第一節 ― 欠け面横丁
欠け面横丁は、灰面長屋のさらに奥にあった。
表通りからは見えない。
洗い場の脇を抜け、古い井戸を回り、干された面の下をくぐるように進むと、急に道幅が狭くなる。両側の軒が互いにもたれかかり、昼だというのに薄暗い。雨の日には、軒から落ちる水が真ん中の溝を伝って流れるのだろう。石畳の隙間には、黒く乾いた漆の粒がこびりついていた。
そこに、面が並んでいた。
正規の面屋では、決して表へ出されない面ばかりだった。
片目の欠けた職面。
頬の削れた古面。
紐だけがやけに新しい、持ち主不明の祈面。
役名札の剥がされた生面。
死者から流れた面箱。
大人用の面を小さく削り直し、子どもの顔に合わせたもの。
割れ目を漆で無理に埋めたせいで、片頬だけ盛り上がった面。
それらは、整った棚には置かれていなかった。
古い戸板の上に並べられ、煤けた布の上に伏せられ、軒先の釘に紐で吊るされていた。値札の代わりに、木片へ墨で短く書かれている。
要修理。
仮置き可。
紐替え済。
片目欠け。
登録不明。
持ち主相談。
イロハは、その文字をひとつずつ見ながら歩いた。
胸の奥が、重くなる。
ここでは面が、商品というより、行き場を失った人そのものに見えた。
誰かに捨てられたわけではない。
けれど、正しい場所へ戻れない。
まだ使える。
けれど、正式には使えない。
誰かの顔だったはずなのに、今は誰の顔として扱えばいいのかわからない。
欠け面横丁にいる人々は、イロハを見ると、ちらりと視線を向けた。
すぐには近づいてこない。
店先で古面を磨いていた女は、布を面の上へそっと被せた。
細い老人は、吊るしていた面箱を軒の奥へ引っ込めた。
子どもを連れた若い母親は、子どもの頬へ布をかけるようにして、道の端へ寄った。
イロハは立ち止まった。
その反応を責めることはできない。
今の自分は、中級面師の札を持っている。
面師小路の裏工房の者とはいえ、資格は正規のものだ。灰面長屋の人々にとって、正規資格を持つ面師は助けにもなる。壊れた面を直し、役が薄れた面を読めるかもしれない。
けれど同時に、制度側の人間にも見える。
仮面籍庁が動いたばかりだ。
灰札が来る。
未認定面が確認される。
仮置き面が提出を求められる。
その噂は、もうここまで届いているのだろう。
イロハは、自分の道具袋へ手を添えた。
いつもなら、この袋は安心をくれた。彫刻刀、仮札、面紐、古い漆壺、柔らかな布。面を直すためのものたち。
でも今は、その道具袋さえ人を怯えさせているように思えた。
自分は、助ける者として見られていない。
裁く者の側から来たように見えている。
その事実が、胸に刺さった。
「おい」
しわがれた声がした。
横丁の奥、古い店先に腰かけた老人が、イロハを見ていた。
背は小さく、髪は灰色。片頬に、古い火傷の痕がある。膝の上には、磨きかけの古面が置かれていた。
その面は、左の眉のあたりが割れていた。
老人はイロハをじっと見て、目を細める。
「ロウセツ親方のところの子か」
イロハは息を止めた。
「……はい」
老人は、ふっと笑った。
「大きくなったな」
その一言で、イロハの足元が揺れた。
覚えられていた。
自分は、この場所に。
胸の奥から、忘れていた感覚がゆっくり上がってくる。
小さな手。
大人の袖。
古い戸板の匂い。
軒先に吊られた欠け面。
寒さ。
空腹。
それから、誰かが自分を見て、見ないふりをした気配。
でも、この老人は覚えていたのだ。
あの時の、自分を。
「私を……知っているんですか」
イロハの声は、自分でも驚くほど小さかった。
老人は、膝の上の古面を布で拭きながら頷いた。
「知ってるとも。顔のない子が、ロウセツ親方に拾われていった。あの日は、この横丁じゃしばらく噂だった」
「顔のない子……」
