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序節 ― 灰の面を干す町

 面は、顔を与えるものだという。


 けれど、顔を買えぬ者はどうするのか。


 面を失った者は、もう誰にも見られぬのか。


 舞台に上がれぬ者たちは、舞台の外で、それでも息をしている。


 ――ならば、そこにも舞はあるのだろうか。


 仮面籍庁の黒漆の門が、背後で遠ざかっていく。


 イロハ=ナギは、ロウセツから届いた紙片を握りしめたまま、帝都カミザの外縁へ向かって歩いていた。


 灰面長屋へ行け。

 役を定められなかった者たちを見てこい。

 お前が何と戦うのか、そこにある。


 乱暴な字だった。


 いつもの師匠の字だ。


 曲がっていて、跳ねていて、読む者への配慮など少しもない。けれど、イロハにはその字の奥に、乾いた木粉と漆の匂い、煙管の煙、そして照れ隠しのような無愛想さまで感じ取れた。


 師匠は、いつもそうだった。


 大事なことほど、長く言わない。


 説明する代わりに、見に行けと言う。


 考える代わりに、手を動かせと言う。


 そして今もまた、イロハを白影宮ではなく、灰面長屋へ向かわせている。


 白影宮へ戻ることはできなかった。


 仮面籍庁の判定により、イロハは白影宮への単独出入りを制限された。皇族面への直接作業も禁止された。《ナギノオモテ》には登録確認命令が出され、ロウセツの工房には後日査察が入る。


 その言葉は、まだ耳の奥に残っている。


 白札。

 黒縁の白札。

 灰札。

 保留候補。

 確認命令。


 どれも紙の言葉だった。


 けれど、それらは確かに人の足を止める。


 ユラは舞台から遠ざけられた。

 ハルマサは刀を公的に抜けなくなった。

 セイランの記録は仮記録に落とされた。

 サヨは役名保留候補とされた。

 そしてイロハ自身も、サヨの面へ近づく道を閉じられた。


 月が喰った傷を、人が札で固定していく。


 イロハは、唇を噛んだ。


 それでも、歩くしかなかった。


 帝都カミザの中心は、いつも通り美しかった。


 白木の回廊は朝の光を受けて淡く輝き、黒漆の門はきちんと磨かれ、朱塗りの舞台には祭礼のための布が掛けられていた。役面市の店先では、職面や祈面が整然と並び、仮面籍のある者たちが、今日もそれぞれの役を選び、整え、磨いている。


 面のある人々の町。


 そこでは、誰もがどこかへ属しているように見えた。


 商家の者は商家の面を持ち、神楽師は舞の面を持ち、武士は戦面を持ち、役人は官面を持つ。子どもでさえ、家の奥にしまわれた生面によって、どこの家の者かを示されている。


 けれど、イロハが路地を折れ、さらに奥へ進むにつれ、都の顔は少しずつ変わっていった。


 白木の回廊は途切れた。


 黒漆の門は見えなくなった。


 朱塗りの舞台の笛や太鼓の音も、遠く霞んでいった。


 代わりに現れたのは、灰色の板塀だった。


 雨に濡れて色の抜けた長屋。

 傾いた軒。

 割れた瓦。

 古い井戸。

 煤けた面箱を椅子代わりにしている老人。

 物干し紐に吊るされた、乾きかけの布と、修理途中の欠けた面。


 そこでは、面は棚に納められていなかった。


 干されていた。


 白い布と一緒に、割れた生面が風に揺れている。片目の欠けた職面が、紐で吊るされている。漆を塗り直された祈面が、日陰で静かに乾かされている。


 面は神聖な器ではなく、生活の道具だった。


 直して、干して、また使う。


 誰かに見せるためではない。

 明日も水を汲みに行くため。

 米を買うため。

 店先で追い返されないため。

 自分がまだ誰かであると、かろうじて示すため。


 灰面長屋。


 帝都の外縁にある、仮面籍からこぼれた者たちの町。


 イロハは、その空気を吸った。


 湿った木と、古い漆と、煮炊きの煙。

 干された布の匂い。

 雨漏りした畳の匂い。

 そして、どこか懐かしい、欠けた面の匂い。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 ここを知っている。


 はじめて来たわけではない。


 幼い頃のイロハは、この匂いの中にいた。


 まだイロハ=ナギという名が、今ほど自分のものではなかった頃。


 生面を失い、家もなく、どの棚にも入れられなかった頃。


 役所の前で、誰かが言った。


 ――この子は、どこの家の面を持つ。


 別の誰かが答えた。


 ――記録にない。


 記録にない。


 その一言で、自分の足元が消えたような気がした。


 名前はあったはずだ。

 呼ばれていた気もする。

 泣いたことも、寒かったことも、手を引かれたことも覚えている。


 けれど、家の面がなかった。


 生面がなかった。


 だから、そこでは自分が何者なのか、誰にも言えなかった。


 イロハは立ち止まり、物干し紐に揺れる欠けた面を見上げた。


 片方の頬が割れている。


 けれど、その割れ目には丁寧に漆が入れられていた。


 完全には戻らない。


 でも、捨てられてはいない。


 その面を見ていると、胸の奥で別の記憶が疼いた。


 灰の降る道。


 焦げた木の匂い。


 誰かの袖を掴もうとして、空を掴んだ手。


 そして、低い声。


 ――息はできるか。


 イロハは目を伏せた。


 師匠の声だ。


 ロウセツ=カガミ。


 あの時、彼は名を聞かなかった。

 家も聞かなかった。

 役も聞かなかった。


 ただ、息はできるか、と聞いた。


 幼い自分は、答えられなかった。


 泣くこともできなかった。


 泣く役さえ、どこかへ落としてきたようだった。


 イロハは、手の中の紙片を握り直した。


 お前が何と戦うのか、そこにある。


 師匠。


 私は、何と戦えばいいんですか。


 月ですか。

 仮面籍庁ですか。

 定役面コトサダメですか。

 それとも、面を持たない者を映さない、この国そのものですか。


 答えは返ってこない。


 ただ、長屋の奥から、子どもの声が聞こえた。


「その面、こっちに干すと割れるぞ」


「だって、日が当たらないと乾かないじゃん」


「日が当たりすぎてもだめなんだよ。親方が言ってた」


 振り向くと、細い路地の先で、子どもたちが壊れた面箱を台にして、小さな面を並べていた。


 どれも本物の生面ではない。


 借り物。

 作りかけ。

 直し損ね。

 どこかの大人の面を削り直したもの。


 それでも子どもたちは、真剣な顔で面を扱っている。


 イロハは、胸の痛みを抱えたまま歩き出した。


 白影宮には行けない。


 けれど、ここには来られた。


 サヨの面を作るために、自分はまず、ここを見る必要がある。


 面を持てなかった人たちが、どうやって息をしているのか。


 役を定められなかった者たちが、どんな顔で今日を生きているのか。


 灰面長屋の奥から、風が吹いた。


 物干し紐に吊るされた欠け面たちが、からからと小さく鳴る。


 それは鈴の音ではなかった。


 神を迎える音でもない。


 けれどイロハには、それが舞台の外で鳴る、かすかな始まりの音に聞こえた。

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