第十節 ― 正しさで封じる者
アリノリ=シジョウは、定役面をつけたまま、審査所の中央を見渡した。
白漆の半面は、もう揺れていない。
裏に映った白い半面も、見えない。
だが、イロハにはわかっていた。
消えたのではない。
蓋をされたのだ。
面箱の蓋を閉じるように。
台帳の頁を閉じるように。
読めないものを、読めないまま灰白の札の下へ押し込むように。
アリノリは、下役へ小さく頷いた。
下役が、審査結果の書面を読み上げる。
「鈴祈舞面。白化月痕および神楽一節欠落のため、使用停止。奉納舞および祭礼参加、当面保留」
ユラ=シラビョウは、声を出さなかった。
ただ、袖の中の鈴を握りしめている。
ちり、とも鳴らない。
鳴らせないのではない。
今、この場で鳴らせば、審査所の誰かがそれを「未許可の祭礼動作」と記録するかもしれない。
そう思わせる場所だった。
「暁刃戦面。抜刀役不安定のため、封役。東暁番衆正式任官、停止。再審は月痕安定後、上位武面師立ち会いのもと行うものとする」
ハルマサ=アカツキは、静かに頭を下げた。
その腰に刀はある。
けれど、今その刀は公的には抜けない。
番衆としても、武士としても、彼の刃は札で縛られた。
それでも彼は、顔を上げた。
目は死んでいない。
イロハは、そのことだけを胸に留めた。
「星読式面。式面使用は継続可。ただし、月齢読解および白化面関連方位判定については、補助観測者を付すこと。陰陽寮報告書のうち、反転文字、鏡水反応、白面状観測異常については仮記録扱い。上位確認待ち」
セイラン=ナナツジの表情は硬かった。
正式には届かない。
だが、消されもしなかった。
彼は、悔しさを飲み込むように筆を持ち直す。
ヒヨリが袖の中で、小さく尾を動かした。
残す。
その一語を、何度も繰り返すように。
「面師イロハ=ナギ。中級面師資格は有効。ただし、白影宮への単独出入りを制限。皇族面および未成皇族面への直接作業を禁止。《ナギノオモテ》の登録確認命令を発する。ロウセツ=カガミ工房については、後日査察を行う」
イロハの胸に、冷たいものが落ちた。
自分の名が、札に縛られていく。
白影宮への道。
サヨと話す時間。
空の面箱を診る手。
師匠の工房。
《ナギノオモテ》。
そのすべてに、仮面籍庁の紐がかかる。
呼吸が浅くなる。
それでも、まだ終わりではなかった。
「サヨ=ミカゲ様。皇族血統は確認。ただし、儀礼上役名は未確認。役名保留候補として扱う。白影宮外の公式儀礼参加は、当面停止」
御簾の向こうは、静かだった。
香の煙だけが、細く立ち上っている。
サヨの声はない。
怒りも、嘆きも、抗議もない。
だが、その沈黙は、消えた沈黙ではなかった。
白影宮の夜に似ていた。
月を映してしまう水面のような、深い沈黙。
イロハは、もう黙っていられなかった。
「みんな、喰われたんです」
声が震えた。
それでも、止めなかった。
「ユラさんは舞を捨てたんじゃない。ハルマサさんは逃げたんじゃない。セイランさんの記録は嘘じゃない。サヨ様は存在しないんじゃない」
審査所の全員が、イロハを見る。
アヤメは止めなかった。
セイランも筆を止めなかった。
ハルマサが、わずかに顔を上げる。
ユラの袖の中で、鈴が小さく震えた。
「みんな、壊れたんじゃありません。嘘をついたんじゃありません。逃げたんじゃありません。月に、役の入口を喰われたんです」
イロハは、アリノリを見た。
「なのに、どうしてその傷を札で閉じるんですか」
アリノリは、静かに答えた。
「だからこそ、保留するのです」
その声は、少しも荒くない。
柔らかく、低く、正しい。
正しすぎて、刃よりも深く刺さる。
「だからこそ?」
「はい」
アリノリは、《コトサダメ》の白漆の面越しに言った。
「喰われた役が不安定であるなら、今すぐ公的な場へ戻すことはできません。本人を責めるためではない。乱れを広げぬためです」
「救うためじゃない」
イロハの声は低かった。