「悪く取るな。ここじゃ、そういう言い方をする」
老人は、割れた面を持ち上げた。
「面を失った者。生面を焼かれた者。仮面籍が切れた者。役名札を剥がされた者。ここでは皆、一度は顔のない者になる」
イロハは、言葉を失った。
老人は、面を横に置き、店先の小さな椅子を顎で示した。
「座れ。突っ立ってると、みんな余計に怯える」
イロハは少しためらい、それから腰を下ろした。
木の椅子は古く、片足が少し短い。座ると、かた、と揺れた。
老人は隣の茶碗を差し出す。
「茶は薄いぞ」
「ありがとうございます」
茶碗の中には、ほとんど色のない茶が入っていた。
それでも、温かかった。
イロハは両手で受け取り、少しだけ口をつける。
横丁の人々は、まだこちらを見ている。
けれど、老人が声をかけたことで、ほんの少し空気が変わった。面を隠した女が布を少しだけずらし、若い母親が子どもの肩から手を離す。
老人は言った。
「わしはゴウラ。古面商だ。もっとも、表の面屋から見りゃ、面商じゃなくて面屑拾いだろうがな」
「ゴウラさん」
「お前、ロウセツ親方の工房で働いてるんだろう」
「はい」
「中級面師になったと聞いた」
イロハは少しだけ肩を縮めた。
「一応、です」
「一応でも札があるなら立派なものだ。この横丁じゃ、札のある手は貴重だ」
そう言いながら、ゴウラは片目の欠けた職面を手に取った。
「こいつを見ろ」
イロハは、茶碗を置いて面を受け取った。
商人用の職面だろう。口元に愛想笑いの線があり、眉は柔らかい。けれど右目が欠けている。欠けた部分には、別の木片がはめられ、漆で止められていた。
乱暴な修理だ。
けれど、必死さがある。
イロハは内側を見た。
薄い。
役が薄い。
もともとは小間物を売る商人の職面だったようだが、持ち主が変わったのか、長く使われなかったのか、役の呼びかけが弱っている。
「……商人の面ですね。でも、今の持ち主とは少し合っていない」
ゴウラは目を細めた。
「わかるか」
「はい。片目が欠けたせいだけじゃありません。たぶん、もとの持ち主の商いと、今の持ち主の商いが違うんです。声が少しずれている」
「今は油売りが使ってる。もとは針売りの面だ」
イロハは頷いた。
「無理に使えば、商いの言葉が滑ります。客の顔は見られるけれど、値を決めるところで迷うかもしれない」
「その通りだ」
ゴウラは、満足げに鼻を鳴らした。
「ロウセツ親方の目だな」
イロハは苦笑しかけて、止まった。
師匠の目。
それは褒め言葉なのだろう。
けれど今は、その言葉が重い。
ロウセツはイロハを救った。
だが同時に、ロウセツは禁忌を犯した。
役のない子どもに、面を与えた。
自分の生まれながらの役を、作り変えるような面を。
イロハは、腰の鍵を意識した。
《ナギノオモテ》は、今日も開けていない。
師匠に言われたからだけではない。
開けるのが、少し怖くなっていた。
ゴウラは、そんなイロハの様子に気づいたようだった。
「どうした。親方と喧嘩でもしたか」
「いえ」
「なら、仮面籍庁か」
イロハは顔を上げた。
ゴウラは、皺だらけの顔で静かに笑った。
「ここに来る奴の悩みなんざ、たいてい面か役所だ。お前の場合は、両方だろう」
イロハは、否定できなかった。
「仮面籍庁が、灰面長屋と欠け面横丁の面も再検査対象にすると言っています」
ゴウラは笑みを消した。
店先の空気が、一瞬で冷えた。
近くで面を拭いていた女が手を止める。奥にいた子どもが、戸板の陰へ隠れた。
「……やっぱり来たか」
ゴウラの声は低かった。
「ご存じだったんですか」
「来ないわけがない。白化だの不安定役だの騒ぎになりゃ、連中はまず上の面を調べる。それが終われば、次は下だ」
「下……」
「ここさ」
ゴウラは横丁を顎で示した。
