第六節 ― 星読式面《ナナツジノホシ》の沈黙
星読式面は、セイラン=ナナツジ自身の手で審査台へ置かれた。
白木の面。
淡青の星図。
七つの星点。
交差する辻文様。
面紐に編み込まれた青銀の星糸。
美しい式面だった。
武面のような強さはない。
神楽面のような華やかさもない。
けれど、静かな夜空をそのまま面へ写し取ったような、澄んだ気配がある。
その内側に、白い月痕がある。
星を読む入口を塞ぐように浮かんだ、丸い満月の噛み跡。
セイランは面を置くと、一歩下がった。
彼の袖の中で、ヒヨリが小さく身を縮める。
紙狐の尾だけが、袖口から覗いていた。
震えている。
イロハは、その震えを見逃さなかった。
ヒヨリは、臆病だから隠れているのではない。
この場の言葉が、危ないと知っているのだ。
アリノリ=シジョウは、定役面越しに《ナナツジノホシ》を見た。
白漆の半面は、神楽面にも戦面にも揺らがなかった。
そして今、星読式面にも、やはり感情を見せない。
「星読式面」
アリノリの声が落ちる。
「陰陽寮所属、セイラン=ナナツジ使用。方位読解、星宿照合、式神管掌補助の式面。昨夜、式面内側に満月反応および白化月痕を確認」
セイランは黙っていた。
手元には報告書がある。
正式報告。
観測別記。
そして、反転文字を封じた別紙。
彼はそれらを抱えるように持っていた。
記録する者。
それが彼の役だ。
しかし今、その記録そのものが審査台へ載せられようとしている。
アリノリは続けた。
「陰陽寮より提出予定の報告には、反転文字、鏡水における暦外満月反応、白面状の観測異常が含まれるとのこと」
「はい」
セイランの声は硬い。
「それらは事実です」
「事実であることと、正式記録として扱えることは別です」
アリノリは、穏やかに言った。
また、その言葉だった。
別。
舞いたいことと、祭礼に立てることは別。
死んでいないことと、公的に使えることは別。
事実であることと、正式記録として扱えることは別。
イロハは、胸の奥が苦しくなる。
この人は、いつも切り分ける。
人の痛みを、役所の言葉で分けていく。
セイランは、報告書を卓上へ置いた。
「反転文字は、私の筆跡でありながら、私の意思によるものではありません」
「その時点で、記録としての信頼性に疑義が生じます」
「だからこそ、異常として記録しました」
「反転文字。鏡水の観測異常。白面の客。いずれも、陰陽寮の正式記録としては扱いが難しい」
アリノリの声は柔らかい。
だが、言葉は確実にセイランの足元を削っていく。
セイランは唇を引き結んだ。
「難しいからこそ、記録する必要があります」
ヒヨリの尾が、袖の中で少しだけ動いた。
読む者。
第4話の夜、ヒヨリはそう書いた。
命じる者ではない。
読む者。
セイランは、その言葉を受け取った。
だから鏡水の庭で、封じる前に読んだ。
筆跡が反転しても、声で記録した。
読めぬものを、なかったことにしなかった。
けれど、仮面籍庁は違う。
読めない記録は、正式記録ではないと言う。
アリノリは微笑んだ。
その微笑みは、優しさにも見えた。
だが、イロハには閉じた箱の蓋のように見えた。
「記録とは、読まれるためにあります」
アリノリは言った。
「読めぬ記録は、混乱を招きます」
セイランの顔色が変わった。
ほんのわずかに。
けれど、イロハにはわかった。
その言葉は、深く刺さった。
自分が書いた文字を、自分で読めなくなる恐怖。
鏡水の庭で、セイランはそれを知った。
記録する者にとって、それは刀を抜けない武士と同じだった。
舞台へ入れない神楽師と同じだった。
役の入口が、目の前で閉じる。
アリノリは、そこを正確に突いたのだ。
セイランの手が、報告書の端を握る。
ヒヨリが袖口から顔を出した。
紙の耳が震えている。
セイランはそれに気づき、そっと袖を押さえた。
隠すためではない。
落ち着かせるために。
「読めないものを、読めないまま残すことも記録です」
セイランは言った。
声は少し震えていた。
しかし、消えていなかった。
「反転しているなら、反転していると記録する。鏡水に満月が映ったなら、暦と合わないと記録する。白面の客が現れたなら、正体不明の観測異常として記録する。読める形に整える前に、読めなかったという事実を残す必要があります」
アリノリは静かに聞いていた。
「それは、陰陽寮の見解ですか」
セイランは一瞬、黙った。
陰陽寮の見解。
その言葉は重い。
彼個人の記録なら言える。
だが、陰陽寮全体の見解として言えるのか。
まだ言えない。
制度の内側にいる彼は、その線を越えられない。
イロハは、セイランの苦しさを見た。
アヤメもまた、無言で見ている。
セイランは、深く息を吸った。
「陰陽寮所属、セイラン=ナナツジ個人の観測記録です」
アリノリは頷く。
「では、正式記録ではありませんね」
その瞬間、セイランの指が止まった。
あまりにも鮮やかに、言葉の逃げ道を塞がれた。
個人の観測記録。
それは真実かもしれない。
だが、正式ではない。
正式でなければ、制度はそれを動かない。
セイランは、何かを言おうとした。
けれど、声にならなかった。
ヒヨリが袖から飛び出した。
小さな紙狐は、審査台の上に降り立つ。
