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第八節 ― 皇女サヨ、役名保留候補

 サヨ=ミカゲ。


 その名が告げられた瞬間、審査所の空気が変わった。


 それまで台の上に置かれてきたのは、面だった。


 鈴祈舞面ユラノスズ

 暁刃戦面アカツキノハ

 星読式面ナナツジノホシ

 そして、イロハ=ナギの資格と所持面。


 だが、今から問われるのは、面を持たない皇女だった。


 いや。


 仮面籍庁の言葉で言えば、面ではなく、役名。


 その違いが、イロハにはもう怖かった。


 サヨ本人は、この審査所にはいない。


 皇女を仮面籍庁の審査台に座らせることは、形式上できないのだろう。

 けれど、審査から外されるわけでもない。


 部屋の左奥に、白い御簾が下ろされていた。


 それは、白影宮から持ち込まれたものだと聞いていた。細い銀糸で月のない雲文様が織られ、御簾の前には小さな香炉が置かれている。


 その香は、カンナ=ツキシロが焚いたものではない。


 だが、白影宮の夜を思わせる静かな匂いがした。


 御簾の向こうには、サヨ本人がいるわけではない。


 白影宮の控え所とこの審査所をつなぐ、古い宮中作法なのだとアヤメは言った。皇族が直接席に降りず、御簾越しに言葉だけを届けるためのもの。


 姿はない。

 面もない。

 けれど、声だけがそこに来る。


 それは、いかにもサヨらしい参加の仕方に思えた。


 存在しているのに、場に立てない。


 声は届くのに、顔がない。


 アヤメ=シラハは、その御簾の前に立った。


 彼女の背筋は、先ほどまでよりもさらに硬い。


 サヨに関わることになった瞬間、アヤメの役が変わる。


 白影宮近習ではなく、皇女の前に立つ盾になる。


 アリノリ=シジョウは、定役面コトサダメをつけたまま書面を取った。


 白漆の半面が、わずかに御簾のほうへ向く。


「サヨ=ミカゲ様の役名は、現時点で皇族面台帳に確認できません」


 その言葉が落ちた瞬間、アヤメの気皇族面台帳に確認できません」


 その言葉が落ちた瞬間、アヤメの気配が鋭くなった。


「皇女様です」


 低い声だった。


 刃を抜いていないのに、鞘鳴りが聞こえた気がした。


 アリノリは静かに答える。


「血統上は」


「何を」


 アヤメの声が、一段低くなる。


 下役たちが目を伏せた。


 イロハの胸も冷たくなる。


 血統上は。


 それは、皇女であることを否定していない言葉だった。


 だが、同時に、別の何かを否定している。


 アリノリは続けた。


「儀礼上の役名がありません」


 審査所が沈黙した。


 血筋としては皇女。


 けれど、王朝儀礼上の皇女として立つための役名がない。


 その区別を、仮面籍庁は当然のものとして扱っている。


 イロハは、白影宮の面棚を思い出した。


 女房の面。

 庭番の面。

 香役の面。

 御簾守の面。

 夜警の面。


 すべて揃っていた。


 ただ、皇女の面だけがなかった。


 面紐もある。

 面箱もある。

 香も焚かれている。

 棚も空けられている。


 失われた棚ではない。


 面を待っている棚。


 そう見た時、アヤメは初めてイロハを見る目を変えた。


 だが、仮面籍庁は違う。


 待っているとは見ない。


 登録されていないと見る。


 存在しないのではない。

 割り当てられていない。


 セイランが第4話でそう言った。


 けれど、制度の前では、その違いさえ危うい。


 割り当てられていないものは、扱えない。


 扱えないものは、保留される。


 保留されたものは、立てない。


 アリノリが下役へ合図した。


 アヤメは白絹の包みを開いた。


 白影宮の空の面箱に敷かれていた布。


 そこには今、月は浮かんでいない。


 ただの白い絹に見える。


 けれど、イロハにはその奥に、箱の中の満月を見た夜の気配が残っているように感じられた。


 サヨの寝所の奥。

 黒漆の空の面箱。

 暦では欠けているはずなのに、箱の中だけに浮かぶ満月。


 その満月は、喰う月だったのか。

 それとも、まだない役を映していたのか。


 イロハには、まだわからない。


 だが、ひとつだけわかる。


 この白絹は、空白ではない。


 まだ何かを待っている。


 アリノリは、《コトサダメ》を白絹へ向けた。


 部屋の空気が、ぴんと張る。


 定役面の裏側に貼られている無数の役名符が、かさり、と音を立てた。


 かさり。


 かさり。


 紙の虫がいっせいに起きたような音だった。


 白漆の半面の額にある朱印が、薄く光る。


 右頬の金の矩形線が、白絹を測るように細く輝いた。


 役名符が震える。