自分でも驚くほど、怒りが静かだった。
アリノリは頷く。
「乱れを広げぬためです」
「それは、救うことじゃありません」
「王朝を守ることです」
その一言で、イロハははっきりと理解した。
この人とは、同じものを見ていない。
ユラの舞も。
ハルマサの刀も。
セイランの記録も。
サヨの空白も。
自分の面も。
イロハには、人が見えている。
傷ついた人。
立てなくなった人。
それでももう一度、役へ戻ろうとしている人。
アリノリには、王朝が見えている。
役の乱れ。
台帳の不一致。
祭礼の危険。
未在が生む反射異常。
定まらぬものが広がることへの恐れ。
どちらかだけが嘘なのではない。
だからこそ、折れない。
アリノリは悪意で動いていない。
彼は本当に、王朝を守ろうとしている。
ユラを止めるのも。
ハルマサを退けるのも。
セイランの記録を仮に落とすのも。
イロハを制限するのも。
サヨを保留するのも。
すべて、王朝を守るため。
だからこそ、イロハは彼を敵だと思った。
初めて、はっきりと。
月のような怪異ではない。
白い半面のような謎でもない。
正しさで人を封じる者。
その顔が、目の前にあった。
「王朝を守るためなら」
イロハは言った。
「王朝の中で息ができない人は、どうなってもいいんですか」
アリノリは、少しだけ沈黙した。
ほんのわずかに。
その沈黙に、人間の迷いがあったのかもしれない。
けれど、次の言葉は典役卿のものだった。
「王朝が乱れれば、より多くの者が息を失います」
「だから、少ない人を閉じるんですか」
「閉じるのではありません。定まるまで保留します」
「その保留の間に、人は壊れます」
イロハの声が震えた。
「ユラさんは舞台から遠ざけられる。ハルマサさんは刀を抜けないまま自分を責める。セイランさんの記録は正式に読まれない。サヨ様は、何者として息をするのかも決められない」
イロハは、自分の胸に手を当てた。
「私も、白影宮へ行けない。サヨ様の面を作るために必要なことを聞けない。師匠の工房まで査察される。そこには、ほかの場所に行けない面があるんです」
ロウセツの工房。
木粉の匂い。
漆の乾く匂い。
欠けた面。
古い面。
誰の台帳にも載らない面。
灰面長屋から持ち込まれる、傷だらけの顔。
仮面籍庁がそこへ来れば、きっと札を置く。
保留。
停止。
封役。
未認定。
その札の下で、どれだけの人がまた顔を失うのか。
「それでも、王朝を守ることになるんですか」
アリノリは、静かに答えた。
「王朝がなければ、役は立つ場所を失います」
「役があっても、人が立てなければ意味がありません」
「人が立つために、役が必要です」
「役がない人にも、立つ場所は必要です」
その言葉に、審査所の空気が深く沈んだ。
役がない人。
この国で、それは危険な言葉だった。
面がない者。
仮面籍に載らない者。
役名を持たない者。
まだない役を抱えた者。
イロハ自身のことでもある。
サヨのことでもある。
そして、灰面長屋にいる誰かのことでもある。
アリノリは、イロハを見た。
「あなたは、役なき者へも面を与えたい」
「はい」
イロハは、今度は迷わなかった。
「必要なら」
「それは、王朝の根を揺るがします」
「揺れない王朝なら、面のない皇女なんて生まれなかったはずです」
アヤメが息を呑んだ。
セイランの筆が止まる。
下役たちが一斉に目を伏せた。
言い過ぎたかもしれない。
けれど、イロハは言葉を戻さなかった。
御簾の向こうで、香の煙が揺れた。
サヨが聞いている。
その気配だけで、イロハは立っていられた。
アリノリは、怒らなかった。
ただ、静かに言った。
「面師イロハ。あなたの考えは危うい」
「わかっています」
「危ういと知ってなお、進むのですか」
「進まなければ、サヨ様の面は作れません」
「作られぬほうが、王朝にとって安全かもしれない」
その瞬間、イロハの中で何かが切れた。
怒りではない。
恐れでもない。
