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第四節 ― 映らない顔

 灰面長屋の古井戸は、長屋のさらに奥、壊れた舞台板の裏手にあった。


 井戸といっても、白影宮の庭にあるような清らかなものではない。縁石は欠け、縄は古く、滑車は錆びている。そばには、ひびの入った大きな水桶が置かれていた。


 水は濁っていた。


 底までは見えない。


 けれど、昼の光と軒の影と、干された欠け面の輪郭だけは、ぼんやりと映している。


 ミツは、その水桶の前に立った。


「ここ」


 小さな声だった。


「面をつけてないと、あんまり映らないんだ」


 イロハは息を呑んだ。


「前から?」


「うん。でも、みんなそういうものだって言う。ここにいる子は、よくぼやけるって」


 ミツは、借り物の面を両手で押さえた。


「今日は、直してもらったから」


 そう言って、水桶を覗き込む。


 イロハも、その隣から水面を見た。


 まず映ったのは、井戸の縁だった。


 欠けた石。

 傾いた軒。

 薄暗い空。

 イロハの顔。

 アヤメの立ち姿。

 後ろで警戒するゴウラの影。


 それらは、多少揺らぎながらも映っていた。


 だが、ミツの顔だけがぼやけていた。


 身体は映っている。


 肩も、手も、着物の継ぎ当ても、借り物の面を結ぶ紐も映っている。


 けれど、顔だけが定まらない。


 水面の中で、そこだけ墨を薄く拭き取ったように曖昧だった。面の輪郭はある。目の位置も、口の位置も見えそうになる。


 だが、見ようとした瞬間に崩れる。


 まるで水が、ミツを顔として認めるのをためらっているようだった。


「……そんな」


 イロハは思わず呟いた。


 ミツは慣れているのか、少し肩を落としただけだった。


「やっぱり、まだだめか」


「だめじゃない」


 イロハはすぐに言った。


 けれど、その先の言葉が出てこなかった。


 何がだめではないのか。


 どうすれば映るのか。


 それを、今のイロハは言えなかった。


 アヤメが水桶を覗き込み、眉をひそめる。


「イロハ殿。これは白化面と同じ異常ですか」


「わかりません」


 イロハは正直に答えた。


「でも、月痕とは違います。喰われているというより……最初から、映すための線が足りていない」


「線?」


「面と顔を結ぶ線です」


 イロハは、ミツの面を見た。


 借り物の面。


 痛くないように直しただけの面。


 そこにはまだ、ミツ自身の役も、家も、生面の根もない。


 だから水が迷っている。


 この子をどう映せばいいのか。


 誰の顔として返せばいいのか。


 その時、サヨが静かに前へ出た。


 アヤメが反射的に止めようとする。


「お待ちください」


「見ます」


「危険です」


「だからこそです」


 サヨは、薄布を少しだけ上げた。


 灰面長屋の濁った水桶の前に、面のない皇女が立つ。


 イロハは、胸が締めつけられるような思いでそれを見ていた。


 サヨは、ゆっくりと水面を覗き込んだ。


 水は揺れた。


 軒の影が広がる。


 干された欠け面の輪郭が、細く歪む。


 そして、サヨの顔が映るはずだった。


 しかし。


 映らなかった。


 正確には、ミツと同じだった。


 髪の線は映る。

 薄布の縁も映る。

 肩の形も、袖の色も映る。


 けれど、顔だけがはっきりしない。


 白影宮の静かな皇女の顔が、水の上で曖昧に滲んでいる。


 そこにいるのに、顔として返されない。


 アヤメが息を呑んだ。


「サヨ様……」


 今度は、呼び方を正す余裕もなかった。


 アヤメの手が、袖の内の短刀へ伸びる。


 イロハもまた、動けなかった。


 サヨまで。


 灰面長屋の子どもと、白影宮の皇女。


 片方は王朝の外縁にいる。

 片方は王朝の奥にいる。


 それなのに、同じように水面で顔が定まらない。


 ミツが、小さく言った。


「おねえさんも、ぼくと同じ?」


 サヨは、水面を見たまま答えた。


「少し、似ています」


 その声は震えていなかった。


 けれど、イロハには、その静けさの奥に深い痛みがあることがわかった。


 次の瞬間、水面の奥で白いものが動いた。


 月ではない。


 昼の水だ。


 空には月などない。


 それなのに、濁った水桶の底から、白い半面が浮かび上がる。


 目穴はない。


 けれど、見ている。


 口はない。


 けれど、声がある。


 第4話の鏡水に現れた、あの白い半面。


 鏡ノ客。


 けれど今回は、恐ろしくはなかった。


 水面に浮かぶその白は、刃のようでも、歯のようでもない。


 古い面箱の底に残った、誰にも拾われなかった顔の欠片のようだった。


 悲しいほど静かだった。


 イロハは思わず水桶へ手を伸ばしかけた。


 倒してしまえば消える。


 そう思ったのかもしれない。


 だが、指先が桶に触れる直前、声が聞こえた。


「面を持たぬ者は、映らぬのか」


 誰の声でもなかった。