下役たちがざわめきかける。
アリノリは手を上げ、それを止めた。
ヒヨリは《ナナツジノホシ》の前へ進む。
そして、尾で台の上に文字を書いた。
読む。
ただ一語。
セイランの目が揺れた。
ヒヨリは続けて、もう一つ書く。
読めぬものも。
さらに、もう一つ。
残す。
読む。
読めぬものも。
残す。
それは、式神が主へ返した役だった。
命じる者ではない。
読む者。
そして、読めぬものを読めぬまま残す者。
イロハの胸が熱くなる。
セイランは、ヒヨリの文字を見つめていた。
やがて、静かに顔を上げる。
「典役卿」
「何でしょう」
「正式記録として扱えないのであれば、仮記録として保管してください」
アリノリの目が、少しだけ細くなった。
「仮記録」
「はい」
セイランは、声を整えた。
「反転文字、鏡水反応、白面の客については、正式判断に使用しなくて構いません。ですが、破棄せず、仮記録として残してください。今後、同様の現象が起きた場合に照合可能な形で」
アリノリは沈黙する。
イロハは、セイランを見た。
彼は負けていない。
正式記録にできないなら、仮記録で残す。
制度の言葉で押し返している。
それは大きな勝利ではない。
だが、消されることへの抵抗だった。
アリノリは、《コトサダメ》の奥で静かに言った。
「仮記録は、正式審査の根拠とはなりません」
「承知しています」
「誤読を招く恐れがあります」
「注記を付けます」
「陰陽寮上層の承認が必要です」
「私が申請します」
セイランの声は、少しずつ強くなっていた。
アリノリは、黒檀の扇を手に取る。
開かないまま、卓を軽く叩いた。
一度だけ。
「よろしい」
短い言葉だった。
セイランの肩が、わずかに下がる。
だが、安堵するには早かった。
アリノリは続ける。
「星読式面については、白化月痕が確認されています。式面使用は継続可。ただし、月齢読解および白化面関連の方位判定については、補助観測者を付けること」
セイランの顔に、苦い色が浮かぶ。
使用停止ではない。
封役でもない。
だが、完全には認められなかった。
自分ひとりの読解を、制度が信用しない。
「報告書は」
アリノリは、下役へ視線を向けた。
「正式報告部分のみ受理。反転文字および鏡水の白面観測については、仮記録扱い。審査判定の直接根拠とはしない」
下役が記す。
仮記録。
その三文字が紙に落ちた瞬間、セイランの報告書の上に置かれた重みが変わった。
消されはしない。
けれど、正式には扱われない。
真実を記録しても、制度が正式記録にしない。
イロハは、悔しさで喉が詰まった。
「それじゃ、なかったことにするのと同じじゃないですか」
思わず言う。
アリノリは、静かにこちらを見る。
「違います。仮記録として残します」
「でも、判断には使わない」
「不確定な記録を用いて、人の役を定めることはできません」
「不確定なまま、人の役を封じているのに?」
室内の空気が止まった。
アヤメが、イロハを見た。
セイランも。
ヒヨリも。
アリノリだけが、変わらない。
白漆の半面は、何の感情も見せない。
「面師イロハ」
アリノリの声は低かった。
怒ってはいない。
だが、場の重みが増した。
「あなたの発言は記録します。ただし、審査の進行を妨げる場合は退席を命じます」
アヤメがわずかに動いた。
イロハは唇を噛む。
ここで退席させられたら、何も見られなくなる。
サヨの白絹も。
自分の《ナギノオモテ》のことも。
この先、何が決められるのかも。
セイランが、静かに言った。
「イロハさん」
その声には、怒りではなく制止があった。
残すために、今は黙れ。
そう言っているようだった。
イロハは拳を握りしめ、座り直した。
「……すみません」
アリノリは頷いた。
「続けます」
セイランの報告書に灰札が添えられる。
仮記録。
灰色の札だった。
白札ほど冷たくはない。
黒札ほど重くもない。
だが、正式ではない。
宙に浮かせる札。
セイランは、その札を見つめていた。
ヒヨリが台から戻り、彼の袖へ入る。
今度は隠れるのではなく、寄り添うように。
セイランは、袖の上からそっとヒヨリを押さえた。
「……残っただけでも、よしとします」
小さな声だった。
イロハにだけ聞こえるほどの。
だが、その声は悔しさを含んでいた。
自分の記録が、正式な場所へ届かない悔しさ。
読めぬものを読めぬまま残すことの難しさ。
制度の中にいて、制度に届かない真実を抱える痛み。
イロハは、セイランを見ながら思った。
彼もまた、役を喰われかけているのだ。
月にではない。
制度に。
記録する者でありながら、記録として認められない。
それは、舞台から降ろされたユラや、刀を封じられたハルマサと同じだった。
アリノリは、次の書面を手に取った。
「続いて、面師イロハ=ナギの宮中出入り資格、および所持面に関する確認へ移ります」
イロハの心臓が、大きく鳴った。
ついに、自分の番だ。
腰の鍵が、急に重くなる。
《ナギノオモテ》。
師匠が与えた面。
サヨのものに似ていると言われた面。
まだ開けてはいけない面。
仮面籍庁の棚が、いっせいにこちらを見る気配がした。
イロハは、ゆっくり息を吸った。
今度は、自分が定められる番だった。




