表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
54/108

第二節 ― 仮面籍からこぼれた子

 ミツ=ハイノは、戸板の陰からなかなか出てこなかった。


 イロハが膝をついたまま待っていると、ゴウラが鼻を鳴らした。


「ほら、怖がるな。取って食いやしねえ」


「役所の人じゃない?」


 ミツは、まずそこを聞いた。


 小さな声だった。


 けれど、その問いには、子どもらしい警戒以上のものがあった。


 役所の人かどうか。


 この町では、それが最初に確かめるべきことなのだ。


 イロハは、少しだけ胸が痛んだ。


「違うよ。私は面師」


「札を貼る人?」


「面を直す人」


 ミツはまだ疑っているようだった。


 イロハは道具袋から、白い布に包んだ小さな面紐を取り出した。


「ほら。これは修理用。面を取り上げるためのものじゃない」


 ミツはようやく、戸板の陰から一歩出てきた。


 痩せた子だった。


 着物は何度も縫い直され、袖の長さが左右で少し違う。膝のあたりに灰色の汚れがついていて、足袋のつま先は薄く破れている。


 顔は、まだ幼い。


 けれど、幼い子ども特有の無防備さは少なかった。


 誰かに見られることに慣れていない顔だった。


 いや、違う。


 見られないことに慣れてしまった顔だった。


 ゴウラは、先ほどの子ども面をイロハへ渡した。


「これだ」


 イロハは両手で受け取った。


 小さな面。


 子ども用と言うには、目元の線が硬い。もとは大人の面だったものを削り直したのだろう。頬は薄く削られ、顎も丸く整えられているが、内側には古い大人の息の痕が残っている。


