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第三節 ― 密かに来た皇女

 御簾車は、灰面長屋の道には似合わなかった。


 いや、似合わないように作られているはずのものだった。


 白影宮で使われるような白木の車でも、銀糸の御簾でもない。車輪は古び、外側には煤けた布が掛けられている。遠目には、病人か年寄りを運ぶための粗末な車にしか見えない。


 けれど、イロハにはわかった。


 そこに漂う香の気配が、白影宮のものだった。


 沈香をさらに薄く焚いたような、夜の奥に残る静けさ。


 そして、車の横に立つアヤメ=シラハの姿。


 女房姿に身を隠してはいるが、その立ち方だけは隠せていない。背筋はまっすぐで、右手はいつでも袖の内の短刀へ届く位置にある。周囲を見る目は、灰面長屋の軒、井戸、物陰、吊るされた古面の裏までひとつずつ確かめていた。


 アヤメは、ここにいること自体に不満がある顔をしていた。


 だが、止めなかったのだ。


 止められなかったのかもしれない。


 御簾の内側から、静かな声がもう一度聞こえた。


「イロハ」


 サヨ=ミカゲの声だった。


 イロハは思わず一歩近づきかけ、それから周囲を見て立ち止まった。


 灰面長屋の人々が、こちらを見ている。


 古面商のゴウラも。

 面を隠した女も。

 戸板の陰にいる子どもたちも。

 そして、ミツも。


 ここで「サヨ様」と呼べば、何かが露見する。


 けれど、その前にアヤメが低く言った。


「声を落としてください」


 イロハは息を呑み、小さく頷いた。


 御簾が細く開く。


 中から降りてきたのは、白影宮の皇女ではなかった。


 少なくとも、見た目だけなら。


 地味な女房装束。

 目立たぬ灰桜の小袖。

 髪もいつものように整えられてはいるが、飾りは少ない。顔を隠すように薄い布をかけている。


 けれど、その立ち姿の静けさだけは隠せなかった。


 灰面長屋の狭い路地に立っても、サヨはサヨだった。


 高貴さというより、空白の中で自分を崩さずに立つ人の静けさ。


 イロハは、思わず言った。


「どうしてここに」


 サヨは、薄布の下からイロハを見た。


「あなたが白影宮へ来られないのなら、わたしが来るしかありません」


「でも、ここは」


「白影宮ではありません」


 サヨは静かに答えた。


「そして、公式儀礼の場でもありません」


 その言葉に、イロハは息を止めた。


 第5話の判定。


 サヨ=ミカゲ。

 役名保留候補。

 白影宮外の公式儀礼参加、当面停止。


 公式儀礼ではない。


 だから来た。


 その理屈は正しいのかもしれない。


 けれど、危うい。


 あまりにも危うい。


 アヤメも同じことを思っているらしく、険しい表情で言った。


「私としては、今でも反対です」


「知っています」


 サヨは穏やかに答えた。


「ですが、あなたは止めませんでした」


「止めても、来られたでしょう」


「ええ」


「ならば、せめて私の目の届くところにいていただくほうがましです」


 そのやり取りに、イロハは少しだけ胸が温かくなった。


 アヤメは不満そうだ。


 けれど、サヨをただ閉じ込める護衛ではなくなっている。


 サヨが自分の役を探そうとするなら、その危険を見張りながらも、道を空ける。そんな立ち方をしている。


 サヨは、灰面長屋をゆっくり見回した。


 その視線は、珍しいものを見る宮人の好奇心ではなかった。


 吊るされた欠け面。