 皇族面台帳。

 宮中儀礼。

 祭礼序列。

 天帝宮方位。

 白影宮方位。

 皇女役名。


 見えない無数の線が、白絹へ伸びていく。


 イロハは息を止めた。


 何かが読まれる。


 そう思った。


 だが。


 何も起きなかった。


 白絹は、白いままだった。


 役名符は震えている。


 だが、どの符も白絹に触れられない。


 方位盤の星粒が円を描き続けた時と同じだった。


 属する場所がないのではない。


 既存のどの場所にも落ちない。


 《コトサダメ》は、沈黙した。


 その沈黙を聞いた瞬間、イロハは悟った。


 これは異常ではない。


 少なくとも、サヨが異常なのではない。


 《コトサダメ》が読めないのだ。


 まだ存在しない役を。


 王朝の台帳にない役を。

 祭礼の順番に置かれていない役を。

 天帝宮にも白影宮にも、まだ正しく割り当てられていない役を。


 この面は、既にある役を定める面だ。


 ならば、まだない役は読めない。


 それだけのことなのだ。


 だが、アリノリは違う顔をした。


 白漆の半面の奥で、彼は静かに結論へ向かっていた。


「判定不能」


 その声が、審査所に落ちる。


「ゆえに、保留が妥当です」


 アヤメが一歩前へ出た。


「判定不能なら、なぜ保留なのです」


「判定できない役名を、公的に認めることはできません」


「読めないだけでしょう」


 アヤメの声に、怒りが混じる。


「《コトサダメ》が読めないだけです」


 イロハは息を呑んだ。


 アヤメが、それを言った。


 制度の面が読めないことを、はっきり指摘した。


 アリノリは、微動だにしない。


「読めないものを、読めるものとして扱うことはできません」


「では、読めるまで待つのですか」


「はい」


「その間、皇女様は」


 アヤメの声が少し震えた。


「その間、サヨ様は何者として扱われるのですか」


 その時、白い御簾の向こうで、香が揺れた。


 誰も触れていない。


 だが、細い煙が、一度だけ月のない輪を描いた。


 そして、静かな声が届いた。


「保留されるのは、わたしですか」


 サヨ=ミカゲの声だった。


 姿は見えない。


 面もない。


 けれど、その声だけで、審査所の空気が変わった。


 イロハは胸を押さえた。


 白影宮の月見池のそばで聞いた声と同じだ。


 やわらかく、静かで、けれど人の欠落に触れる時だけ、強い痛みを帯びる声。


 アリノリは、御簾へ向き直った。


「いいえ。保留されるのは、役名です」


 サヨは少し黙った。


 その沈黙は、ユラの沈黙とも、ハルマサの沈黙とも違った。


 誰かに喰われた沈黙ではない。


 自分の言葉を選ぶための沈黙だった。


「では」


 御簾の向こうから、また声が届く。


「わたしは役名が定まるまで、何者として息をすればよいのでしょう」


 審査所の時間が止まった。


 イロハは、膝の上の手を握りしめた。


 その問いは、あまりにも静かだった。


 叫びではない。

 抗議でもない。

 涙でもない。


 ただ、まっすぐな問い。


 役名だけを保留するのだと、アリノリは言った。


 だが、サヨにとって役名は紙の上の項目ではない。


 この国で、どこに立てるか。

 誰の前に出られるか。

 どの儀礼に呼ばれるか。

 どの面棚に面箱を置けるか。

 どう呼ばれ、どう記憶されるか。


 それらすべてに関わるものだ。


 役名を保留することは、サヨの息を保留することに近い。


 アリノリは、すぐには答えなかった。


 定役面コトサダメの役名符が、かさりとまた震える。


 だが、やはり白絹からは何も読めない。


 アリノリは、静かに言った。


「サヨ=ミカゲ様は、血統上、皇女であられます。その尊位を否定するものではありません」


「尊位があれば、役はなくてもよいのですか」


 サヨの声は穏やかだった。


 けれど、その穏やかさが胸を刺す。


「わたしは、祭礼に呼ばれません。皇女の面棚には、面がありません。女房たちはわたしを皇女と呼びますが、儀礼の時、わたしの席だけがいつも少し曖昧です」


 アヤメが目を伏せる。


 その曖昧さを、彼女はずっとそばで見てきたのだろう。


「皆が忘れた役は覚えています。香役の夜も、庭番の水面も、舞台から消えた小さな所作も。でも、わたし自身の役だけは、誰も言えない。わたしも、言えません」


 御簾の向こうの声が、ほんの少しだけ小さくなった。


「それでも、保留されるのは役名だけなのでしょうか」


 誰も答えない。


 アリノリでさえ、わずかに沈黙した。


 イロハには、その沈黙が初めて人間らしく感じられた。


 だが、次に出てきた言葉は、やはり典役卿のものだった。


