終節 ― 白札と黒札
仮面籍庁の門を出た時、帝都カミザの空は、昼だというのにどこか白く曇っていた。
月は出ていない。
けれど、イロハ=ナギの視界の端には、まだ白いちらつきが残っていた。
白札。
黒縁の白札。
灰札。
確認命令。
保留候補。
審査所の中で置かれた札の色が、目を閉じても消えない。
ユラ=シラビョウは、鈴祈舞面を抱えたまま、迎えの者に連れられていった。
もう、奉納舞には立てない。
少なくとも、仮面籍庁が許すまでは。
ハルマサ=アカツキは、暁刃戦面の面箱を両手で持ち、深く一礼して去った。
彼の腰には刀がある。
けれど、その刀は今、公的には抜けない。
セイラン=ナナツジは、仮記録扱いにされた報告書を抱え、陰陽寮へ戻る準備をしていた。
記録は残った。
だが、正式には読まれない。
サヨ=ミカゲは、役名保留候補とされた。
白影宮外の公式儀礼には、出られない。
そしてイロハ自身も、もう白影宮へ自由には入れない。
サヨの面を作るには、サヨがどんな役として立ちたいのかを知らなければならない。
けれど、そのために会いに行く道を、いま閉じられた。
月が喰った傷を、人が札で固定していく。
イロハは、仮面籍庁の門前で立ち尽くした。
黒漆の門は、何事もなかったように閉じている。
門の奥には、棚がある。
札がある。
台帳がある。
定役面がある。
そして、そこに置かれた言葉は、帝都中へ写しとして送られていく。
舞台へ。
武家屋敷へ。
陰陽寮へ。
白影宮へ。
人の痛みより早く、札だけが届く。
「イロハ殿」
アヤメ=シラハが、隣に立った。
彼女もまた、顔色が悪かった。
怒りを抑えているのではない。
もっと深いところで、守るべき相手の足元が紙で削られていくのを見た顔だった。
「白影宮へは、私から戻って報告します」
イロハは答えられなかった。
白影宮へ戻れない。
その事実が、今になって胸に重く落ちてきた。
「サヨ様は」
ようやく声が出る。
「怒っていましたか」
「怒っておられます」
アヤメは即答した。
少しだけ、イロハは驚いた。
アヤメは続ける。
「ただし、声を荒らす方ではありません。静かに怒っておられます。あの方の怒りは、忘れない怒りです」
イロハは、御簾越しに聞いたサヨの声を思い出した。
わたしは、覚えています。
今日、誰が何を封じられたのか。
誰が何を言ったのか。
あなたが、まだ作ると言ったことも。
その言葉だけが、今のイロハの足元をかろうじて支えていた。
「私は」
イロハは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
何ができるのだろう。
白影宮へ入れない。
皇族面へ触れられない。
《ナギノオモテ》は登録確認命令を受けた。
ロウセツの工房には査察が来る。
制度の前で、自分の手はあまりにも小さい。
その時だった。
仮面籍庁の門の脇から、灰白の官衣を着た下役が出てきた。
彼はイロハたちへ軽く礼をし、手にした書付を読み上げる。
「追加通達です。仮面籍庁は、白化面および不安定役面の再検査に伴い、帝都内の仮置き面、未認定面、修復保留面についても順次確認を行います」
イロハの背筋が凍った。
下役は淡々と続ける。
「対象地域には、面師小路裏、灰面長屋、欠け面横丁を含みます」
「待ってください」
イロハの声が、思ったより鋭く出た。
下役が目を上げる。
「灰面長屋も、ですか」
「はい」
「欠け面横丁も」
「はい。仮置き面の不正使用、未認定面の流通、資格外修復の疑いがあるため、後日確認予定です」
疑い。
その言葉ひとつで、あの場所にある面が全部、裁きの台に乗せられる。
灰面長屋。
戦災で家の生面を失った者。
仮面籍が途切れた者。
古い役面を直しながら、かろうじて暮らしている者。
子どものころのイロハと同じように、どの棚にも入れなかった者たち。
欠け面横丁。
正規の店に持ち込めない面。
割れた生面。
職を失った職面。
名前はあるのに、役が曖昧になった人たちが隠れるように訪れる路地。
そこに仮面籍庁が来る。
白札と黒札を持って。
イロハの視界が、また白くちらついた。
月の白ではない。
役所の白。
消去するための白。
「イロハ」
低い声がした。
振り返ると、面師小路のほうから、小柄な使い走りの少年が駆けてきていた。
ロウセツの工房でたまに荷を運ぶ子だ。
少年は息を切らしながら、イロハへ折り畳まれた紙片を差し出した。
「ロウセツ親方から」
イロハは震える指でそれを受け取った。
紙には、短い文が書かれていた。
灰面長屋へ行け。
役を定められなかった者たちを見てこい。
お前が何と戦うのか、そこにある。
師匠の字だった。
癖の強い、乱暴な字。
だが、その字を見た瞬間、イロハの胸の奥に小さな火が戻った。
ロウセツは知っている。
仮面籍庁が来ることを。
灰面長屋が、次に札を置かれる場所になることを。
そして、そこに行かなければ、イロハが本当に戦う相手を見誤ることも。
イロハは紙片を握りしめた。
「白影宮だけじゃない」
呟きだった。
けれど、アヤメには届いた。
「どこへ行くのです」
イロハは顔を上げた。
仮面籍庁の門は、まだ背後にある。
けれど、もうそこだけを見てはいなかった。