 古い井戸。

 煤けた面箱。

 戸板の上に並んだ未認定の面。

 面を抱えて隠れる子ども。

 布で顔を覆った女。


 それらを、ひとつひとつ受け止めている目だった。


「ここが、灰面長屋」


 サヨは呟いた。


 ゴウラが、低く答えた。


「そう呼ばれております。お忍びの方」


 その言い方に、アヤメの気配が一瞬鋭くなる。


 だが、ゴウラは頭を下げるだけだった。


 余計なことは聞かない。


 灰面長屋では、そういう礼儀もあるのだろう。


 サヨはゴウラへ小さく礼を返した。


「急に参って、申し訳ありません」


「ここは、急に来る者ばかりです」


 ゴウラは、しわがれた声で言った。


「家を失った者。面を失った者。役所から逃げてきた者。夜になってようやく、自分の顔がないことに気づいた者。急ではない者のほうが少ない」


 サヨは、少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


 その声には、痛みがあった。


 イロハは、サヨがなぜここへ来たのかをようやく理解し始めていた。


 サヨは、白影宮から出たかっただけではない。


 自分が保留されたという事実を、白影宮の中だけで終わらせたくなかったのだ。


 サヨは、静かに言った。


「わたしは、役名を保留されました」


 アヤメがわずかに周囲を見た。


 だが、サヨは声を荒げない。


 ただ、そこにいる者たちへ向けて、隠さずに言う。


「ならば、保留された者がどこで息をしているのか、見ておきたいのです」


 横丁の空気が変わった。


 誰も、サヨが何者かを尋ねなかった。


 けれど、その言葉は、ここにいる人々の奥へ落ちた。


 保留された者。


 仮面籍に載らない者。

 役名札を剥がされた者。

 面を失った者。

 借り物の面で今日をやり過ごす者。


 灰面長屋には、その意味がわかる者が多すぎた。


 ミツが、イロハの後ろからそっと顔を出した。


 先ほど直した借り物の面をつけている。


 紐は少し整った。右耳の後ろも、もう痛くないはずだ。


 けれど、その面はまだミツのものではない。


 サヨの視線が、ミツに止まった。


 ミツは反射的に後ろへ下がろうとする。


 イロハは優しく言った。


「大丈夫」


 ミツは、イロハの袖をつまんだまま、サヨを見た。


 サヨは膝を少し折り、ミツの目線に近づいた。


 アヤメが慌てて周囲を見る。


 皇女が灰面長屋の土の上で膝を折るなど、本来なら許されないことなのだろう。


 だが、サヨは気にしなかった。


「あなたの面ですか」


 ミツは、少し迷ってから首を横に振った。


「借り物」


「そうですか」


「でも、イロハさんが直してくれたから、痛くなくなった」


 サヨは、イロハを見た。


 その目に、柔らかな感謝が浮かぶ。


 イロハは少しだけ視線を落とした。


「応急処置だけです。役を置いたわけじゃありません」


「置かなかったのですね」


 サヨは、そこを聞き返した。


 イロハは頷いた。


「置けませんでした。……いいえ、置いてはいけないと思いました」


 サヨは静かに聞いている。


 イロハは、言葉を探しながら続けた。


「ユラさんには、神楽師としての役がありました。ハルマサさんにも、守る役がありました。カンナさんにも、セイランさんにも。でも、この子には、まだ制度上の役がありません。そこに私が勝手に仮置きをしたら、それは、この子に別の誰かの役を押しつけることになるかもしれない」