「未定義の役名を、確定して扱うことはできません」


 サヨは、静かに答える。


「では、わたしは未定義のまま生きてきたのですね」


 アヤメが息を呑む。


 イロハは、もう黙っていられなかった。


「違います」


 声が出ていた。


 アリノリがこちらを見る。


 だが、イロハは御簾のほうを見たまま続けた。


「サヨ様は、未定義なんかじゃありません。まだ、この国に作られていない役なんです」


 アリノリの空気が、わずかに硬くなる。


「面師イロハ」


「《コトサダメ》が読めないのは、ないからじゃありません。まだ台帳にないからです。まだ面になっていないからです。だから、定めるんじゃなくて、作る必要があるんです」


「皇族の役を、町面師が作ると?」


「町面師だから見えたんです」


 イロハは言った。


 自分でも驚くほど、声がまっすぐだった。


「面師小路には、台帳どおりじゃない面が来ます。欠けた面も、古すぎて役が薄れた面も、持ち主が変わった面も、どの棚にも合わない面も。私はそういう面を見てきました」


 腰の鍵が熱を持つような気がした。


「サヨ様の面箱は、失われたものじゃありません。待っているんです。まだない面を」


 御簾の向こうで、香の煙が細く揺れた。


 サヨが聞いている。


 それだけはわかった。


 アリノリは、静かに答える。


「あなたの見立ては記録します」


「また記録ですか」


「はい」


 彼の声は、変わらない。


「ただし、記録されていない役を、公的に認めることはできません」


 イロハは、言葉を失った。


 届かない。


 見えているものが違う。


 イロハには、白絹の奥にまだ彫られていない輪郭が見える。


 アリノリには、台帳に存在しない空白が見える。


 同じものを見ているはずなのに、まったく違うものとして受け取っている。


 下役が、白い札を差し出した。


 アリノリはそれを受け取る。


 そこに筆で文字を記す。


 サヨ=ミカゲ。

 皇族血統確認。

 儀礼上役名、未確認。

 役名保留候補。

 白影宮外公式儀礼参加、当面停止。


 アヤメが一歩踏み出した。


「典役卿」


 声が低い。


「それは、皇女様を白影宮に閉じ込める札です」


「いいえ」


 アリノリは答える。


「未定義の役名のまま、公式儀礼へ出ることによる混乱を避ける措置です」


「同じことです」


「違います」


 そのやり取りを、イロハはもう聞き飽きていた。


 違う。

 別。

 保留。

 安定。

 措置。


 正しい言葉が、人を少しずつ閉じていく。


 白札が、白絹の前に置かれた。


 その瞬間、白絹の端がかすかに波打った。


 月は浮かばない。


 けれど、イロハには見えた。


 白絹の奥で、まだ彫られていない面の輪郭が、ほんの一瞬だけ震えた。


 泣いているように。


 あるいは、怒っているように。


 御簾の向こうで、サヨの声が静かに響いた。


「アリノリ=シジョウ」


「はい」


「あなたは、王朝を守る方なのですね」


「その役をいただいております」


「では、覚えておいてください」


 サヨの声は、少しも荒くなかった。


 だが、審査所の誰もが息を止めた。


「王朝は、まだ名づけられていない役を抱えたままでも、続いてきました。わたしひとりを保留すれば守れるほど、この国は小さくないはずです」


 アリノリは沈黙した。


 イロハは、御簾を見つめる。


 サヨは弱い皇女ではない。


 面がない。

 役名がない。

 公式儀礼に立てない。


 それでも、彼女は人の欠落を覚えている。


 そして今、自分の空白を、初めて制度の前に差し出した。


 アリノリは、静かに頭を下げた。


「御言葉、記録いたします」


 サヨは、淡く答えた。


「ええ。記録なさい」


 その言い方に、イロハの胸が震えた。


 記録されるだけで終わるつもりはない。


 そう聞こえた。


 白札は置かれた。


 判定は覆らない。


 サヨは役名保留候補とされた。


 白影宮外の公式儀礼参加は、当面停止。


 だが、その場にいた者たちはもう知っていた。


 保留されたのは、ただの役名ではない。


 この国に、まだない役を認めるかどうか。


 その問いそのものが、白い札の下に置かれたのだ。


 アリノリは、白絹から視線を外した。


「続けます」


 彼の声は変わらない。


 だが、イロハには見えた。


 定役面コトサダメの裏側で、無数の役名符がまだ震えている。


 読めなかったものを、読めなかったままにしておけない。


 その震えが、次の異変を呼ぶように思えた。

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