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第三節 ― 定役面《コトサダメ》

 白い布をかけられた面箱が、上座の前へ運ばれた。


 それは、他の面箱とは違っていた。


 黒漆ではない。


 白漆だった。


 光を受けると、月のように白く浮かぶ。だが、白影宮の空の面箱とは違う。あちらの白さには、まだ何かを待つ余白があった。


 この箱の白さは、違う。


 すでにすべてを拭い終えたような白だった。


 余白ではない。

 消去の白。


 イロハは、その箱を見た瞬間、指先が冷えた。


 月の冷たさではない。


 役所の棚に長く置かれていた紙の冷たさだった。


 アリノリ=シジョウは、黒檀の扇を膝の上に置き、面箱の前へ手を伸ばした。


 下役が深く頭を下げる。


「定役面、開箱いたします」


 部屋の者たちが、自然と姿勢を正した。


 誰も命じられていない。


 けれど、そうしなければならないような空気があった。


 アリノリの指が、箱の留め具に触れる。


 かちり。


 乾いた音がした。


 その瞬間、イロハは胸の奥を押さえられたような感覚を覚えた。


 箱が開く。


 中に納められていたのは、白漆の半面だった。


 定役面コトサダメ


 それは、恐ろしい面には見えなかった。


 鬼面ではない。

 呪面でもない。

 牙も、角も、怒りもない。


 むしろ、穏やかだった。


 白漆の表は、滑らかで、曇りひとつない。

 目元は細く、静かに閉じかけているように見える。

 額の中央には、小さな朱印。

 右頬には、金の矩形線。

 左目の下には、一本だけ黒い細線が引かれている。


 無駄がない。


 美しい。


 だが、その美しさには息の通う場所がなかった。


 人の表情を受け止める余地がない。

 泣くことも、笑うことも、迷うことも許さない。


 ただ、整っている。


 あまりにも整いすぎている。


 イロハは、その面を見て、面師としての感覚がざわつくのを覚えた。


 面は、本来、人の息を受けて少しずつ変わる。


 つける者の湿り気、声、癖、迷い、決意。

 それらが内側に積もって、面はその人の顔になっていく。


 けれど、この面にはそれがない。


 どれほど多くの者を裁いてきたとしても、この面は誰の息にも染まっていない。


 染まることを拒む面。


 そう見えた。


 アリノリは《コトサダメ》を両手で持ち上げた。


 その動作は、儀式そのものだった。


 面を顔に当てる前に、彼は一度だけ部屋を見渡す。


「本面は、仮面籍庁における定役審査の官面です」


 声は低く柔らかい。


「既存役への該当、役名登録の真偽、着面資格の安定性、祭礼および宮中儀礼への参加資格を確認します」


 言葉が、ひとつずつ卓の上に置かれていく。


「必要に応じ、面の公的使用を保留し、儀礼上の立場を一時停止し、無許可面または不認定面を封じます」


 イロハは唇を噛んだ。


 保留。


 停止。


 封じる。


 その三つの言葉が、白札と黒札の色をまとって見えた。


 アリノリは、面を顔へ当てた。


 白漆の半面が、彼の顔の上に重なる。


 片側だけを覆う面。


 けれど、つけた瞬間、部屋の空気が変わった。


 静かだった場所が、さらに静かになる。


 棚に並ぶ面札が、いっせいにこちらを向いたような気がした。


 誰も身動きしない。


 アリノリの姿は、先ほどと変わらないはずだった。


 半面をつけただけ。


 それだけなのに、彼の声が、王朝そのものの奥から聞こえてくるようになる。


「審査を始めます」


 その一言に、儀礼上の重みが宿った。


 イロハは、膝の上の手を強く握った。


 もしこの人が、今ここで「その役は認められない」と言えば。


 周囲の者は、きっと無意識にその人物を疑い始める。


 本当に神楽師なのか。

 本当に番衆なのか。

 本当に皇女なのか。

 本当に面師なのか。


 言葉が、人の足元を崩す。


 それが《コトサダメ》の力なのだと、イロハは理解した。


 アリノリが軽く手を上げると、下役が一枚の面札を持ってきた。


 見本用の札らしい。


 そこには、帝都南市の香具師の職面登録が記されていた。


 アリノリは《コトサダメ》をつけたまま、その札を見た。


「南市、香具師職面。登録番号、南職二七四。継承元、カヤノ家。着面資格、有効」


 すると、札の端に細い白い線が浮かんだ。


 否定の白ではない。


 確認の白。


 役が台帳と一致した印だった。


 下役が静かに説明する。


「既存役に該当する場合、白線が現れます」


 次に、別の札が置かれた。


 こちらは灰色の札だった。


 アリノリがそれを見る。


「祈面登録、未更新。祭礼参加歴、三年空白。現使用者と登録者の年齢不一致」


