第六節 ― 救済か、改変か
壊れた舞台板のほうから、子どもたちの足音が聞こえていた。
とん、とん。
不揃いな音。
舞というには粗く、遊びというには妙に真剣だった。
だがイロハは、そちらへすぐには向かわなかった。
足元には、ミツの借り物の面がある。
さきほど紐を直し、耳の後ろが擦れないように当て布を入れた面。けれど、それはまだミツの面ではなかった。
イロハは、もう一度その面を手に取った。
内側を読む。
古い息の跡。
別の家の子どもがかつて使ったらしい、薄れた生面の名残。
削り直された頬。
無理に狭められた顎。
新しい面紐。
そして、ミツの息がまだ浅くしか染みていない内側。
ここに仮札を置けば、少しは安定するかもしれない。
ほんの一時だけでも、ミツの顔が水桶に映るかもしれない。
店の者が目を合わせてくれるかもしれない。
井戸で、誰の子だと問われずに済むかもしれない。
いつものイロハなら、そうしていた。
ユラの鈴祈舞面に、失われた一節を仮置きした時のように。
ハルマサの暁刃戦面に、抜刀の入口を一度だけ戻した時のように。
白化した面に触れ、喰われた役の輪郭を探し、消えかけたものを仮に結ぶ。
それが、自分にできる救いだと思っていた。
けれど今、指が止まった。
ミツには、戻すべき役がない。
ユラには、神楽師としての役があった。
失われたのは、神を迎える沈黙だった。
だから、その一節を仮に戻すことができた。
ハルマサには、守る者としての役があった。
失われたのは、何のために刀を抜くのかという入口だった。
だから、「ここから先へ、月を通さない」という言葉へ導くことができた。
カンナには、夜の香で宮を眠らせる役があった。
セイランには、読めぬものも記録に残そうとする役があった。
サヨには、まだ見つかっていない役がある。
けれどミツは。
この子は、まだ制度上どこにも置かれていない。
家の生面は焼けた。
仮面籍の控えは途切れた。
職面を持つ年齢でもない。
祈面も、官面も、武面もない。
この子には、戻すべき役がないのではない。
まだ、誰にも役を聞かれていないのだ。
そこでイロハが仮札を置いたら。
それは救いになるのか。
それとも、ミツの未来に、イロハが勝手に役を置いてしまうことになるのか。
面の内側に添えた指が、かすかに震えた。
「イロハさん?」
ミツが、不安そうに見上げている。
イロハは、はっとした。
手の中の面が、急に重く感じる。
この小さな面に、自分は何をしようとしていたのだろう。
痛みを取るだけならできる。
紐を直すだけならできる。
けれど、役を置くことは違う。
それは、その人がどこへ立つのかを決めることに近い。
救うため。
そう言えば、何でも許されるのだろうか。
イロハの胸の奥に、ロウセツの声が蘇る。
役がないなら、まず息をする役から作る。
あの言葉に、自分は救われた。
間違いない。
あの面がなければ、自分は灰面長屋の片隅で、誰にも映らない子どものままだったかもしれない。
でも。
息をする役を作るとは、どういうことだったのか。
イロハ=ナギという自分は、本当に自分で選んだものだったのか。
それとも、師匠が彫ってくれた面に導かれて、今の自分になったのか。
私が置いた役は、本当にその人のものなのか。
師匠が私に置いた役は、本当に私のものだったのか。
腰の鍵が、急に熱を持ったように感じた。
《ナギノオモテ》は、今日も閉じたままだ。
開けてはいけないと言われたから。
けれど、それだけではない。
今は、開けるのが怖かった。
中にある面を見た時、自分が何を思うのかが怖かった。
それは救いの顔なのか。
それとも、自分を作り変えた顔なのか。
サヨが、静かに近づいてきた。
薄布越しの視線が、イロハの手元に落ちる。
「手が止まりましたね」
イロハは、面から目を離せなかった。
「……置けません」
「役を、ですか」
「はい」
イロハは、小さく頷いた。
「この子には、戻すべき役がまだありません。そこへ私が仮置きをしたら、私がこの子の役を決めることになる」
ミツは、意味がわからないという顔をしている。
けれど、サヨはすぐに理解した。
「あなたは、その子を救いたい」
「はい」
「けれど、救うために役を置けば、その子を変えてしまうかもしれない」
「……はい」
言葉にされると、なおさら怖かった。
イロハは面を布の上に置き、両手を膝に乗せた。
指先には、まだ古い木の感触が残っている。
「私は、これまで仮置きで人を救えると思っていました。失われた役を、少しだけでも戻せるなら、それでいいと思っていました。でも、戻す役がない人にはどうすればいいのか、考えていなかった」
サヨは黙って聞いている。
「この子に必要なのは、仮の役かもしれない。でも、それを私が決めていいのか、わからないんです」
その時、アリノリ=シジョウの声が脳裏をよぎった。
死んでいないことと、公的に使用できることは別です。
血統上は。
儀礼上は。
