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第九節 ― 定役面の裏に映る白い半面

 白札が、白絹の前に置かれたあとも、審査所の空気は戻らなかった。


 終わったはずだった。


 少なくとも、手続き上はそう見えた。


 ユラ=シラビョウの鈴祈舞面ユラノスズは使用停止。

 ハルマサ=アカツキの暁刃戦面アカツキノハは封役。

 セイラン=ナナツジの報告書は仮記録扱い。

 イロハ=ナギは白影宮への単独出入りを制限され、《ナギノオモテ》の登録確認命令を受けた。

 サヨ=ミカゲは、役名保留候補。


 札は置かれた。


 記録もされた。


 仮面籍庁としては、これで形が整ったはずだった。


 けれど、定役面コトサダメの裏側で、何かがまだ震えていた。


 最初に気づいたのは、イロハだった。


 かさり。


 紙が擦れるような音。


 それは、風の音ではなかった。

 衣擦れでもない。

 下役が台帳をめくる音でもない。


 面の裏から聞こえている。


 アリノリ=シジョウの顔に当てられた白漆の半面。

 その裏側に貼られた、無数の役名符。


 既存の役を照合し、王朝の台帳に結び、許可された役と許されぬ役を分けるための符。


 それらが、一斉に震えていた。


 かさり。


 かさり、かさり。


 次第に音が大きくなる。


 アヤメ=シラハが刀へ手を近づけた。


 セイランは筆を止め、顔を上げる。


 ヒヨリが袖の中から飛び出し、セイランの膝の上で身を低くした。


 アリノリ自身も、その異変に気づいたらしい。


 彼は、わずかに眉を動かした。


 これまでどれほどの異議を受けても、どれほどの怒りを向けられても、揺らがなかった典役卿が、初めて自分の面へ意識を向けた。


「……定役符が」


 低い声だった。


 独り言に近い。


 イロハは、息を止めた。


 定役面コトサダメの白漆が、内側から薄く光っている。


 月の白ではない。


 もっと乾いた白。


 紙の裏を透かした時に見える、墨の向こう側の白。


 アリノリは、ゆっくりと《コトサダメ》を顔から外した。


 審査所の者たちが息を呑む。


 定役面は、審査中に外されるものではないのだろう。


 だが、アリノリは外さざるを得なかった。


 面の裏側に貼られた役名符が、すでにただの紙ではなくなっていた。


 細い符が、白い鱗のように逆立っている。


 王朝の役名。

 官名。

 祭礼名。

 武面資格。

 祈面資格。

 宮中序列。

 白影宮方位。

 天帝宮方位。


 無数の符が震えながら、ひとつの形を避けるように揺れていた。


 その中心。


 役名符の隙間に、白いものが映った。


 半面だった。


 水ではない。


 鏡でもない。


 それなのに、そこには確かに映っていた。


 第4話の鏡水に現れた、あの白い半面。


 目穴はない。


 けれど、見ている。


 口はない。


 けれど、言葉よりも深く何かを告げている。


 面のようで、顔のようで、獣のようでもある。


 白漆の奥に、さらに白い半面が重なる。


 定役面コトサダメの裏に、鏡ノ客がいた。


 イロハは、身体が動かなくなった。


 あれだ。


 鏡水の庭で見たもの。


 月が喰っているのではありません。

 あなたがたが、喰われた役を月に映しているのです。


 映るものは、喰われたものとは限りません。

 隠されたものも、月は映します。


 あの声が、耳の奥で蘇る。


 けれど今回は、白い半面は何も言わなかった。


 ただ、映している。


 《コトサダメ》の裏に。

 役名符の震えの奥に。

 アリノリ=シジョウ自身を。


 白い半面の表に、アリノリの顔が映った。


 整った髪。

 白金と墨黒の装束。

 閉じた黒檀の扇。

 穏やかな目。

 そして、その目の奥にある役。


 王朝を守る者。


 有る役しか認めぬ者。


 未在を恐れる者。


 定まらぬものを封じる者。


 それは、罵倒ではなかった。


 裁きでもない。


 ただ、映っている。


 鏡が、そこに立つ者の姿を返すように。


 エル=ネフリドは、アリノリを操ってはいなかった。


 命じてもいない。

 唆してもいない。

 定役面を乗っ取ってもいない。


 ただ、彼の役を映している。


 その人が、自分で選び、自分で守り、自分で正しいと信じている役を、白く返しているだけだった。


 だからこそ、イロハは怖くなった。


 もしこれが命令なら、拒める。


 もし呪いなら、解けるかもしれない。


 けれど、映されているのが本人の思想なら。


 本人がそれを正しさとして受け取ってしまったら。


 どうやって止めればいいのだろう。


 アヤメが低く言った。


「典役卿。その面を離してください」


 アリノリは答えない。


 彼は、《コトサダメ》の裏を見つめていた。


 白い半面に映る、自分自身の姿を。


 セイランが立ち上がりかける。


「これは、第4話……陰陽寮の鏡水に現れた白面と同種の観測異常です。記録を――」


「待ちなさい」


 アリノリの声が、静かに落ちた。


 その声は、先ほどまでと違っていた。


 驚きはある。


 だが、恐怖ではない。


 彼は白い半面を見て、怯えていなかった。


 むしろ、何かを理解したような顔をしている。


 イロハの背筋が冷えた。


 違う。


 それは警告だ。


 見せられているのは、危うさだ。


 未在を恐れすぎるあまり、定まらぬものを封じる者になっていると、突きつけられている。


 イロハには、そう見えた。