 白漆の面の目元が、少しだけ冷えたように見えた。


 札の上に、灰色の光が浮かぶ。


「再審」


 アリノリが告げる。


 下役が灰札を重ねた。


 次に、小さな職面が台に置かれた。


 古い面だった。


 どこかの市で使われたものか、頬に擦れがあり、内側に長く使われた息の跡がある。


 イロハは、思わずそちらに目を向けた。


 いい面だ。


 古いが、手入れされている。

 持ち主が大事にしてきた面だ。


 だが、アリノリは表情を変えなかった。


「台帳不一致」


 白漆の面の声が落ちる。


「使用者名と職面名が異なります。仮名使用の疑い。公的使用、保留」


 白札が置かれた。


 それだけで、面の空気が変わった。


 さっきまで人の手の温もりを持っていた古面が、急に黙り込んだように見えた。


 イロハは、胸が痛くなる。


 あの面が悪いわけではない。


 持ち主が大事にしていたことも、面を見ればわかる。


 けれど台帳と合わなければ、保留される。


 面はその瞬間、顔ではなくなる。


 登録確認待ちの物品になる。


 アリノリは、最後にもう一枚の札を見た。


 黒い縁のある白札だった。


「武面使用記録に不安定あり。役遂行不能の報告あり。封役相当」


 下役が、黒縁の白札を台に置く。


 部屋の空気がさらに重くなった。


 イロハは、それが見本であるとわかっていても、ハルマサの《アカツキノハ》を思い出さずにはいられなかった。


 刀を抜けなかった若い武士。


 けれど、最後には自分の言葉で刀を抜いた。


 ここから先へ、月を通さない。


 あの一言を、この面は読めるのだろうか。


 《コトサダメ》は、彼のその一度を認めるのだろうか。


 それとも、常に抜ける保証がないという理由で、封じるのだろうか。


 イロハは、思わず口を開いた。


「その面は」


 アリノリが、こちらを見る。


 白漆の半面の奥から、人の目ではなく、役所の目がこちらを見た気がした。


「何でしょう」


「その面は、持ち主の気持ちも読みますか」


 室内が、わずかに静まった。


 アリノリは、穏やかに答える。


「気持ちは、審査対象ではありません」


 イロハの胸が詰まる。


「でも、役には気持ちが要ります」


「役に必要なのは、遂行の安定です」


「違います」


 イロハは思わず言った。


 アヤメがわずかに動く。


 セイランの筆が止まる。


 アリノリは怒らなかった。


「違う、と」


「はい」


 イロハは、膝の上の手を握ったまま続けた。


「ユラさんの舞も、ハルマサさんの刀も、技術だけじゃ戻りませんでした。何のために舞うのか。何のために刀を抜くのか。それを思い出した時だけ、役が少し戻ったんです」


 アリノリは、静かに聞いていた。


 白漆の半面は、何の表情も浮かべない。


「面師イロハ。あなたの言葉は、修復現場の感覚として記録に値します」


「感覚じゃありません」


「ですが、仮面籍庁の審査では、公的安定性を見ます」


 また、その言葉だった。


 公的。


 安定。


 イロハの言葉は、その二つの前でいつも細くなる。


 アリノリは、下役へ合図した。


 見本の面札と札が片づけられていく。


「《コトサダメ》は、人の心を裁く面ではありません」


 彼は言った。


「王朝に存在する役を確認する面です」


 その言葉に、イロハは嫌なものを感じた。


 王朝に存在する役。


 なら、王朝にまだ存在しない役は。


 サヨの役は。


 《コトサダメ》には読めないのではないか。


 読めないものを、存在しないものとして扱うのではないか。


 イロハは、アヤメの抱えた箱を見た。


 白影宮の白絹。


 その奥にいるサヨの空白。


 まだ作られていない面。


 まだこの国にない役。


 アリノリは、イロハの視線に気づいていたのかもしれない。


 けれど、何も言わなかった。


 ただ、白漆の半面をつけたまま、次の台を示す。


「それでは、実際の審査に移ります」


 下役たちが、慎重にひとつの面箱を運んできた。


 神楽師ユラ=シラビョウの鈴祈舞面ユラノスズ


 白化した舞面。


 かつて、イロハが一度だけ舞を仮置きした面。


 面箱が台に置かれる。


 イロハの胸が、静かに締めつけられた。


 《コトサダメ》の力はわかった。


 既存の役を照合し、台帳と照らし、白札で保留し、黒札で停止し、黒縁の白札で封役する。


 強い面だ。


 制度そのものを顔にしたような面だ。


 だが、その強さが、救いになるとは限らない。


 アリノリ=シジョウは、白漆の半面の奥で静かに告げた。


「第一対象。鈴祈舞面ユラノスズ


 その声に、部屋の棚がすべて耳を澄ませたように思えた。

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