第二節 ― 仮面籍からこぼれた子
ミツ=ハイノは、戸板の陰からなかなか出てこなかった。
イロハが膝をついたまま待っていると、ゴウラが鼻を鳴らした。
「ほら、怖がるな。取って食いやしねえ」
「役所の人じゃない?」
ミツは、まずそこを聞いた。
小さな声だった。
けれど、その問いには、子どもらしい警戒以上のものがあった。
役所の人かどうか。
この町では、それが最初に確かめるべきことなのだ。
イロハは、少しだけ胸が痛んだ。
「違うよ。私は面師」
「札を貼る人?」
「面を直す人」
ミツはまだ疑っているようだった。
イロハは道具袋から、白い布に包んだ小さな面紐を取り出した。
「ほら。これは修理用。面を取り上げるためのものじゃない」
ミツはようやく、戸板の陰から一歩出てきた。
痩せた子だった。
着物は何度も縫い直され、袖の長さが左右で少し違う。膝のあたりに灰色の汚れがついていて、足袋のつま先は薄く破れている。
顔は、まだ幼い。
けれど、幼い子ども特有の無防備さは少なかった。
誰かに見られることに慣れていない顔だった。
いや、違う。
見られないことに慣れてしまった顔だった。
ゴウラは、先ほどの子ども面をイロハへ渡した。
「これだ」
イロハは両手で受け取った。
小さな面。
子ども用と言うには、目元の線が硬い。もとは大人の面だったものを削り直したのだろう。頬は薄く削られ、顎も丸く整えられているが、内側には古い大人の息の痕が残っている。
面紐は新しい。
けれど、紐穴は雑に開け直されていた。片方は少し高く、もう片方は低い。そのせいで、つけると面がわずかに傾くはずだった。
イロハは内側を覗く。
役がない。
いや、完全にないわけではない。
残っているのは、誰か別の家の子どもの名残だった。昔、その家で使われていた生面に近いもの。だが、ミツのものではない。
合っていない。
けれど、何もないよりはましだと、無理に顔へ結びつけられている。
イロハは、面の内側に指を添えた。
「これ、つけると痛いでしょう」
ミツは驚いたように目を上げた。
「なんでわかるの」
「紐穴がずれているから。右の耳の後ろ、擦れるんじゃない?」
ミツは、反射的に右耳の後ろを押さえた。
そこには、赤くなった擦り傷があった。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないね」
イロハは布を広げ、面をその上に置いた。
「いつから使ってるの?」
「春から」
「その前は?」
ミツは黙った。
ゴウラが代わりに言った。
「この子は戦で家を失った。ハイノの家筋はあったが、家の生面は焼けた。親族も見つからん。仮面籍の控えも途切れている」
イロハは、息を詰めた。
ミツは、自分の名前は持っている。
ミツ=ハイノ。
けれど、その名を支える家の面がない。
生まれた家を示す生面がない。
まだ職面を持つ年齢でもない。
祈面をつけて神前に立つ立場でもない。
つまり、この子は制度上、どこにも置けない。
イロハは、ミツの顔を見た。
その顔が、幼い頃の自分と重なった。
役所の前。
寒い朝。
誰かが言った。
――この子はどこの家の面を持つ。
誰も答えられなかった。
その時、自分は名前を持っていたのだろうか。
持っていたはずだ。
でも、その名前を置く棚がなかった。
だから、世界が自分をうまく見てくれなかった。
ミツは、足先で地面をこすりながら言った。
「面がないと、店の人が目を合わせてくれないんだ」
イロハは、何も言えなかった。
ミツは続けた。
「おにぎりを買いに行っても、誰の使いかって聞かれる。水を汲みに行っても、どこの長屋の子かって聞かれる。名前を言っても、面はって言われる」
小さな手が、自分の顔の前に上がる。
面をつけていない口元を隠すように。
「でも、借り物の面をつけると、今度は誰の子かわからないって言われる」
横丁の音が、遠くなった。
古面を磨く布の音。
軒先の面が触れ合う音。
水桶の底で揺れる水の音。
それらがすべて、ミツの言葉の後ろへ退いていく。
「面がないと、見てもらえない。でも、違う面をつけると、嘘つきみたいに見られる」
ミツは、そう言ってから、しまったという顔をした。
言い過ぎたと思ったのかもしれない。
怒られると思ったのかもしれない。
イロハは、ゆっくり首を横に振った。
「嘘つきじゃないよ」
ミツは、顔を上げた。
「でも、この面、ぼくのじゃない」
「うん」
イロハは、面を見下ろした。
「これは、ミツの面じゃない」
ミツの顔がこわばる。
ゴウラが眉をひそめた。
「おい、イロハ」
イロハは続けた。
「でも、だからってミツが嘘つきになるわけじゃない。これは、まだミツの顔に追いついていない面なんだと思う」
「追いついてない?」
「うん。面のほうが、まだミツを知らない」
ミツは、意味がわからないという顔をした。
イロハは、少し考えてから言葉を選んだ。
「面って、つけたら終わりじゃないの。持ち主の息を覚えて、歩き方を覚えて、声を覚えて、だんだんその人に馴染んでいく。でもこの面は、もともと別の人の息を覚えている。だから、ミツの顔に合わせようとして、迷っている」
ミツは、面をじっと見た。
「この面も、迷うの?」
「迷うよ」
イロハは微笑んだ。
「面も、迷う」
ゴウラが小さく笑った。
「ロウセツ親方みたいなことを言う」
「師匠なら、もっと乱暴に言います」
