第二節 ― 典役卿アリノリ=シジョウ
アリノリ=シジョウは、上座に座ってからもしばらく何も言わなかった。
ただ、黒檀の扇を膝の上に置き、卓上に並べられた札を見ている。
イロハ=ナギ。
アヤメ=シラハ。
セイラン=ナナツジ。
それから、まだ置かれていない面のための空白。
ユラの神楽面。
ハルマサの戦面。
星読式面。
白影宮の白絹。
人より先に、対象がある。
その視線だけで、イロハにはわかった。
この人は、まず顔を見ない。
誰が泣いたか。
誰が震えたか。
誰が失った役を取り戻そうとしているか。
そういうものを見る前に、その人がどの役札の下に置かれるべきかを見る。
アリノリは、四十代後半から五十代前半ほどに見えた。
黒い髪には銀糸が混じっている。だが、それは老いというより、墨に銀粉を落としたような整った色だった。髪は一筋の乱れもなく結われ、冠紐も衣の合わせも、定められた寸法どおりに収まっている。
白金と墨黒の宮廷装束は、美しかった。
派手ではない。
威圧的でもない。
けれど、その美しさは人を招くためのものではなかった。
距離を測るための美しさだった。
近づきすぎてはならない。
乱れてはならない。
呼吸の幅さえ、定められている。
そんな装束だった。
彼の手元にある黒檀の扇には、細い金線で面箱の紋が描かれていた。閉じた箱。開かない箱。中に何があるのかを問う前に、まず封を確かめる紋。
アリノリは、ゆっくりと扇を取った。
開かない。
閉じたまま、卓上にそっと置く。
その動作だけで、場のざわめきが消えた。
「面師イロハ」
低く柔らかい声だった。
イロハは顔を上げる。
アリノリの目は、こちらを見ているようで、見ていない。
イロハの顔ではなく、座の位置と、前に置かれた名札を見ていた。
「白影宮のアヤメ殿」
アヤメは静かに頭を下げた。
「陰陽寮のセイラン殿」
セイランも礼を返す。
「お越しいただき、感謝いたします」
言葉は丁寧だった。
非の打ちどころがない。
相手を侮らない。
怒鳴らない。
急かさない。
礼を欠かない。
だからこそ、怖かった。
イロハは、面師小路で怒鳴る客なら何度も見たことがある。
欠けた職面を持ってきて、今日中に直せと無理を言う者。
子どもの生面が割れたと泣きついてくる親。
祈面の修理代に文句を言う寺社の使い。
そういう人たちは怖くない。
怒りにも、焦りにも、困っている理由があるからだ。
けれど、アリノリには焦りがない。
怒りもない。
すでに形が整っている。
この場に誰を呼び、どこに座らせ、何を対象とし、どの順番で審査するか。
すべて決まっている。
イロハは、すぐに感じた。
この人は、自分たちを責めに来たのではない。
もっと悪い。
もう裁くための形を整えている。
アリノリは、卓上に置かれた灰白の書面を一枚めくった。
「本日は、異常面の救済ではなく、役名の安定性を確認します」
その一言が、部屋に落ちた。
イロハの胸が、かっと熱くなる。
「救済では、ないんですか」
思わず声が出た。
アヤメがわずかにこちらを見たが、止めなかった。
アリノリは、ゆっくりイロハへ視線を移した。
初めて、顔を見た。
けれど、その目はまだ穏やかだった。
「面師イロハ。救済を否定しているわけではありません」
「でも、今そう言いました」
「はい。救済と、役名の安定確認は別の手続きです」
別の手続き。
その言葉が、イロハの中で硬く鳴った。
「ユラさんは、神楽師の役を喰われました。ハルマサさんも、戦う入口を喰われたんです。サヨ様の面は、まだ作られていないだけで――」
「そのすべてを、個々の事情として把握することは可能です」
アリノリは遮らなかった。
遮らないまま、言葉の場所をずらした。
「しかし、王朝の役名制度において問うべきは、その面が現在、公的な役を担えるかどうかです」
「公的な役を担えるかどうか……?」
「はい」
アリノリは静かに頷いた。
