第七節 ― 面師イロハ、宮中出入り制限
イロハ=ナギ。
その名が、審査所の中央に置かれた。
面ではない。
白絹でもない。
報告書でもない。
月痕のある役面でもない。
今度は、イロハ自身が審査の対象だった。
イロハは、膝の上の手に力を込めた。
腰の鍵が重い。
《ナギノオモテ》。
師匠が自分に与えた面。
自分の顔であり、自分の役であり、けれど仮面籍庁の台帳にはきっと正しく載っていない面。
アリノリ=シジョウは、定役面をつけたまま、書面を静かにめくった。
白漆の半面は、イロハの顔を見ない。
見るのは資格。
履歴。
工房。
所属。
許可された範囲。
「面師イロハ=ナギ」
「……はい」
「中級面師資格、現時点で有効。町面師としての修復実績あり。職面、生面、軽度祈面の補修について、一定の技能を認めます」
その言葉に、イロハはほんの一瞬だけ息を緩めた。
資格を否定されるのではないかと思っていた。
面師であることそのものを疑われるのではないかと。
だが、アリノリはそれをしなかった。
中級面師資格は有効。
技能も認める。
それは、かえって怖かった。
否定されないからこそ、次に来る線引きが避けられない。
アリノリは、淡々と続けた。
「ただし、白影宮および皇族面に関わる資格は別です」
イロハの胸が、ぎゅっと縮んだ。
「別……」
「はい」
アリノリは書面を一枚、卓上へ置いた。
「あなたは宮中面師ではありません。皇族面の制作、診断、修復、未成面への干渉については、原則として上位面師、または宮廷認定面師の立ち会いを要します」
アヤメ=シラハが静かに口を開いた。
「イロハ殿は、白影宮の依頼を受けています」
「承知しております」
アリノリは、少しも揺れない。
「白影宮が依頼したからこそ、正しい資格確認が必要なのです」
「サヨ様ご自身が、イロハ殿へ面を作れるかと問われました」
「皇女の御意向は尊重します」
アリノリは丁寧に言った。
丁寧すぎるほどに。
「しかし、皇族面は個人の希望のみで扱えるものではありません」
アヤメの目が鋭くなる。
「皇女様の面です」
「だからこそです」
その一言が、審査所を静かに押さえつけた。
イロハは唇を噛んだ。
サヨは、面を持たない皇女だ。
誰もその面を作れなかった。
宮廷面師たちは「記録にない」と言い、空白を空白のまま置いてきた。
だからイロハが呼ばれた。
けれど今、その事実さえも、資格確認という紙の前で細くなる。
アリノリは、次の書面を取った。
「また、あなたの所属工房について確認します」
イロハの指先が冷えた。
来る。
わかっていた。
それでも、師匠の名がこの場で読まれることが怖かった。
「ロウセツ=カガミ」
アリノリの声が、低く落ちる。
「元宮廷面師。現、資格剥奪者。無認可工房を面師小路裏にて運営。過去、無許可生面作成、および仮面籍未登録者への面授与疑いあり」
イロハの喉が詰まる。
無許可生面作成。
仮面籍未登録者への面授与。
それは、紙の上では罪なのだろう。
だが、イロハにとっては違う。
あの面がなければ、自分は今ここにいない。
面師にもなっていない。
誰かの欠けた面を直すことも、白化した役を診ることも、サヨの空の面箱を覗くこともできなかった。
師匠は、自分に顔をくれた。
それをこの場所では、違反と呼ぶ。
「師匠は」
イロハは、思わず言った。
「私を助けてくれました」
アリノリは、静かにこちらを見る。
「助けたことと、手続きを逸脱したことは別です」
また、別。
イロハの胸に怒りが刺さる。
「全部、別にするんですね」
「区別は必要です」
「区別しているうちに、人がこぼれたらどうするんですか」
「こぼれぬよう、制度があります」
「私は、こぼれていました」
言った瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
アヤメがイロハを見た。
セイラン=ナナツジの筆が止まる。
ヒヨリが袖口から顔を出す。
イロハは、もう止まれなかった。
「仮面籍がなくて、生面もなくて、どこの棚にも入れなかった。師匠が面をくれなかったら、私は今も存在が不安定なままでした」
アリノリは、黙って聞いていた。
白漆の半面は表情を変えない。
