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第五節 ― 幼いイロハの記憶

 水桶の底へ沈んでいった白い半面が、イロハの胸の奥に、冷たい輪を残していた。


 映らぬ者を、誰が見る。


 その声はもう聞こえない。


 けれど、耳の奥から消えなかった。


 灰面長屋の古井戸。

 濁った水。

 ぼやけたミツの顔。

 曖昧にしか映らなかったサヨの顔。


 それらが、水の揺れと一緒に、別の景色へほどけていく。


 イロハは、立っているはずだった。


 今は灰面長屋にいて、隣にはサヨがいて、アヤメが周囲を警戒していて、ミツが借り物の面を押さえている。


 なのに、足元の土が遠くなる。


 鼻の奥に、焦げた木の匂いが戻ってきた。


 焼けた家。


 黒く崩れた梁。


 灰をかぶった庭石。


 風が吹くたび、白くなった灰が舞い、空と地面の境目を曖昧にしていた。


 どこかで誰かが泣いていた。


 けれど、それが自分の声だったのか、他人の声だったのか、幼いイロハにはわからなかった。


 家の奥にあったはずの生面は、割れていた。


 割れたというより、火に舐められて、形を保てなくなっていた。


 白かったのか。

 木地だったのか。

 漆が塗られていたのか。


 もう、覚えていない。


 ただ、面だったはずのものが、黒く裂け、灰の中に落ちていたことだけは覚えている。


 誰かが言った。


 これはもう使えない。


 別の誰かが、イロハの肩を掴んだ。


 名を聞かれた。


 イロハは答えたはずだった。


 けれど、相手は眉をひそめた。


 家を聞かれた。


 イロハは何かを言おうとした。


 でも、その言葉は喉の手前で崩れた。


 役を聞かれた。


 子どもに役などないはずなのに、この国では、子どもにも家の面がある。


 生まれた場所を示す面。

 どの家に属し、どの棚に置かれ、どの祭礼でどこに座るかを決める面。


 それが、なかった。


 幼いイロハは、灰の道に立っていた。


 誰も迎えに来なかった。


 誰かの袖を掴もうとした。


 けれど、その袖は他の子を連れていった。


 役所の前は寒かった。


 石畳が冷たく、裸足に近い足の裏から、冷えが身体の中へ上がってきた。


 大人たちは、書き板を持っていた。


 札を持っていた。


 台帳を開いていた。


 彼らはイロハを見ているようで、見ていなかった。


 イロハの顔ではなく、探していた。


 どの家の面を持つのか。

 どの棚に入るのか。

 どの記録に載せればよいのか。


「この子は、どの家の面を持つ」


 誰かが言った。


 その言葉は、今でも耳の奥に残っている。


 この子、ではなかった。


 イロハではなかった。


 どの家の面を持つ子なのか。


 そう問われていた。


 別の誰かが、焦げた面の欠片を持ち上げた。


「判別不能です」


「仮面籍の控えは」


「焼失しています」


「親族は」


「未確認」


「では、一時保留だ」


 保留。


 その言葉が、小さなイロハの上に降ってきた。


 意味はわからなかった。


 けれど、その言葉を聞いた瞬間、自分がどこにも行けなくなることだけはわかった。


 一時保留。


 何者でもないまま、どこかに置かれること。


 いや。


 どこにも置かれないこと。


 イロハは泣こうとした。


 けれど、泣けなかった。


 泣くためには、誰かに見てもらう必要がある。


 泣けば、誰かが気づいてくれるという信じ方が必要だった。


 その時のイロハには、それすらなかった。


 灰面長屋に移されたのは、その少し後だった。


 細い路地。

 低い軒。

 煤けた面箱。

 割れた面を干す紐。

 古い井戸。

 戸板の上に並ぶ、誰のものかわからない面。


 今と同じ匂いがした。


 湿った木。

 古い漆。

 煮炊きの煙。

 そして、人に忘れられた面の匂い。


 幼いイロハは、そこに座っていた。


 膝を抱えていた。


 誰かが粥をくれた。


 食べたのか、食べなかったのか、覚えていない。


 名前を呼ばれても、自分のことだとすぐに思えなかった。


 顔を上げても、相手の視線が自分を少し通り抜けていく気がした。


 面がない。


 それは、顔がないということだった。


 その時だった。


 足音がした。


 大人の足音。


 役人の足音ではなかった。


 役人の足音は、紙と札を連れてくる。

 その足音は、木粉と煙管の煙を連れてきた。


 幼いイロハは顔を上げた。


 そこにいたのが、ロウセツ=カガミだった。


 今より少し若い。


 髪は乱れ、着物はきちんとしておらず、袖には漆の跡がついていた。正規の宮廷面師だったとは思えないほど、目つきが悪く、口元もだらしなかった。