保留されるのは役名です。
別です。
あの言葉は、冷たかった。
人を切り分ける言葉だった。
けれど今、イロハ自身もまた、同じように「別」を口にしようとしている。
救うことと、変えないことは別。
助けることと、決めることは別。
アリノリの「別」と、自分の「別」は何が違うのだろう。
イロハは、唇を噛んだ。
サヨが、静かに問う。
「あなたは、救われたことを疑っているのですか」
その問いは、まっすぐだった。
イロハの胸の一番痛いところへ届いた。
ロウセツのこと。
《ナギノオモテ》のこと。
灰面長屋で、顔のない子どもだった自分のこと。
イロハは、ゆっくり首を横に振った。
「疑ってはいません」
声は小さかった。
けれど、それだけは嘘ではなかった。
「私は、救われました。師匠が来てくれなかったら、私は今ここにいません。面師にもなっていません。サヨ様の面を作ろうなんて、思うこともできなかった」
サヨの目が、薄布の奥で静かに揺れた。
イロハは続ける。
「でも、救われたことと、変えられなかったことは別です」
その言葉を言い終えた瞬間、胸が痛んだ。
アリノリの言葉を借りたようで、嫌だった。
けれど、今の自分には必要な言葉でもあった。
「師匠は私を救ってくれました。でも、その時、私に何を置いたのか。私はまだ知りません。私の《ナギノオモテ》が、ただの救いだったのか。それとも、私の生まれや役を書き換えるようなものだったのか」
アヤメが息を呑んだ。
「それは……」
「わかっています」
イロハは、アヤメを見る。
「師匠を責めたいわけじゃありません。むしろ、責められない。私は本当に救われたから。でも、だからこそ怖いんです」
ミツが、小さく言った。
「救われても、怖いの?」
イロハは、少しだけ笑った。
「怖いよ」
「なんで」
「救ってくれた人が悪い人じゃないって、わかっているから」
ミツは首を傾げた。
イロハは、言葉を探した。
「悪い人に傷つけられたなら、怒ればいい。でも、助けようとしてくれた人の手で、自分が変わったかもしれないと思うと、どうしたらいいかわからなくなる」
ミツは完全には理解していないようだった。
でも、黙って聞いていた。
サヨが言った。
「ならば、わたしの面を作る時、あなたはどうしますか」
その問いは、第2話の夜からずっと続いていた。
わたしの面を、作れますか。
その答えを、イロハはまだ完全には持っていない。
けれど、ひとつだけ言えることがあった。
「勝手には決めません」
イロハは、サヨを見た。
「サヨ様を救うためだからといって、サヨ様が何者になるかを私が決めることはしません」
「では、どうやって作るのですか」
「聞きます」
イロハは答えた。
「見ます。待ちます。サヨ様が、何を見て、何を覚えて、何を選ぼうとしているのか。それを知らないまま、面は彫れません」
サヨは黙っていた。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
受け取っている沈黙だった。
イロハはミツの面へ視線を戻した。
「だから、この面にも今日は役を置きません」
ミツの顔が少し不安になる。
イロハは急いで続けた。
「でも、何もしないわけじゃない。紐を直す。痛くないようにする。水を汲みに行けるようにする。明日も見せてもらう。ミツがどんなふうに歩くのか、どんなふうに名前を呼ばれたいのか、少しずつ見る」
「それで、ぼくの面になる?」
「すぐにはならないかもしれない」
ミツの肩が落ちる。
イロハは、そっと言った。
「でも、ミツを見ないで面だけ決めるより、ずっといいと思う」
ミツは、しばらく黙っていた。
それから、自分の面を両手で持ち上げた。
「じゃあ、今日はこれで水汲む」
「うん」
「明日も、見せる」
「うん」
「ぼくが転んだら、面も転ぶ?」
唐突な問いに、イロハは少し目を瞬かせた。
「たぶん、転ぶ」
「じゃあ、面もぼくを覚える?」
イロハは、胸の奥が少し温かくなった。
「覚えると思う」
ミツは、少しだけ笑った。
「じゃあ、転ばないように歩く」
その言葉に、サヨも微笑んだ。
灰面長屋の薄暗い井戸端で、ほんのわずかに空気がほどける。
だが、その穏やかさの奥で、イロハの疑問は消えていなかった。
救済か。
改変か。
その答えは、今すぐには出ない。
ロウセツに聞かなければならない。
《ナギノオモテ》を開けなければならない日も、いずれ来る。
けれど今は、目の前の子どもの面を、勝手に決めないこと。
サヨの面を、急いで王朝の棚に収めようとしないこと。
それだけは、決められた。
その時、横丁の入り口から、硬い足音が近づいてきた。
革底ではない。
役所履きの、規則正しい足音。
ゴウラの顔色が変わる。
アヤメが即座にサヨの前へ半歩出た。
ミツは、面を胸に抱えた。
灰面長屋の空気が、一瞬でこわばる。
路地の向こうに、灰白の官衣が見えた。
仮面籍庁の下役たちだった。
手には、灰色の札束を持っている。