けれど、その沈黙は優しさではない。
判定の前の空白だった。
「あなたの事情は理解します」
「事情じゃありません」
「ですが、制度上の扱いは変わりません」
アリノリは書面へ視線を戻す。
「資格剥奪者の工房で養成された面師が、皇族の未成面に単独で関与することは認められません」
イロハの胸が、ずんと沈んだ。
仮置きでユラの舞を一度だけ戻した。
ハルマサの戦面から、彼の本当の役を見た。
サヨの面は、失われたものではなく、まだ作られていないものだと気づいた。
それでも、役所の一文で白影宮へ入れなくなる。
面師としての手が、紙で縛られる。
アリノリは、静かに続けた。
「加えて、あなたが所持する面について確認が必要です」
イロハの手が、腰の鍵へ伸びた。
アヤメが一歩前へ出る。
セイランも顔を上げた。
アリノリの声は変わらない。
「《ナギノオモテ》」
名が出た瞬間、イロハの視界の端が白く揺れた。
仮面籍庁の棚が、いっせいにこちらを向いたような気がした。
「あなたが所持する面を、確認させていただきたい」
「できません」
イロハは即答した。
声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。
アリノリは静かに問う。
「なぜです」
「これは、私の面です」
「だからこそ、確認が必要です」
「違います」
イロハは、鍵を握った。
「これは、私が私として立つための面です。誰かに疑われて、台帳に照らされるためのものじゃありません」
アリノリは怒らない。
ただ、穏やかに言う。
「面は、本人だけのものではありません。王朝の中で顔として扱われる以上、公的な確認が必要です」
「公的じゃなければ、顔じゃないんですか」
「公的に認められなければ、周囲がその顔をどう扱うべきか判断できません」
イロハは息を呑んだ。
この人は、本当にそう信じている。
公的に認められない顔は、人を守れないと。
だが、イロハは知っている。
公的に認められる前に、必要な顔がある。
夜の裏工房で、泣きながら与えられる面がある。
どの棚にも入れない子どもが、それでも明日を生きるために必要な面がある。
アヤメが、イロハの前へ立った。
「典役卿。イロハ殿は白影宮の依頼を受けています。所持面の強制確認は、その依頼への干渉と見なします」
「強制はいたしません」
アリノリは言った。
「本日は確認命令を発するのみです。提出期日を定め、正規の手続きを経て行います」
「それでも、白影宮は抗議します」
「承知しました。抗議も記録いたします」
アヤメの目が冷える。
記録する。
その言葉で、どれだけの怒りが棚にしまわれてきたのだろう。
セイランが静かに筆を動かす。
彼は、今のやり取りもすべて書いている。
せめて、残すために。
アリノリは白札ではなく、灰白の細い札を取った。
再確認命令に使う札らしい。
そこに文字が浮かぶ。
《ナギノオモテ》登録確認命令。
提出期日、後日通達。
未提出時、未認定面扱い。
イロハの手が震えた。
未認定面扱い。
その言葉だけで、《ナギノオモテ》が自分から遠ざかる気がした。
「続いて、宮中出入り資格について判定します」
アリノリは別の書面を手に取る。
「面師イロハ=ナギ。白影宮への単独出入りを当面禁止。皇族面および未成皇族面への直接作業を禁止。作業を要する場合は、仮面籍庁または宮廷認定面師の立ち会いを必要とします」
イロハの耳が、じんと鳴った。
白影宮への単独出入り禁止。
皇族面への直接作業禁止。
サヨの面を作るために、サヨがどんな役として立ちたいのかを知る必要がある。
そう言ったばかりだった。
そのためには、白影宮へ通わなければならない。
サヨと話さなければならない。
空の面箱を診なければならない。
まだない役の輪郭を探さなければならない。
それが、紙一枚で止められる。
「そんなの」
イロハは声を絞り出した。
「サヨ様の面を作るなって言っているのと同じです」
「違います」
アリノリは答える。
「正しい手続きを踏んで作るべきだと言っています」
「その正しい手続きで、誰も作れなかったんです」
その言葉に、初めて審査所がはっきり揺れた。
下役たちが目を伏せる。
アヤメの表情が変わらないまま、気配だけが鋭くなる。