 面紐は新しい。


 けれど、紐穴は雑に開け直されていた。片方は少し高く、もう片方は低い。そのせいで、つけると面がわずかに傾くはずだった。


 イロハは内側を覗く。


 役がない。


 いや、完全にないわけではない。


 残っているのは、誰か別の家の子どもの名残だった。昔、その家で使われていた生面に近いもの。だが、ミツのものではない。


 合っていない。


 けれど、何もないよりはましだと、無理に顔へ結びつけられている。


 イロハは、面の内側に指を添えた。


「これ、つけると痛いでしょう」


 ミツは驚いたように目を上げた。


「なんでわかるの」


「紐穴がずれているから。右の耳の後ろ、擦れるんじゃない?」


 ミツは、反射的に右耳の後ろを押さえた。


 そこには、赤くなった擦り傷があった。


「……ちょっとだけ」


「ちょっとじゃないね」


 イロハは布を広げ、面をその上に置いた。


「いつから使ってるの?」


「春から」


「その前は?」


 ミツは黙った。


 ゴウラが代わりに言った。


「この子は戦で家を失った。ハイノの家筋はあったが、家の生面は焼けた。親族も見つからん。仮面籍の控えも途切れている」


 イロハは、息を詰めた。


 ミツは、自分の名前は持っている。


 ミツ=ハイノ。


 けれど、その名を支える家の面がない。


 生まれた家を示す生面がない。


 まだ職面を持つ年齢でもない。


 祈面をつけて神前に立つ立場でもない。


 つまり、この子は制度上、どこにも置けない。


 イロハは、ミツの顔を見た。


 その顔が、幼い頃の自分と重なった。


 役所の前。


 寒い朝。


 誰かが言った。


 ――この子はどこの家の面を持つ。


 誰も答えられなかった。


 その時、自分は名前を持っていたのだろうか。


 持っていたはずだ。


 でも、その名前を置く棚がなかった。


 だから、世界が自分をうまく見てくれなかった。


 ミツは、足先で地面をこすりながら言った。


「面がないと、店の人が目を合わせてくれないんだ」


 イロハは、何も言えなかった。


 ミツは続けた。


「おにぎりを買いに行っても、誰の使いかって聞かれる。水を汲みに行っても、どこの長屋の子かって聞かれる。名前を言っても、面はって言われる」


 小さな手が、自分の顔の前に上がる。


 面をつけていない口元を隠すように。


「でも、借り物の面をつけると、今度は誰の子かわからないって言われる」


 横丁の音が、遠くなった。


 古面を磨く布の音。

 軒先の面が触れ合う音。

 水桶の底で揺れる水の音。


 それらがすべて、ミツの言葉の後ろへ退いていく。


「面がないと、見てもらえない。でも、違う面をつけると、嘘つきみたいに見られる」


 ミツは、そう言ってから、しまったという顔をした。


 言い過ぎたと思ったのかもしれない。


 怒られると思ったのかもしれない。


 イロハは、ゆっくり首を横に振った。


「嘘つきじゃないよ」


 ミツは、顔を上げた。


「でも、この面、ぼくのじゃない」


「うん」


 イロハは、面を見下ろした。


「これは、ミツの面じゃない」


 ミツの顔がこわばる。


 ゴウラが眉をひそめた。


「おい、イロハ」


 イロハは続けた。


「でも、だからってミツが嘘つきになるわけじゃない。これは、まだミツの顔に追いついていない面なんだと思う」


「追いついてない?」


「うん。面のほうが、まだミツを知らない」


 ミツは、意味がわからないという顔をした。


 イロハは、少し考えてから言葉を選んだ。


「面って、つけたら終わりじゃないの。持ち主の息を覚えて、歩き方を覚えて、声を覚えて、だんだんその人に馴染んでいく。でもこの面は、もともと別の人の息を覚えている。だから、ミツの顔に合わせようとして、迷っている」