 けれど、その目だけは、妙にまっすぐだった。


 ロウセツは、イロハの前にしゃがみ込んだ。


 役人のようには聞かなかった。


 名は、とも聞かなかった。

 家は、とも聞かなかった。

 役は、とも聞かなかった。


 台帳を開くこともしなかった。


 札を探すこともしなかった。


 ただ、イロハを見た。


 顔のない子どもとしてではなく。


 記録に載せにくい厄介な子としてでもなく。


 そこに座っている、息の細い子どもとして。


 そして、低い声で聞いた。


「息はできるか」


 幼いイロハは、答えられなかった。


 息。


 できているのかもしれない。


 胸は動いている。


 喉も痛い。


 けれど、それが本当に息なのかはわからなかった。


 この国で、どこにも置かれないまま吸う空気は、まるで自分のものではないようだった。


 ロウセツは、返事を待った。


 急かさなかった。


 慰めもしなかった。


 しばらくして、彼は小さく舌打ちした。


「できてねえ顔だな」


 ひどい言い方だった。


 けれど、幼いイロハはなぜか泣きそうになった。


 初めて、自分の状態を言い当てられた気がしたからだ。


 ロウセツは、背負っていた包みを解いた。


 中から出てきたのは、未完成の白い面だった。


 まだ漆も完全ではない。


 目元の線も彫り切られていない。


 口もない。


 表情もない。


 けれど、ただの白ではなかった。


 灰の中に残る白ではない。

 役所の札の白でもない。

 月の喰う白でもない。


 まだ何かになる前の白。


 それを見た時、幼いイロハは、なぜか怖くなった。


 その面は、自分を見ているようだった。


 顔がないのに。


 目もないのに。


 それでも、自分を見ていた。


「役がないなら」


 ロウセツは言った。


「まず息をする役から作る」


 その言葉は、救いのように聞こえた。


 同時に、刃のようにも聞こえた。


 役を作る。


 それは、この子を助けるということだ。


 けれど、役を作るということは、この子が何者であるかに手を入れるということでもある。


 その時の幼いイロハには、そんな怖さはわからなかった。


 ただ、ロウセツの手元の白い面を見ていた。


 息をする役。


 それがあれば、息ができるのだろうか。


 この国のどこかに、立てるのだろうか。


 誰かに見てもらえるのだろうか。


 ロウセツは、面をイロハの顔へ無理に当てたりはしなかった。


 ただ、膝の上に置いた。


 白い面は、幼いイロハの膝で軽かった。


 軽いはずなのに、重かった。


 これを受け取れば、何かが変わる。


 それだけはわかった。


「いらねえなら捨てろ」


 ロウセツは言った。


 あまりにも乱暴な言い方だった。


「いるなら、持ってろ。顔ってのはな、誰かに決められる前に、自分で掴んどくもんだ」


 幼いイロハは、白い面に触れた。


 指先が震えた。


 面は冷たかった。


 けれど、少しだけ、息がしやすくなった気がした。


 その瞬間。


 今のイロハは、水桶の前で息を吸い込んだ。


 景色が戻る。


 灰面長屋の古井戸。

 濁った水。

 ミツ。

 サヨ。

 アヤメ。

 ゴウラ。


 白い半面は、もういない。


 けれど、膝の上に置かれた未完成の白い面の感触が、まだ指に残っている。


 イロハは、自分の腰の鍵に触れた。


 《ナギノオモテ》。


 あの白い面は、やがて自分の面になった。


 自分をこの国に立たせてくれた。


 イロハ=ナギとして息をするための顔になった。


 それは間違いなく救いだった。


 救いだったはずだ。


 けれど。


 役がないなら、まず息をする役から作る。


 その言葉が、今になって怖く響く。


 作る。


 誰が。


 何を。


 どこまで。


 もしロウセツがいなければ、自分はここで消えていたかもしれない。


 けれど、ロウセツが面を作ったことで、自分は何か別のものへ変えられたのではないか。


 イロハは、ミツを見た。


 借り物の面をつけた子ども。


 まだ自分の面を持たない子。


 その子に、自分はさっき仮置きをしなかった。


 勝手に役を置くことが怖かったからだ。


 では、師匠はどうだったのだろう。


 あの時、ロウセツは怖くなかったのだろうか。


 救うためなら、作り変えてもよいと思ったのだろうか。


「イロハ」


 サヨの声がした。


 イロハは顔を上げた。


 サヨは、こちらを見ていた。


 薄布の奥の目は、静かだった。


 責めてはいない。


 ただ、見ている。


 映らぬ者を、誰が見る。


 その問いに、イロハは「私が見ます」と答えた。


