表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/108

終節 ― 白札と黒札

 仮面籍庁の門を出た時、帝都カミザの空は、昼だというのにどこか白く曇っていた。


 月は出ていない。


 けれど、イロハ=ナギの視界の端には、まだ白いちらつきが残っていた。


 白札。

 黒縁の白札。

 灰札。

 確認命令。

 保留候補。


 審査所の中で置かれた札の色が、目を閉じても消えない。


 ユラ=シラビョウは、鈴祈舞面ユラノスズを抱えたまま、迎えの者に連れられていった。


 もう、奉納舞には立てない。


 少なくとも、仮面籍庁が許すまでは。


 ハルマサ=アカツキは、暁刃戦面アカツキノハの面箱を両手で持ち、深く一礼して去った。


 彼の腰には刀がある。


 けれど、その刀は今、公的には抜けない。


 セイラン=ナナツジは、仮記録扱いにされた報告書を抱え、陰陽寮へ戻る準備をしていた。


 記録は残った。


 だが、正式には読まれない。


 サヨ=ミカゲは、役名保留候補とされた。


 白影宮外の公式儀礼には、出られない。


 そしてイロハ自身も、もう白影宮へ自由には入れない。


 サヨの面を作るには、サヨがどんな役として立ちたいのかを知らなければならない。


 けれど、そのために会いに行く道を、いま閉じられた。


 月が喰った傷を、人が札で固定していく。


 イロハは、仮面籍庁の門前で立ち尽くした。


 黒漆の門は、何事もなかったように閉じている。


 門の奥には、棚がある。

 札がある。

 台帳がある。

 定役面コトサダメがある。


 そして、そこに置かれた言葉は、帝都中へ写しとして送られていく。


 舞台へ。

 武家屋敷へ。

 陰陽寮へ。

 白影宮へ。


 人の痛みより早く、札だけが届く。


「イロハ殿」


 アヤメ=シラハが、隣に立った。


 彼女もまた、顔色が悪かった。


 怒りを抑えているのではない。


 もっと深いところで、守るべき相手の足元が紙で削られていくのを見た顔だった。


「白影宮へは、私から戻って報告します」


 イロハは答えられなかった。


 白影宮へ戻れない。


 その事実が、今になって胸に重く落ちてきた。


「サヨ様は」


 ようやく声が出る。


「怒っていましたか」


「怒っておられます」


 アヤメは即答した。


 少しだけ、イロハは驚いた。


 アヤメは続ける。


「ただし、声を荒らす方ではありません。静かに怒っておられます。あの方の怒りは、忘れない怒りです」


 イロハは、御簾越しに聞いたサヨの声を思い出した。


 わたしは、覚えています。


 今日、誰が何を封じられたのか。


 誰が何を言ったのか。


 あなたが、まだ作ると言ったことも。


 その言葉だけが、今のイロハの足元をかろうじて支えていた。


「私は」


 イロハは言いかけて、言葉を飲み込んだ。


 何ができるのだろう。


 白影宮へ入れない。

 皇族面へ触れられない。

 《ナギノオモテ》は登録確認命令を受けた。

 ロウセツの工房には査察が来る。


 制度の前で、自分の手はあまりにも小さい。


 その時だった。


 仮面籍庁の門の脇から、灰白の官衣を着た下役が出てきた。


 彼はイロハたちへ軽く礼をし、手にした書付を読み上げる。


「追加通達です。仮面籍庁は、白化面および不安定役面の再検査に伴い、帝都内の仮置き面、未認定面、修復保留面についても順次確認を行います」


 イロハの背筋が凍った。


 下役は淡々と続ける。


「対象地域には、面師小路裏、灰面長屋、欠け面横丁を含みます」


「待ってください」


 イロハの声が、思ったより鋭く出た。


 下役が目を上げる。


「灰面長屋も、ですか」


「はい」


「欠け面横丁も」


「はい。仮置き面の不正使用、未認定面の流通、資格外修復の疑いがあるため、後日確認予定です」


 疑い。


 その言葉ひとつで、あの場所にある面が全部、裁きの台に乗せられる。


 灰面長屋。


 戦災で家の生面を失った者。

 仮面籍が途切れた者。

 古い役面を直しながら、かろうじて暮らしている者。

 子どものころのイロハと同じように、どの棚にも入れなかった者たち。


 欠け面横丁。


 正規の店に持ち込めない面。

 割れた生面。

 職を失った職面。

 名前はあるのに、役が曖昧になった人たちが隠れるように訪れる路地。


 そこに仮面籍庁が来る。


 白札と黒札を持って。


 イロハの視界が、また白くちらついた。


 月の白ではない。


 役所の白。


 消去するための白。


「イロハ」


 低い声がした。


 振り返ると、面師小路のほうから、小柄な使い走りの少年が駆けてきていた。


 ロウセツの工房でたまに荷を運ぶ子だ。


 少年は息を切らしながら、イロハへ折り畳まれた紙片を差し出した。


「ロウセツ親方から」


 イロハは震える指でそれを受け取った。


 紙には、短い文が書かれていた。


 灰面長屋へ行け。

 役を定められなかった者たちを見てこい。

 お前が何と戦うのか、そこにある。


 師匠の字だった。


 癖の強い、乱暴な字。


 だが、その字を見た瞬間、イロハの胸の奥に小さな火が戻った。


 ロウセツは知っている。


 仮面籍庁が来ることを。


 灰面長屋が、次に札を置かれる場所になることを。


 そして、そこに行かなければ、イロハが本当に戦う相手を見誤ることも。


 イロハは紙片を握りしめた。


「白影宮だけじゃない」


 呟きだった。


 けれど、アヤメには届いた。


「どこへ行くのです」


 イロハは顔を上げた。


 仮面籍庁の門は、まだ背後にある。