「面を持てなかった人たちのところへ」
アヤメの目が細くなる。
「灰面長屋ですか」
「はい」
「そこは、白影宮の管轄ではありません」
「わかっています」
「仮面籍庁の監視対象になります」
「だから行きます」
イロハは、道具袋を肩にかけ直した。
重い。
だが、さっきまでとは違う重さだった。
何もできない重さではない。
持っていくべきものの重さだ。
「サヨ様の面を作るには、まだない役を知らなきゃいけない。なら、見なきゃいけません。役を定められなかった人たちが、どうやって息をしているのか」
アヤメは少しだけ黙った。
そして、静かに言った。
「私は白影宮へ戻り、サヨ様へ報告します」
「はい」
「ですが」
アヤメの声が、わずかに柔らかくなる。
「あなたが灰面長屋へ行くことも、必ず伝えます」
イロハは頷いた。
「お願いします」
アヤメは、白影宮の方角へ一礼するように目を伏せ、それからイロハへ向き直った。
「イロハ殿」
「はい」
「今日、あなたは何度も危うい発言をしました」
「……すみません」
「謝ることではありません」
アヤメは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ただし、次は追い出されない言い方も覚えてください。サヨ様の面を作るまで、あなたに退席されるわけにはいきません」
その言葉に、イロハはようやく小さく笑えた。
「努力します」
セイランが近づいてきた。
手には仮記録扱いになった報告書がある。
「私も、陰陽寮へ戻ります。ただ、灰面長屋の古い仮面籍記録を調べてみます」
「いいんですか」
「正式記録にはできないかもしれません」
セイランは少し苦く笑った。
「ですが、仮記録なら残せます」
ヒヨリが袖から顔を出し、尾で空中に小さく書く。
残す。
イロハは頷いた。
「お願いします」
ハルマサは少し離れた場所に立っていた。
封役札を添えられた面箱を抱えている。
彼はイロハへ深く頭を下げた。
「私は、アカツキ家へ戻ります」
「ハルマサさん」
「刀を公的に抜くことはできません。ですが、灰面長屋へ仮面籍庁が向かうなら、東郭の動きは調べます」
「でも、あなたは」
「番衆ではありません」
ハルマサは、静かに言った。
「今は。ただのハルマサ=アカツキです。けれど、守りたいものは消えていません」
イロハは、胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
ユラもまた、面箱を抱えたまま近づいてきた。
彼女は何も言わず、袖の中の鈴をイロハへ見せた。
鳴らさない。
ただ、そこにあることを示す。
私はまだ舞を捨てていない。
そう言っているようだった。
イロハは、深く頷いた。
「必ず、また舞えるようにします」
ユラは小さく首を横に振った。
「いいえ」
細い声だった。
「わたしも、思い出します。神を迎える沈黙を。あなたに全部預けるのではなく」
その言葉に、イロハは息を止めた。
ユラは弱々しく見える。
けれど、彼女もまた、自分の役を取り戻そうとしている。
札を置かれても、舞台から遠ざけられても、まだ終わっていない。
イロハは、もう一度仮面籍庁の門を見た。
白札と黒札で人を閉じる場所。
けれど、門の外には、まだ動く人たちがいる。
封じられても、保留されても、仮に落とされても。
それぞれの場所で、まだ終わらせない人たちがいる。
イロハは、灰面長屋の方角へ歩き出した。
帝都カミザの雅やかな通りから外れ、面師小路のさらに奥へ。
白木の回廊も、朱塗りの舞台も、黒漆の門も遠ざかっていく。
代わりに、古い木戸、傾いた軒、修理待ちの面を吊るした細い路地が近づいてくる。
役を定められなかった者たちの場所。
かつての自分に近い者たちの場所。
イロハの足取りは、重かった。
それでも、止まらなかった。
そのころ。
仮面籍庁の奥では、アリノリ=シジョウがひとり、定役面を白漆の面箱へ戻していた。
下役たちはすでに退いている。
審査所に残るのは、黒漆の棚と、白札の束と、閉じられた面箱だけだった。
アリノリは《コトサダメ》を両手で持ち、しばらくその裏側を見つめた。
役名符は、もう震えていない。
けれど、符の隙間に、ほんの一瞬だけ白い半面が映った。
鏡ノ客。
目穴のない面が、彼を見ていた。
王朝を守る者。
有る役しか認めぬ者。
未在を恐れる者。
定まらぬものを封じる者。
アリノリは、その白い半面を見ても、眉ひとつ動かさなかった。
「未在は、王朝を乱す」
静かな声だった。
言い聞かせるようでも、祈るようでもない。
ただ、結論を確認する声。
「定まらぬ役は、定める。定められぬなら、封じる」
彼は《コトサダメ》を面箱の内側へ収めた。
白い半面は、蓋の影に隠れる。
かちり。
面箱が閉じられた。
その瞬間、白漆の面箱の裏側に、小さな月痕が浮かんだ。
噛み跡のような、細い白。
アリノリはそれに気づいていた。
気づいていて、何も言わなかった。
ただ、面箱を棚へ戻す。
黒漆の棚に、白漆の箱が収まる。
仮面籍庁の奥で、札が静かに眠っている。
白札も。
黒札も。
黒縁の白札も。
月は空にない。
それでも、役を喰う白は、もう王朝の棚の内側に残っていた。