「正規の棚に置けない面。台帳と合わない面。持ち主がわからない面。役名札の剥がれた面。仮置きでなんとか息をしてる面。役所から見れば、全部乱れだ」
イロハは、店先に並ぶ面を見た。
乱れ。
そう呼ぶことはできるのかもしれない。
登録不明。
持ち主不一致。
修復不完全。
未認定。
仮面籍庁の言葉なら、いくらでも名前をつけられる。
けれど、イロハにはそれらが生活に見えた。
誰かが明日も店に立つための面。
子どもが水を汲みに行くための面。
老人が「まだ自分はここにいる」と示すための面。
ゴウラは、片目の職面をイロハから受け取った。
「お前は、何しに来た」
その問いに、イロハはすぐに答えられなかった。
師匠に言われたから。
灰面長屋を見ろと言われたから。
自分が何と戦うのかを知るために。
いくつも答えはある。
けれど、どれもまだ自分の言葉になっていなかった。
「……見に来ました」
イロハは、ようやく言った。
「ここで、面を持てなかった人たちが、どうやって息をしているのかを」
ゴウラは黙っていた。
イロハは続ける。
「私は、白影宮の皇女様の面を作ろうとしています。でも、その方には初めから面がありません。役も、台帳にありません。仮面籍庁は、役名保留候補にしました」
ゴウラの目が、わずかに動いた。
「皇女様が、か」
「はい」
「上にも、そういう者がいるのか」
その言い方に、イロハは胸を突かれた。
上にも。
そうだ。
サヨは王朝の奥にいる。
灰面長屋の人々とは、何もかも違う。
住む場所も、食べる物も、着るものも、守る者の数も。
けれど、面がないという一点で、同じ場所に触れている。
存在しにくい。
この国の中に、自分を置く棚がない。
「だから、見たいんです」
イロハは言った。
「役を定められなかった人たちの面を。定められなくても、どうやって生きているのかを」
ゴウラは、しばらくイロハを見ていた。
やがて、低く笑った。
「面師らしくなったな」
「そうですか」
「少なくとも、役人の顔ではない」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
ゴウラは店の奥へ手を伸ばし、古い小さな面を取り出した。
子ども用の面だった。
いや、正確には子ども用に削り直された大人の面だ。頬の幅を狭め、顎を削り、紐穴を開け直してある。けれど、目元の線はまだ大人のままで、子どもの顔にはどこか重すぎる。
「なら、まずこれを見てやれ」
「これは」
「ミツの面だ」
「ミツ?」
ゴウラは横丁の奥へ声をかけた。
「ミツ。出てこい。ロウセツ親方のところの面師だ」
しばらく沈黙があった。
それから、戸板の陰から小さな子どもが顔を出した。
年は七つか八つほど。
髪は短く、ところどころ跳ねている。着物は何度も継ぎ当てされていた。顔には面をつけていない。けれど、面をつけていないことを隠すように、手で口元を押さえている。
その子の目が、イロハをじっと見た。
怯えと警戒。
そして、ほんの少しの期待。
イロハは息を呑んだ。
自分を見ているようだった。
幼い頃の。
どこの棚にも置かれず、誰の役にも入れず、ただ息の仕方だけを忘れかけていた頃の自分を。
ゴウラが言った。
「この子は、まだ自分の面を持っていない」
ミツは、戸板の陰から半分だけ出てきた。
イロハはゆっくり膝をつき、目線を合わせた。
「こんにちは。イロハ=ナギです」
ミツは少し黙ってから、小さく答えた。
「……ミツ=ハイノ」
名前は言える。
けれど、その名の後ろに、家の面の響きが薄い。
イロハは、そのことに気づいてしまった。
胸の奥が、また痛んだ。
欠け面横丁の風が、軒先の面を揺らす。
から、と小さく、面同士が触れ合う音がした。
それは、次に診るべき顔がここにあると告げる音のようだった。




