつずつ見ていく。


 片目の欠けた職面。


「登録番号不明。灰札」


 紐だけが新しい古面。


「修復履歴不明。灰札」


 役名札の剥がされた生面。


「所有者確認待ち。灰札」


 死者から流れた面箱。


「由来確認要。灰札」


 灰色の札が、次々に置かれていく。


 貼る音は軽い。


 紙が木へ触れるだけの音。


 それなのに、イロハには、そのたびに誰かの息が塞がれる音に聞こえた。


 ゴウラの顔から、少しずつ血の気が引いていく。


 彼は怒鳴らない。


 怒鳴れば不利になることを知っている。


 ここにいる者たちは、制度の前で声を荒げると、さらに立場が悪くなることを、よく知っている。


「これは預かり物だ」


 ゴウラが、割れ目を漆で埋めた祈面を押さえた。


「持ち主の婆さんが、これをつけねえと朝の祈りに行けん」


「祈面としての使用資格が確認できません」


「資格じゃなくて、あの婆さんの朝だ」


「確認が済むまで、使用は控えるようお伝えください」


「朝を控えろってのか」


 下役は少しだけ眉を動かした。


 だが、声は変えなかった。


「規定です」


 ゴウラは黙った。


 その沈黙のほうが、怒鳴り声よりも重かった。


 路地の奥で、腰の曲がった女が、割れた生面を胸に抱いて泣き始めた。


「それは駄目だよ。これは、うちの子の面だよ。割れてるけど、うちの子のだよ」


 下役の一人が近づく。


「確認のみです」


「持っていかないでおくれ」


「本日は持ち去りません」


「でも、札を貼るんだろう」


「確認のためです」


「札を貼られたら、あの子は学校へ行けない」


「確認が済むまで、使用は控えてください」


 女は、面を抱いたまましゃがみ込んだ。


 誰も彼女を叩いていない。


 誰も罵っていない。


 それでも、その女の朝は壊れようとしている。


 イロハは、拳を握りしめた。


 第5話の審査所が脳裏に蘇る。


 アリノリ=シジョウは言った。


 乱れを広げぬためです。


 王朝を守ることです。


 その言葉が、ここでは灰札になって路地へ降っている。


 王朝を守るための正しさが、割れた生面を抱く女の手を震わせている。


 下役たちは、悪意を持っているようには見えなかった。


 彼らは職務をしているだけだ。


 決められた区域へ来て、決められた面を確認し、決められた札を置く。


 それが、恐ろしかった。


 悪意がないまま、人の生活を止められることが。


「次」


 下役の視線が、ミツへ向いた。


 ミツはびくりと肩を震わせた。


 胸に抱えた子ども面を隠そうとする。


 しかし、隠そうとしたことで、かえって目立った。


「その面を確認します」


 ミツは首を横に振った。


「これは、ぼくの」


 声が震えていた。


「ぼくの……まだ、ぼくのじゃないけど、でも」


 言葉が絡まる。


 自分の面だと言いたい。


 でも、さっきイロハが言った。


 これはまだミツの面ではない。


 だから、嘘は言えない。


 でも、借り物だと言えば、取り上げられるかもしれない。


 ミツの小さな頭の中で、言葉が逃げ場をなくしているのが、イロハにはわかった。


 下役は、手を差し出した。


「確認のみです」


 その言葉が、今は刃のように聞こえた。


 ミツは後ずさる。


 後ろには水桶。


 逃げ場がない。


 イロハは、ついに前へ出た。


「その面は、私が調整中です」


 下役の視線がイロハへ移る。


 彼はすぐにイロハの顔を見て、次に腰の道具袋、そして手元の面師札を見た。


「面師イロハ=ナギ殿ですね」


 呼ばれた瞬間、イロハの背筋が冷えた。


 もう、ここにも届いている。


「あなたには、《ナギノオモテ》の登録確認命令およびロウセツ=カガミ工房への後日査察通知が出ています」


「知っています」


「現在、あなたが行う未認定面への仮置き、役名補正、仮面籍関連調整については、後日確認の対象となります」


 つまり、触るなと言っているのに近かった。


「私は仮置きはしていません」


「では、何を」


「紐穴の調整と、当て布の補修です。役は置いていません」


 下役は帳面へ何かを書いた。


「記録します」


 その言葉に、イロハは奥歯を噛んだ。


 記録。


 ここでは、何もかもが記録される。