 だが、アリノリは違った。


 彼は、ゆっくりと言った。


「なるほど」


 静かな声だった。


 審査所の者たちが、誰も動けない。


 アリノリは、白い半面に映る自分を見つめたまま続けた。


「未在は、やはり反射異常を呼ぶ」


 イロハは、息を呑んだ。


「違います」


 声が出ていた。


「違います、アリノリ様。それは――」


「何が違うのです」


 アリノリは、こちらを見た。


 定役面を外しているのに、その目にはまだ《コトサダメ》の重みがあった。


「今、我々は確かに見ました。皇女の白絹を判定不能とした直後、定役面の裏に白面状の異常が現れた。第4話においても、白影宮の白絹と式面を鏡水へ置いた際、同様の反射異常が生じた」


 セイランが顔を強張らせる。


 彼の報告が、別の意味に使われようとしている。


「これは、未在の役が周囲の面、記録、儀礼具へ干渉する証です」


「違います」


 イロハはもう一度言った。


「これは、あなたを映しているんです」


 室内が静まった。


 アリノリの視線が、細くなる。


「私を」


「はい」


 イロハは、自分の声が震えるのを感じた。


 けれど、止めなかった。


「その白い半面は、誰かを操っているんじゃありません。あなたが今、何をしようとしているかを映しているんです。定まらないものを全部封じようとしているあなたを」


 下役たちが息を呑む。


 アヤメは、動かずイロハの前に立つ準備をしていた。


 セイランの筆は止まったままだ。


 アリノリは、しばらく黙った。


 怒鳴らない。


 顔色も変えない。


 ただ、白い半面とイロハを見比べる。


「面師イロハ」


 やがて、彼は静かに言った。


「あなたは、現象を自分の願望に沿って解釈している」


 イロハの胸が痛む。


「願望じゃありません」


「あなたは、未在を認めたい。定まらぬ役に面を与えたい。役名のない者を、そのまま王朝の中に立たせたい。だから、この異常を警告として見ている」


 言葉は冷静だった。


 冷静すぎた。


「ですが、私は典役卿です。王朝の秩序を守る役を持つ者です。私が見るべきは、感情ではなく、制度に及ぼす影響です」


 アリノリは、もう一度コトサダメの裏を見た。


 白い半面は、まだそこにいた。


 何も言わない。


 ただ映している。


 アリノリが何を選ぶのかを、見ている。


「未在が周囲の面へ反射異常を起こす」


 彼は言った。


「ならば、未在は管理されねばならない」


 イロハは言葉を失った。


 届かない。


 白い半面を見ても、届かない。


 警告を、自分の正しさの証に変えてしまう。


 それが、アリノリ=シジョウの恐ろしさだった。


 彼は異常を無視していない。


 見えていないわけでもない。


 見たうえで、自分の思想へ組み込む。


 イロハにとっての警告は、彼にとっての根拠になる。


 アヤメが低く言う。


「典役卿。その解釈は危険です」


「危険を避けるための解釈です」


「サヨ様を封じる理由に使うつもりですか」


「サヨ=ミカゲ様を封じるのではありません」


 アリノリは、静かに《コトサダメ》を顔へ戻した。


 白い半面は、その裏に隠れた。


 だが、消えたわけではない。


 役名符の震えはまだ残っている。


「未定義の役名を、王朝全体へ不用意に広げぬための措置を取るのです」


 イロハの手が、ぎゅっと握られる。


「それを、封じるっていうんです」


 アリノリは、白漆の半面越しに答えた。


「定まらぬ役は、封じるべきです」


 その言葉が、審査所に落ちた。


 重く。


 冷たく。


 逃げ場のない形で。


 定まらぬ役は、封じるべき。


 それは、反転した報告書の文字と同じだった。


 未在を定めよ。

 定まらぬ役は、封じよ。


 月が書いたのか。

 鏡ノ客が映したのか。

 それとも、人の制度が最初からそう言っていたのか。


 もう、わからない。


 だが、確かなことがひとつだけあった。


 アリノリは、その言葉を自分の意思で選んだ。


 操られてはいない。


 喰われてもいない。


 彼は、王朝を守るために、自分でそう言った。


 それが何より怖かった。


 白い半面は、《コトサダメ》の裏で、かすかに揺れた。


 笑ったようにも見えた。


 悲しんだようにも見えた。


 あるいは、ただ映しただけだったのかもしれない。


 イロハは、白絹の前に置かれた白札を見た。


 ユラの面箱。

 ハルマサの封役札。

 セイランの仮記録。

 自分の出入り制限。

 サヨの役名保留候補。


 すべてが、同じ線でつながっていく。


 月が喰った役を、人が札で閉じる。


 そしてその正しさを、定役面が保証する。


 イロハは、ようやく本当の敵を見た気がした。


 月だけではない。


 白い半面でもない。


 人が、人を守るためだと言いながら、まだない役を封じてしまうこと。


 その怖さが、目の前に座っていた。


 アリノリは、下役へ告げる。


「本件の結論をまとめます」


 その声には、先ほどよりも強い確信があった。


「白化面および不安定役面への措置を、正式に通達します」


 イロハは、息を吸った。


 次に下される言葉が、どれほど重いものになるかを知りながら。


 それでも、聞かなければならなかった。


 ここから先へ、制度がどのように人を封じるのか。


 それを見届けなければ、戦い方さえわからない。

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