「違いない」
そのやり取りで、ミツの肩が少しだけ下がった。
イロハは、面紐を外し、内側を丁寧に拭いた。
「少し直してもいい?」
「取らない?」
「取らない」
「役所に渡さない?」
「渡さない」
「ほんとに?」
イロハは、ミツの目を見た。
「ほんとに」
ミツはしばらく迷い、それから小さく頷いた。
イロハは道具袋から細い木片と柔らかな布、調整用の仮紐を取り出した。
本格的な修復ではない。
ここで新しい役を置くことはできない。
してはいけない。
ミツにはまだ、戻すべき役がない。
ユラには、神楽師としての役があった。
ハルマサには、人々の前に立ち、害を通さない役があった。
カンナには、夜の香で宮を眠らせる役があった。
セイランには、読めぬものも残す役があった。
けれど、ミツにはまだ、制度上の役がない。
ここでイロハが勝手に仮置きをすれば、それは救いではなく、押しつけになる。
この子を、この子ではないどこかの棚に無理やり入れることになる。
イロハは、指先を止めた。
怖い。
初めて、自分の手が怖かった。
直すことと、決めることは違う。
助けることと、作り変えることは違う。
第5話で、アリノリは何度も「別です」と言った。
その言葉が嫌いだった。
人の痛みを切り分ける言葉に聞こえた。
けれど今、その「別」が自分の中に刺さっている。
救われたことと、変えられなかったことは別なのかもしれない。
ロウセツは、自分を救った。
でも。
自分は《ナギノオモテ》を与えられたことで、何か別のものに作り変えられたのではないか。
イロハは、腰の鍵を無意識に押さえた。
ミツがそれに気づく。
「そこに、面があるの?」
イロハは息を止めた。
「……うん」
「イロハさんの?」
「そう。私の面」
「つけないの?」
イロハは、すぐには答えられなかった。
《ナギノオモテ》。
師匠が与えた面。
イロハ=ナギとして、この国に立つための面。
けれど今は、その面が何なのか、自分でもわからなくなっている。
「今日は、まだ」
イロハはそう答えた。
ミツは不思議そうに首を傾げた。
「自分の面なのに?」
「うん」
イロハは、少し笑った。
「自分の面だから、怖い時もある」
ミツは、黙ってそれを聞いていた。
子どもには難しい話だったかもしれない。
でも、わからないなりに受け取ってくれたようだった。
イロハは、面の紐穴を少し整え、右側へ薄い当て布をつけた。耳の後ろが擦れないように、紐の通し方を変える。
役は置かない。
名も書かない。
ただ、この子が今日、痛くなく面をつけられるようにする。
それだけなら、今のイロハにもできる。
「つけてみて」
イロハは、面をミツへ差し出した。
ミツは恐る恐る受け取り、顔へ当てた。
紐を結ぶ。
今度は、少しだけまっすぐだった。
ミツは目を瞬かせる。
「痛くない」
「よかった」
「ずれてない?」
「少しはずれてる。でも、前よりはいい」
「……ぼくの面になる?」
その問いに、イロハは胸を突かれた。
なる。
そう言ってあげたかった。
でも、言えなかった。
この面は、まだミツの生面ではない。
仮面籍にも載っていない。
役名も安定していない。
そして何より、ミツ自身がこれから何者として立つのかを、まだ誰も知らない。
イロハは、正直に言った。
「まだ、わからない」
ミツの目が少し沈む。
イロハは続けた。
「でも、今日この面をつけて水を汲みに行く時、少し痛くなくなる。それはできた」
ミツは、面の上から耳の後ろを触った。
「うん」
「明日も、少し直せるかもしれない。明後日も。そのうち、この面がミツの息を覚えるかもしれない。別の面が必要になるかもしれない。まだわからない」
「わからないばっかり」
「うん」
イロハは頷いた。
「でも、勝手に決めるよりは、わからないまま一緒に見るほうがいいと思う」
ミツは、じっとイロハを見た。
面越しの目だった。
少しだけ、光が戻っている。
「イロハさんも、そうしてもらった?」
イロハは、答えられなかった。
ロウセツは、自分にそうしてくれただろうか。
勝手に決めずに、一緒に見てくれただろうか。
それとも。
息をするために必要だったから、先に面を与えたのだろうか。
救うために。
作り変えることになっても。
ゴウラが静かに言った。
「その答えは、親方に聞くしかないな」
イロハは、うつむいた。
「……はい」
欠け面横丁の奥で、風が吹いた。
吊るされた面たちが、からからと鳴る。
ミツは、少しだけ面を押さえながら、路地の明るいほうを見た。
「これなら、井戸に行けるかな」
「行けるよ」
イロハは言った。
「でも、誰かに何か言われたら、ゴウラさんのところに戻っておいで。私も、今日はこの辺りにいるから」
「うん」
ミツは、小さく頷いた。
その時、横丁の入り口のほうが少し騒がしくなった。
人の気配。
車輪の音。
布で隠した小さな御簾車が、灰面長屋の狭い道へ入ってくる音だった。
ゴウラが眉をひそめる。
「なんだ、こんな奥まで」
イロハは顔を上げた。
御簾車の横に立つ影を見て、息を呑む。
白羽のように静かな立ち姿。
周囲を警戒する、鋭い目。
アヤメ=シラハだった。
そして御簾の内側から、静かな声がした。
「イロハ」
サヨ=ミカゲの声だった。
イロハは立ち上がった。
「サヨ様……?」
灰面長屋の空気が、一瞬で変わる。
面を持てなかった子どもの前に、面のない皇女が現れた。