 助けようとした手さえ、後で裁かれるために書き留められる。


 下役はミツへ向き直った。


「その面は、登録確認待ちとして灰札を貼ります」


「貼らないで」


 ミツが、か細く言った。


「これ貼られたら、水汲みに行けない」


「確認が済むまで、使用は控えてください」


「でも、水汲まないと」


「長屋の管理者へ相談を」


「管理者なんていない」


 ミツの声が少し大きくなった。


「ゴウラじいがいるけど、管理者じゃない。みんな、自分で水汲むんだ」


 下役は困ったように眉を寄せた。


 だが、手にした灰札は下ろさない。


「規定です」


 また、その言葉だった。


 規定。


 王朝を守るための形。


 誰も殴っていない。

 誰も怒鳴っていない。

 誰も悪意を見せていない。


 けれど、札を貼れば、ミツは明日、水を汲みに行けなくなる。


 店の人に目を合わせてもらえない。


 井戸でも誰の子か問われる。


 借り物の面でさえ使えなくなれば、ミツはまた顔のない子に戻る。


 イロハは叫びそうになった。


 けれど、声が出ない。


 ここで感情だけで反発すれば、ミツの面は即座に提出命令を受けるかもしれない。ゴウラの店も、灰面長屋全体も、より厳しく見られるかもしれない。


 正しさに対して、怒りだけでは足りない。


 そのことを、第5話で痛いほど知ったばかりだった。


 下役の手が、ミツの面へ伸びる。


 灰札が、薄く揺れた。


 その時。


「待ちなさい」


 静かな声が、路地に落ちた。


 大きな声ではなかった。


 けれど、不思議なほど通った。


 下役の手が止まる。


 イロハも、アヤメも、ゴウラも、ミツも、声のほうを見た。


 サヨが一歩前へ出ていた。


 女房姿のまま。


 薄布で顔を隠したまま。


 けれど、その立ち方は、もうただの女房ではなかった。


 アヤメが小さく息を呑む。


「お待ちください」


 だが、サヨは止まらない。


 灰面長屋の濁った井戸端に、面のない皇女が立つ。


 下役は、彼女が誰かをまだ知らない。


 それでも、ただならぬ気配を感じたのか、姿勢を正した。


「どなたですか」


 サヨは、すぐには名乗らなかった。


 ただ、ミツの面に向けられた灰札を見た。


 そして静かに言った。


「その札を貼れば、この子は明日、誰として水を汲みに来ればよいのですか」


 下役は返答に詰まった。


 それは規定の欄にない問いだった。


 登録確認待ち。

 使用資格未確認。

 仮置き面提出命令。

 未認定面保留。


 そこには、明日の水汲みについては書かれていない。


 イロハは、サヨを見つめた。


 第5話で、サヨ自身が問うた言葉を思い出す。


 役名が定まるまで、わたしは何者として息をすればよいのでしょう。


 今、サヨはその問いを、ミツのために使っている。


 サヨは続けた。


「確認が済むまで、使用を控える。そうおっしゃいましたね」


「はい。規定により」


「では、その確認が済むまで、この子の朝は保留されるのですか」


 灰面長屋の路地が、静まり返った。


 下役の持つ灰札が、風にかすかに揺れる。


 誰も答えなかった。


 答えられなかった。


 ミツは、面を抱いたままサヨを見上げている。


 イロハは、胸の奥で何かが強く震えるのを感じた。


 白影宮だけじゃない。


 面を持てなかった人たちは、ここにもいる。


 そして、サヨはもうそれを見てしまった。


 自分と同じ問いが、この長屋の子どもの朝にも落ちていることを。


 下役は、少しだけ表情を硬くした。


「規定の範囲内で、必要な確認を行います」


 サヨは、静かに答えた。


「ならば、その規定は、朝を迎える者の顔を見ていません」


 その一言に、イロハは息を呑んだ。


 アヤメの手が、そっと袖の内から離れる。


 ゴウラは、深く目を伏せた。


 灰札は、まだミツの面には貼られていない。


 しかし、仮面籍庁の下役たちはここにいる。


 この場は、まだ終わっていない。


 そしてイロハは、この瞬間はっきりと理解した。


 制度と戦うとは、札を破ることだけではない。


 札が見ていない顔を、ここにいると示すことなのだ。

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