セイランの筆が止まる。
イロハは続けた。
「宮廷面師も、台帳も、仮面籍庁も、サヨ様の面を見つけられなかった。記録にないって言って、異常なしって言って、ずっと空のまま置いてきたんでしょう」
「面師イロハ」
アリノリの声が低くなる。
怒りではない。
だが、明らかに場を押さえる声だった。
「発言は慎重に」
「慎重にしていたら、サヨ様はずっと面のないままです」
イロハは、初めて真正面からアリノリを見た。
白漆の半面の奥に、人の目がある。
冷たい。
だが、虚ろではない。
この人は、この人なりに王朝を守ろうとしている。
それがわかるからこそ、イロハは苦しかった。
「私は、サヨ様の面を勝手に作ろうとしているんじゃありません。サヨ様が、何者として立ちたいのかを聞こうとしているんです」
「皇族の役は、個人の意思のみで定まるものではありません」
「でも、本人の意思なしに作る面は、顔じゃありません」
沈黙。
長い沈黙だった。
アリノリは、イロハを見ていた。
《コトサダメ》の白い半面が、かすかに光ったように見えた。
けれど、判定は変わらない。
「あなたの見解は記録します」
アリノリは言った。
「その上で、判定を下します」
灰白の札が、イロハの名札の前に置かれた。
白影宮単独出入り禁止。
皇族面直接作業禁止。
《ナギノオモテ》登録確認命令。
ロウセツ工房、後日査察。
最後の一文で、イロハの息が止まった。
「工房を……?」
「はい」
アリノリは静かに頷く。
「資格剥奪者ロウセツ=カガミの工房において、未認定面の制作、修復、保管が行われていないかを確認します」
「師匠は」
イロハは言いかけて、止まった。
師匠は、やっている。
未認定面どころではない。
欠けた面、預かれない面、制度に乗らない面、仮置きの面。
灰面長屋や欠け面横丁から持ち込まれる、どの棚にも入らない面を、ロウセツは直している。
それが見つかれば。
どれだけの面が取り上げられるのか。
どれだけの人が、また顔を失うのか。
イロハの手が冷たくなる。
第6話へ続く道が、目の前で開いたようだった。
白影宮だけではない。
サヨだけではない。
この制度は、師匠の工房の奥にある面にも手を伸ばす。
灰面長屋にいる、かつての自分のような者たちにも。
アヤメが低く言った。
「仮面籍庁は、ロウセツ殿の工房まで審査対象にするのですか」
「必要があれば」
「その必要を、どなたが判断するのです」
「仮面籍庁です」
閉じた答えだった。
アヤメの手が、ほんの少し刀へ近づく。
だが、抜かない。
ここで刀を抜けば、すべてが仮面籍庁の思う通りになる。
乱れとして記録される。
イロハは、灰白の札を見た。
仮置きで人を救えても、役所の一文で道が閉じる。
自分がどれほど弱いか、はっきりと思い知らされた。
面師の手は、面に届く。
けれど、制度が扉を閉じれば、その手は持ち主に届かない。
アリノリは、書面を整えた。
「以上をもって、面師イロハ=ナギに関する暫定措置とします」
暫定。
その言葉は、永久よりもずっと冷たく聞こえた。
いつか解除されるかもしれない。
だから今は従え。
そう言われているようだった。
イロハは、灰白の札から目を離せなかった。
すると、袖の中からヒヨリが小さく顔を出し、セイランの手元の紙に尾で文字を書いた。
残す。
セイランは、黙って頷いた。
彼は書いている。
イロハの発言も。
アリノリの判定も。
白影宮の抗議も。
ロウセツ工房への査察命令も。
残すだけでは足りない。
けれど、残らなければ戦えない。
イロハは、ゆっくり息を吸った。
今ここで泣いている場合ではない。
怒鳴って追い出される場合でもない。
まだ、サヨの白絹が残っている。
皇女の未登録役名が、これから審査される。
自分が制限されたことより、もっと大きなものが次に来る。
イロハは、鍵から手を離した。
《ナギノオモテ》は、まだ開けない。
けれど、守る。
師匠の工房も。
サヨのまだない面も。
灰面長屋の、どこにも載らない顔も。
アリノリは、次の書面を手に取った。
「続いて、サヨ=ミカゲ様の役名確認に移ります」
審査所の空気が、さらに深く沈んだ。
ついに、面を持たない皇女が、紙の上で裁かれようとしていた。