 けれど、もうそこだけを見てはいなかった。


「面を持てなかった人たちのところへ」


 アヤメの目が細くなる。


「灰面長屋ですか」


「はい」


「そこは、白影宮の管轄ではありません」


「わかっています」


「仮面籍庁の監視対象になります」


「だから行きます」


 イロハは、道具袋を肩にかけ直した。


 重い。


 だが、さっきまでとは違う重さだった。


 何もできない重さではない。


 持っていくべきものの重さだ。


「サヨ様の面を作るには、まだない役を知らなきゃいけない。なら、見なきゃいけません。役を定められなかった人たちが、どうやって息をしているのか」


 アヤメは少しだけ黙った。


 そして、静かに言った。


「私は白影宮へ戻り、サヨ様へ報告します」


「はい」


「ですが」


 アヤメの声が、わずかに柔らかくなる。


「あなたが灰面長屋へ行くことも、必ず伝えます」


 イロハは頷いた。


「お願いします」


 アヤメは、白影宮の方角へ一礼するように目を伏せ、それからイロハへ向き直った。


「イロハ殿」


「はい」


「今日、あなたは何度も危うい発言をしました」


「……すみません」


「謝ることではありません」


 アヤメは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「ただし、次は追い出されない言い方も覚えてください。サヨ様の面を作るまで、あなたに退席されるわけにはいきません」


 その言葉に、イロハはようやく小さく笑えた。


「努力します」


 セイランが近づいてきた。


 手には仮記録扱いになった報告書がある。


「私も、陰陽寮へ戻ります。ただ、灰面長屋の古い仮面籍記録を調べてみます」


「いいんですか」


「正式記録にはできないかもしれません」


 セイランは少し苦く笑った。


「ですが、仮記録なら残せます」


 ヒヨリが袖から顔を出し、尾で空中に小さく書く。


 残す。


 イロハは頷いた。


「お願いします」


 ハルマサは少し離れた場所に立っていた。


 封役札を添えられた面箱を抱えている。


 彼はイロハへ深く頭を下げた。


「私は、アカツキ家へ戻ります」


「ハルマサさん」


「刀を公的に抜くことはできません。ですが、灰面長屋へ仮面籍庁が向かうなら、東郭の動きは調べます」


「でも、あなたは」


「番衆ではありません」


 ハルマサは、静かに言った。


「今は。ただのハルマサ=アカツキです。けれど、守りたいものは消えていません」


 イロハは、胸が熱くなった。


「ありがとうございます」


 ユラもまた、面箱を抱えたまま近づいてきた。


 彼女は何も言わず、袖の中の鈴をイロハへ見せた。


 鳴らさない。


 ただ、そこにあることを示す。


 私はまだ舞を捨てていない。


 そう言っているようだった。


 イロハは、深く頷いた。


「必ず、また舞えるようにします」


 ユラは小さく首を横に振った。


「いいえ」


 細い声だった。


「わたしも、思い出します。神を迎える沈黙を。あなたに全部預けるのではなく」


 その言葉に、イロハは息を止めた。


 ユラは弱々しく見える。


 けれど、彼女もまた、自分の役を取り戻そうとしている。


 札を置かれても、舞台から遠ざけられても、まだ終わっていない。


 イロハは、もう一度仮面籍庁の門を見た。


 白札と黒札で人を閉じる場所。


 けれど、門の外には、まだ動く人たちがいる。


 封じられても、保留されても、仮に落とされても。


 それぞれの場所で、まだ終わらせない人たちがいる。


 イロハは、灰面長屋の方角へ歩き出した。


 帝都カミザの雅やかな通りから外れ、面師小路のさらに奥へ。


 白木の回廊も、朱塗りの舞台も、黒漆の門も遠ざかっていく。


 代わりに、古い木戸、傾いた軒、修理待ちの面を吊るした細い路地が近づいてくる。


 役を定められなかった者たちの場所。


 かつての自分に近い者たちの場所。


 イロハの足取りは、重かった。


 それでも、止まらなかった。


 そのころ。


 仮面籍庁の奥では、アリノリ=シジョウがひとり、定役面コトサダメを白漆の面箱へ戻していた。


 下役たちはすでに退いている。


 審査所に残るのは、黒漆の棚と、白札の束と、閉じられた面箱だけだった。


 アリノリは《コトサダメ》を両手で持ち、しばらくその裏側を見つめた。


 役名符は、もう震えていない。


 けれど、符の隙間に、ほんの一瞬だけ白い半面が映った。


 鏡ノ客。


 目穴のない面が、彼を見ていた。


 王朝を守る者。

 有る役しか認めぬ者。

 未在を恐れる者。

 定まらぬものを封じる者。


 アリノリは、その白い半面を見ても、眉ひとつ動かさなかった。


「未在は、王朝を乱す」


 静かな声だった。


 言い聞かせるようでも、祈るようでもない。


 ただ、結論を確認する声。


「定まらぬ役は、定める。定められぬなら、封じる」


 彼は《コトサダメ》を面箱の内側へ収めた。


 白い半面は、蓋の影に隠れる。


 かちり。


 面箱が閉じられた。


 その瞬間、白漆の面箱の裏側に、小さな月痕が浮かんだ。


 噛み跡のような、細い白。


 アリノリはそれに気づいていた。


 気づいていて、何も言わなかった。


 ただ、面箱を棚へ戻す。


 黒漆の棚に、白漆の箱が収まる。


 仮面籍庁の奥で、札が静かに眠っている。


 白札も。

 黒札も。

 黒縁の白札も。


 月は空にない。


 それでも、役を喰う白は、もう王朝の棚の内側に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