 男でも女でもない。

 老いても幼くもない。

 遠いのに、水のすぐ下から響いてくる。


 イロハの手が止まる。


 アヤメは短刀の柄へ手をかけた。


 ゴウラが低く唸る。


 ミツは、面の紐を握りしめて固まっていた。


 白い半面は、ただ水面に浮かんでいる。


 問いだけを残して。


 面を持たぬ者は、映らぬのか。


 それはミツへの問いだった。


 サヨへの問いだった。


 イロハへの問いでもあった。


 かつて面を持たなかった自分。

 《ナギノオモテ》を与えられて、ようやく水に映るようになったかもしれない自分。


 では、その前の自分は。


 映らなかったのか。


 いなかったのか。


 誰にも見られなかった顔は、顔ではなかったのか。


 イロハの胸が冷たくなる。


 水桶の中の白い半面が、こちらを見ている。


 映しているのではない。


 問いを返している。


 サヨが、ゆっくりと口を開いた。


「映らないのではありません」


 静かな声だった。


 灰面長屋の濁った水の前で、サヨはまっすぐに立っていた。


「まだ、どう映ればよいのかを、誰も教えてくれなかっただけです」


 イロハは、息を忘れた。


 ミツがサヨを見上げる。


 アヤメも、短刀にかけた手を止めた。


 サヨは水面を見つめたまま続ける。


「面がなければ映らないのだと、誰かが決めたのでしょう。役名がなければ立てないのだと、誰かが決めたのでしょう。ならば、その決まりの外にいる者は、どう映ればいいのかわからないだけです」


 白い半面は、何も答えない。


 水面の中で、サヨの曖昧な顔とミツのぼやけた面が並んでいる。


 その間に、白い半面が浮かんでいる。


 三つの顔。


 どれも、まだ定まらない。


 けれど、そこにある。


 サヨは、ミツのほうを見た。


「あなたは、映っていないのではありません」


 ミツは、小さく瞬きをした。


「ぼく、ぼやけてる」


「ええ。ぼやけています」


 サヨは微笑んだ。


「わたしもです」


 ミツは、少し驚いた顔をした。


 サヨは続ける。


「でも、消えてはいません」


 その言葉に、ミツは水面をもう一度見た。


 ぼやけた輪郭。


 定まらない顔。


 けれど、確かにそこにある影。


「ほんとだ」


 ミツは、小さく言った。


「ちょっといる」


「はい」


 サヨは頷いた。


「ちょっと、います」


 イロハは、胸の奥が震えるのを感じた。


 それは、とても小さな言葉だった。


 ちょっといる。


 けれど、この国で面を持たない者にとって、その「ちょっと」はどれほど大きいだろう。


 完全に認められなくても。

 台帳に載らなくても。

 水面に鮮やかに返されなくても。


 消えてはいない。


 そこにいる。


 イロハは、水桶の縁から手を離した。


 倒してはいけない。


 この問いを消してはいけない。


 白い半面は、ほんの少しだけ揺れた。


 笑ったようにも見えた。


 泣いたようにも見えた。


 そして、もう一度だけ声が響く。


「映らぬ者を、誰が見る」


 イロハは、唇を噛んだ。


 答えはまだない。


 けれど、答えなければならない。


 面師として。


 かつて顔のなかった子どもとして。


 サヨの面を作ろうとしている者として。


「私が」


 声は小さかった。


 だが、水桶の前ではっきりと響いた。


「私が見ます」


 白い半面は、何も言わなかった。


 ただ、水の底へゆっくり沈んでいく。


 濁った水が揺れ、白い輪郭はほどけるように消えた。


 後には、軒の影と、欠け面の揺れる姿と、ぼやけたミツの顔、そして曖昧なサヨの顔だけが残った。


 アヤメが低く息を吐いた。


「今のは……第4話の鏡水に現れたものと同じですか」


「たぶん」


 イロハは答えた。


「でも、今日は違いました」


「違う?」


「怖がらせに来たんじゃない気がします」


 イロハは、水面を見つめた。


「見ろって、言いに来たのかもしれません。映らない人たちを」


 サヨは、薄布を下ろした。


 その顔はまた隠れる。


 けれどイロハには、もうサヨが見えなかったわけではない。


 水面が曖昧にしても。


 台帳が保留にしても。


 この人は、ここにいる。


 ミツも、ここにいる。


 イロハは、そっとミツの面紐を直した。


「今日はこれで大丈夫。でも、また見せて」


 ミツは頷いた。


「うん」


「水に映るかどうかだけで、決めなくていいから」


「うん」


 ミツは少し考えてから、サヨを見た。


「おねえさんも、また見る?」


 サヨは少し驚き、それから微笑んだ。


「ええ。わたしも、また見ます」


 灰面長屋の古井戸のそばで、風が吹いた。


 物干し紐に吊るされた欠け面が、からからと鳴った。


 それは、誰かの顔がまだここにあると知らせる、かすかな音のようだった。

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