 ならば、自分自身の過去からも目を逸らせない。


「昔」


 イロハは、ぽつりと言った。


「私はここにいました」


 ミツが目を丸くする。


 ゴウラは黙っている。


 アヤメの表情が少し変わった。


 サヨだけが、最初から知っていたかのように静かだった。


「家の生面を失って、仮面籍に置く場所がなくなって。たぶん、役所では保留にされたんだと思います。私はその時、息ができなくなっていました」


 イロハは、腰の鍵に触れたまま続ける。


「師匠が来てくれました。名も家も役も聞かずに、息はできるかって聞いてくれました」


 サヨの目が、少し揺れる。


「それが、ロウセツ=カガミ」


「はい」


「あなたを救った方ですね」


「はい」


 イロハは頷いた。


 そして、少しだけ間を置いた。


「でも今は、それだけではないのかもしれないと思っています」


 アヤメが眉を寄せる。


「どういう意味ですか」


「師匠は私に、息をする役を作ってくれました。だから私は生きられました。でも、役を作るということは、その人を少し変えてしまうことでもあります」


 イロハはミツの面を見た。


「この子に私が勝手に役を置いたら、それは救いにもなるかもしれない。でも、その子を別の形にしてしまうかもしれない」


 ミツは、よくわからないという顔でイロハを見ていた。


 サヨは静かに言った。


「あなたは、ご自分が救われたことを疑っているのですか」


 イロハは、首を横に振った。


「疑ってはいません」


 それだけは、すぐに言えた。


「師匠がいなければ、私はここにいません。面師にもなっていません。サヨ様にも会えていません」


 サヨは黙って聞いている。


「でも、救われたことと、変えられなかったことは別です」


 その言葉を口にした瞬間、イロハは第5話のアリノリを思い出した。


 死んでいないことと、公的に使用できることは別です。


 血統上は。

 儀礼上は。

 保留されるのは役名です。


 あの冷たい「別」と、今自分が言った「別」は違うのか。


 同じなのか。


 イロハにはわからなかった。


 けれど、この痛みは、切り捨てるためのものではなかった。


 見つめるためのものだった。


 サヨは、ゆっくり頷いた。


「では、わたしの面を作る時も」


「はい」


 イロハは答えた。


「救うためだと言って、勝手には決めません」


 サヨは少しだけ微笑んだ。


「それを聞けて、よかった」


 その言葉に、イロハの胸が痛んだ。


 よかった。


 そう言われるほど、自分はまだ何もできていない。


 サヨの面は作れていない。


 白影宮へも戻れない。


 仮面籍庁には制限された。


 それでも、サヨは今の言葉を受け取ってくれた。


 ミツが、そっとイロハの袖を引いた。


「イロハさん」


「うん?」


「息をする役って、どんなの?」


 イロハは少し考えた。


 そして、ミツの前に膝をついた。


「たぶん」


 言葉を選ぶ。


「朝起きて、水を飲んで、誰かに名前を呼ばれて、返事をしてもいいって思える役」


 ミツは、不思議そうに瞬きした。


「それだけ?」


「うん。最初は、それだけでいいと思う」


 ミツは、自分の借り物の面に触れた。


「ぼくにも、ある?」


 イロハは、今度は迷わず答えた。


「ある」


「まだ面が追いついてないのに?」


「面が追いつく前から、ミツは息をしてる」


 ミツは、少しだけ笑った。


「じゃあ、ちょっとある」


「うん」


 イロハも笑った。


「ちょっとある」


 その言葉は、さっきの水面の続きだった。


 ちょっといる。


 ちょっとある。


 完全ではない。


 でも、消えてはいない。


 それを見落とさないことから、面作りは始まるのかもしれない。


 イロハは、水桶の濁った水をもう一度見た。


 今度は白い半面は映らなかった。


 ただ、揺れる水面の中に、自分の顔が映っている。


 イロハ=ナギの顔。


 《ナギノオモテ》によって、この国に置かれた顔。


 救いか、改変か。


 答えはまだ出ない。


 けれど、逃げない。


 師匠にも、いつか聞かなければならない。


 あの日、あなたは私に何を作ったのですか、と。


 灰面長屋の風が吹いた。


 物干し紐の欠け面が、からからと鳴る。


 その音の向こうで、遠く、小さな足音がした。


 子どもたちが、どこかの板の上を踏んでいるような音。


 まだ舞とは呼べない。


 けれど、ただの遊びとも違う。


 イロハは、顔を上げた。


 灰面長屋の奥に、壊れた小さな舞台板が見えた。

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