 ミツは、面をじっと見た。


「この面も、迷うの?」


「迷うよ」


 イロハは微笑んだ。


「面も、迷う」


 ゴウラが小さく笑った。


「ロウセツ親方みたいなことを言う」


「師匠なら、もっと乱暴に言います」


「違いない」


 そのやり取りで、ミツの肩が少しだけ下がった。


 イロハは、面紐を外し、内側を丁寧に拭いた。


「少し直してもいい?」


「取らない?」


「取らない」


「役所に渡さない?」


「渡さない」


「ほんとに?」


 イロハは、ミツの目を見た。


「ほんとに」


 ミツはしばらく迷い、それから小さく頷いた。


 イロハは道具袋から細い木片と柔らかな布、調整用の仮紐を取り出した。


 本格的な修復ではない。


 ここで新しい役を置くことはできない。


 してはいけない。


 ミツにはまだ、戻すべき役がない。


 ユラには、神楽師としての役があった。

 ハルマサには、人々の前に立ち、害を通さない役があった。

 カンナには、夜の香で宮を眠らせる役があった。

 セイランには、読めぬものも残す役があった。


 けれど、ミツにはまだ、制度上の役がない。


 ここでイロハが勝手に仮置きをすれば、それは救いではなく、押しつけになる。


 この子を、この子ではないどこかの棚に無理やり入れることになる。


 イロハは、指先を止めた。


 怖い。


 初めて、自分の手が怖かった。


 直すことと、決めることは違う。


 助けることと、作り変えることは違う。


 第5話で、アリノリは何度も「別です」と言った。


 その言葉が嫌いだった。


 人の痛みを切り分ける言葉に聞こえた。


 けれど今、その「別」が自分の中に刺さっている。


 救われたことと、変えられなかったことは別なのかもしれない。


 ロウセツは、自分を救った。


 でも。


 自分は《ナギノオモテ》を与えられたことで、何か別のものに作り変えられたのではないか。


 イロハは、腰の鍵を無意識に押さえた。


 ミツがそれに気づく。


「そこに、面があるの?」


 イロハは息を止めた。


「……うん」


「イロハさんの?」


「そう。私の面」


「つけないの?」


 イロハは、すぐには答えられなかった。


 《ナギノオモテ》。


 師匠が与えた面。


 イロハ=ナギとして、この国に立つための面。


 けれど今は、その面が何なのか、自分でもわからなくなっている。


「今日は、まだ」


 イロハはそう答えた。


 ミツは不思議そうに首を傾げた。


「自分の面なのに?」


「うん」


 イロハは、少し笑った。


「自分の面だから、怖い時もある」


 ミツは、黙ってそれを聞いていた。


 子どもには難しい話だったかもしれない。


 でも、わからないなりに受け取ってくれたようだった。


 イロハは、面の紐穴を少し整え、右側へ薄い当て布をつけた。耳の後ろが擦れないように、紐の通し方を変える。


 役は置かない。


 名も書かない。


 ただ、この子が今日、痛くなく面をつけられるようにする。


 それだけなら、今のイロハにもできる。


「つけてみて」


 イロハは、面をミツへ差し出した。


 ミツは恐る恐る受け取り、顔へ当てた。


 紐を結ぶ。


 今度は、少しだけまっすぐだった。


 ミツは目を瞬かせる。


「痛くない」


「よかった」


「ずれてない?」


「少しはずれてる。でも、前よりはいい」


「……ぼくの面になる?」


 その問いに、イロハは胸を突かれた。


 なる。


 そう言ってあげたかった。


 でも、言えなかった。


 この面は、まだミツの生面ではない。


 仮面籍にも載っていない。


 役名も安定していない。


 そして何より、ミツ自身がこれから何者として立つのかを、まだ誰も知らない。


 イロハは、正直に言った。


「まだ、わからない」


 ミツの目が少し沈む。


 イロハは続けた。


「でも、今日この面をつけて水を汲みに行く時、少し痛くなくなる。それはできた」


 ミツは、面の上から耳の後ろを触った。


「うん」


「明日も、少し直せるかもしれない。明後日も。そのうち、この面がミツの息を覚えるかもしれない。別の面が必要になるかもしれない。まだわからない」


「わからないばっかり」


「うん」


 イロハは頷いた。


「でも、勝手に決めるよりは、わからないまま一緒に見るほうがいいと思う」


 ミツは、じっとイロハを見た。


 面越しの目だった。


 少しだけ、光が戻っている。


「イロハさんも、そうしてもらった?」


 イロハは、答えられなかった。


 ロウセツは、自分にそうしてくれただろうか。


 勝手に決めずに、一緒に見てくれただろうか。


 それとも。


 息をするために必要だったから、先に面を与えたのだろうか。


 救うために。


 作り変えることになっても。


 ゴウラが静かに言った。


「その答えは、親方に聞くしかないな」


 イロハは、うつむいた。


「……はい」


 欠け面横丁の奥で、風が吹いた。


 吊るされた面たちが、からからと鳴る。


 ミツは、少しだけ面を押さえながら、路地の明るいほうを見た。


「これなら、井戸に行けるかな」


「行けるよ」


 イロハは言った。


「でも、誰かに何か言われたら、ゴウラさんのところに戻っておいで。私も、今日はこの辺りにいるから」


「うん」


 ミツは、小さく頷いた。


 その時、横丁の入り口のほうが少し騒がしくなった。


 人の気配。


 車輪の音。


 布で隠した小さな御簾車が、灰面長屋の狭い道へ入ってくる音だった。


 ゴウラが眉をひそめる。


「なんだ、こんな奥まで」


 イロハは顔を上げた。


 御簾車の横に立つ影を見て、息を呑む。


 白羽のように静かな立ち姿。


 周囲を警戒する、鋭い目。


 アヤメ=シラハだった。


 そして御簾の内側から、静かな声がした。


「イロハ」


 サヨ=ミカゲの声だった。


 イロハは立ち上がった。


「サヨ様……?」


 灰面長屋の空気が、一瞬で変わる。


 面を持てなかった子どもの前に、面のない皇女が現れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