 サヨの表情が、薄布の奥で少し変わった。


「あなたは、それを恐れたのですか」


「はい」


「ご自分の面のことも」


 イロハは、胸の奥を押されたような気がした。


 サヨは気づいている。


 《ナギノオモテ》への迷いに。


 師匠に救われたことと、自分が何かへ作り変えられたのではないかという疑いに。


 イロハは、すぐには答えられなかった。


 その沈黙を、ミツが不思議そうに見ていた。


「ねえ」


 ミツがサヨに言った。


「あなたも、面がないの?」


 アヤメが息を呑む。


 ゴウラも目を細めた。


 イロハは止めようとしたが、サヨが先に答えた。


「ええ」


 ミツは目を丸くした。


「大人なのに?」


「大人でも、面のない者はいます」


「じゃあ、お店で目を合わせてもらえない?」


 あまりにもまっすぐな問いだった。


 サヨは少しだけ黙った。


 それから、柔らかく首を横に振る。


「わたしの場合、目は合わせてもらえます」


「じゃあ、いいじゃん」


 ミツの声には、子どもらしい素直さがあった。


 だが、次のサヨの言葉で、その素直さが静かに受け止められる。


「けれど、儀礼には呼ばれません」


「ぎれい?」


「皆が、この国の中でどんな役を持つのかを示す、大事な場所です」


「そこに行けないの?」


「はい」


「なんで」


「わたしの役名が、まだ定まっていないからです」


 ミツは、眉を寄せた。


「それ、ぼくと同じ?」


 サヨは、少しだけ微笑んだ。


 悲しい微笑みだった。


「少し、似ています」


 イロハは、その二人を見ていた。


 面のない皇女。


 仮面籍からこぼれた子。


 あまりにも違う。


 サヨは白影宮の奥で守られている。

 ミツは灰面長屋の路地で自分の面を抱えている。


 サヨは高貴な装束を隠している。

 ミツには隠すものすらない。


 サヨは面がないために公式儀礼へ出られない。

 ミツは面がないために店にも、井戸にも、学校にも入りにくい。


 立っている場所は正反対だ。


 けれど、同じ場所がある。


 この国の中に、自分を置く棚がない。


 イロハは、胸の奥が熱くなった。


 そうだ。


 自分がサヨを助けたい理由は、皇女だからだけではない。


 もちろん、サヨは皇女だ。

 白影宮の主であり、アヤメが命をかけて守る人であり、王朝にとって重要な存在だ。


 けれど、イロハがあの空の面箱から目を離せないのは、それだけではない。


 サヨは、かつての自分と同じだ。


 役を置く場所がなく、顔を待っている人。


 どこかの棚に入れられるのではなく、自分が何者として立つのかをまだ探している人。


 だから、作りたいのだ。


 サヨが、この国で息をするための面を。


 でも、それは押しつけてはいけない。


 イロハが勝手に決めてはいけない。


 ミツの面に仮置きをしなかったように。


 サヨの未在面も、イロハが一方的に彫って与えるものではない。


 サヨ自身が、何者として立ちたいのか。


 それを知らなければならない。


「イロハ」


 サヨが呼んだ。


 イロハは顔を上げる。


「はい」


「ここへ来て、少しわかりました」


 サヨは、灰面長屋の路地を見渡した。


 欠けた面。

 干された面。

 隠された面。

 借り物の面。


 どれも、完全ではない。


 けれど、人々はそれでも生きている。


「面がないことは、わたしだけの寂しさではなかったのですね」


 その言葉は静かだった。


 けれど、イロハの胸に深く落ちた。


「サヨ様……」


 アヤメが、小さく咳払いをした。


「呼び方にお気をつけください」


「あ」


 イロハは慌てて口を押さえた。


 ミツが首を傾げる。


「サヨさま?」


 アヤメの気配が一瞬だけ固まる。


 ゴウラが、わざと大きく咳をした。


「この横丁では、誰がどこの誰かは聞かん。そういう決まりだ」


 ミツはまだ不思議そうだったが、ゴウラの目を見て、何かを察したらしい。


「ふうん」


 それ以上は聞かなかった。


 サヨは、ゴウラに向かって静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言われるようなことじゃありません。ここじゃ、名を隠して来る者も、面を隠して来る者も珍しくない」


 ゴウラはそう言ってから、少しだけサヨを見た。


「ただし、お忍びの方。ここへ来たなら、きれいなものだけは見られませんぞ」


「そのために来ました」


 サヨの声は澄んでいた。


「見えないものを、見ないままにしておくほうが怖いのです」


 その時、ミツが自分の面を押さえながら言った。


「じゃあ、井戸に行く?」


「井戸?」


「顔が映るか、見るところ」


 イロハは、少し不穏なものを感じた。


 ゴウラの表情も変わる。


「ミツ」


「だって、面が直ったら映るかもしれない」


 ミツは、素直にそう言った。


 イロハは、サヨと視線を交わした。


 水。


 鏡。


 月。


 反射。


 第4話の鏡水。

 第3話の鉄鉢。

 第2話の月見池。


 嫌な連想が胸をよぎる。


 しかし空は昼だ。


 月はない。


 それでも、最近の異変は空の月だけでは済まないと、もうわかっている。


 サヨは静かに言った。


「見てみましょう」


 アヤメがすぐに反応した。


「危険です」


「あなたがいるでしょう」


「それでも」


「イロハもいます」


 アヤメはイロハを見た。


 その目は、責めるというより確認だった。


 行くのか。


 イロハは息を吸った。


 怖い。


 だが、ここで目を逸らせば、この場所へ来た意味がない。


「行きます」


 イロハは言った。


「ただし、私が先に見ます」


 ミツは、不思議そうに笑った。


「水桶だよ。怖くないよ」


 イロハは、その無邪気さに胸が痛くなった。


 そうだ。


 本来、水桶は怖いものではない。


 顔を映すだけのものだ。


 でも、この国では。


 面を持たない者の顔を、水さえ正しく映さないかもしれない。


 灰面長屋の奥、古井戸のほうへ、一行は歩き出した。


 軒先の欠け面たちが、風に揺れる。


 からから、と鳴った。


 まるで、これから映るものを、先に知っているかのように。

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