もっと静かな決意だった。
「それでも、作ります」
イロハは言った。
審査所の白い空気を、まっすぐ切るように。
「サヨ様が、自分で何者として立つのかを選ぶなら。そのために面が必要なら。私は作ります」
アリノリは、しばらく黙っていた。
定役面の裏で、役名符がかすかに震える。
白い半面は見えない。
だが、きっとまだどこかで映している。
アリノリの役を。
イロハの役を。
この場にいる者たちの、選ぼうとしている道を。
「その発言も、記録します」
アリノリは言った。
イロハは、小さく笑いそうになった。
こんな時なのに。
この人は、やはり記録するのだ。
封じるために。
保留するために。
後で裁くために。
でも、記録されるなら、それでもいいと思った。
消されるよりはいい。
残れば、いつか誰かが読む。
セイランが記録する。
ヒヨリが覚えている。
アヤメが証言する。
サヨが忘れない。
なら、イロハの言葉は完全には消えない。
アリノリは、下役へ最終書面を渡した。
「本審査の結果を、仮面籍庁名義で通達します。異議申立は所定の手続きに従うこと。白影宮、陰陽寮、アカツキ家、シラビョウ家へ写しを送付」
「承りました」
下役が頭を下げる。
白札。
黒縁の白札。
灰札。
確認命令。
保留候補。
それらが、それぞれの箱に添えられていく。
音は静かだった。
紙と木と紐の音だけ。
けれどイロハには、それがひとつひとつ、人の足元を閉じていく音に聞こえた。
審査終了の合図が出される。
アリノリは《コトサダメ》を外した。
白漆の半面は、再び面箱へ戻される。
その瞬間、イロハは見た。
面の裏側。
役名符の隙間に、まだほんの小さく白い半面の影が残っている。
それは、言葉を発しない。
ただ、こちらを見ていた。
まるで、問いかけるように。
おまえは何を作るのか。
定められた役か。
まだない役か。
それとも、定めることも封じることもできない顔か。
イロハは、その影を睨み返した。
答えはまだない。
けれど、逃げない。
今はそれだけを決めた。
アリノリは面箱の蓋を閉じた。
かちり。
乾いた音がした。
審査所の空気が、ようやく少しだけ緩む。
だが、それは解放ではなかった。
裁きが終わっただけ。
札は残っている。
ユラは舞台に立てない。
ハルマサは番衆になれない。
セイランの記録は仮のまま。
イロハは白影宮へ自由に行けない。
サヨは役名を保留された。
月が喰った傷を、制度が整った形で封じた。
イロハは、灰白の札を見つめた。
この正しさを破るには、怒るだけでは足りない。
泣くだけでも足りない。
面を直すだけでも、もう足りない。
役を決める制度そのものと、向き合わなければならない。
それを思った瞬間、胸の奥で何かが重く鳴った。
怖い。
けれど、もう見てしまった。
だから、戻れない。
御簾の向こうから、最後にサヨの声が届いた。
「イロハ」
名を呼ばれた。
それだけで、イロハの足元が少し戻る。
「はい」
「わたしは、覚えています」
サヨの声は静かだった。
「今日、誰が何を封じられたのか。誰が何を言ったのか。あなたが、まだ作ると言ったことも」
イロハは、喉の奥が熱くなった。
「はい」
「だから、忘れないでください」
御簾の向こうで、香が細く揺れる。
「わたしたちは、まだ終わっていません」
イロハは深く頷いた。
「終わらせません」
その言葉は、小さかった。
けれど、審査所の静けさの中では、はっきりと響いた。
アリノリは何も言わなかった。
ただ、閉じた面箱へ手を置いている。
王朝を守る者。
有る役しか認めぬ者。
未在を恐れる者。
定まらぬものを封じる者。
イロハは、その姿を胸に刻んだ。
この人は敵だ。
けれど、倒せば終わる敵ではない。
制度そのものの顔をした敵。
ならば、自分が作るべき面も、ただの皇女面では足りない。
まだこの国にない役を、この国の中に立たせる面。
その輪郭が、ほんの少しだけ、胸の奥で熱を持った。