「舞えるか。守れるか。読めるか。儀礼に立てるか。宮中に出入りできるか。皇族として定められた役名を持つか」
ひとつずつ。
淡々と。
人を切るのではなく、紙を裁つように言葉が置かれる。
「それらを確認するのが、本日の審査です」
イロハは膝の上で手を握った。
「でも、白化面は壊れたわけじゃありません。持ち主が悪いわけでもない。月に――」
「原因は問います」
アリノリは言った。
「ですが、原因が何であれ、現に役が不安定であるならば、王朝はそれを放置できません」
「放置じゃありません。直すんです」
「誰が」
静かな問いだった。
イロハは一瞬、言葉に詰まった。
「私が」
「あなたは中級面師ですね」
「はい」
「町面師としての資格は確認しております。職面、生面、軽度の祈面修復。いずれも一定の技能を持つことも報告されています」
イロハは、褒められているのではないとすぐにわかった。
それは評価ではない。
分類だ。
「ですが、皇族面、官面上位、武面封役、祈面祭礼資格の再認定は、中級面師の権限外です」
アヤメが口を開いた。
「イロハ殿は、白影宮の依頼を受けています」
「承知しています」
アリノリは、少しも揺れない。
「白影宮が依頼したからこそ、資格と権限の確認が必要です」
アヤメの目が細くなる。
「資格がなければ、喰われた役を診ることも許さないと?」
「許す、許さないの問題ではありません」
アリノリの声は、なお柔らかかった。
「役に関わる行為は、その行為自体が新たな役の干渉になります。無資格、または権限外の者が皇族面に触れれば、後に面の正統性が問われる」
「正統性」
「はい」
アリノリは、初めて黒檀の扇を開いた。
扇面には、細かい文字でいくつもの役名が書かれていた。
「正しく作られ、正しく登録され、正しく着けられ、正しく扱われる。それによって、面は王朝の中で顔となります」
イロハは、その扇面を見た。
正しく。
正しく。
正しく。
その言葉が、幾重にも重なって息を塞ぐ。
面は、人を救うものだ。
イロハはそう思ってきた。
欠けた面を直す。
役を失いかけた者へ仮札を置く。
生面を失った子どもに、もう一度立つ場所を与える。
けれど、アリノリにとって面は違う。
面は、王朝の秩序に人を正しく置くためのもの。
その場所がなければ、存在は不安定になる。
だから、定める。
定まらなければ、保留する。
乱れれば、封じる。
どちらも、面を大切にしている。
だからこそ、ぶつかる。
「正しくない面は、顔ではないんですか」
イロハは尋ねた。
室内の空気が、わずかに揺れた。
下役たちが目を伏せる。
セイランの筆が止まる。
アヤメは何も言わない。
アリノリは、少しだけ目を細めた。
「正しくない面は、持ち主を傷つけます」
意外な答えだった。
イロハは黙る。
アリノリは続けた。
「役に適さぬ面をつければ、人は自分の立つ場所を誤る。許されぬ役を名乗れば、周囲を惑わせる。登録なき面を顔として扱えば、本人がどこへ属するのか、誰にも守れなくなる」
その言葉は、冷たい。
けれど、完全な嘘ではなかった。
面のない者がどれほど不安定かを、イロハは知っている。
自分自身が、そうだったからだ。
だから一瞬、言い返せなくなる。
アリノリは、その沈黙を責めなかった。
ただ、静かに畳みかける。
「王朝は、人を縛るためだけに役を定めるのではありません。人を守るために定めます」
「でも」
イロハは、喉の奥から声を出した。
「定められない人は、どうなるんですか」
アリノリは沈黙した。
ほんの短い沈黙。
だが、その沈黙が答えだった。
「定められるまで、保留します」
「それは、守ることですか」
「乱れの中へ置くよりは」
「その間、その人は何者として生きるんですか」
イロハの声が、少し震えた。
サヨの言葉を思い出していた。
では、わたしは役名が定まるまで、何者として息をすればよいのでしょう。
まだ聞いていないはずのその問いが、もう胸の中にあった。
アリノリは、イロハをじっと見た。
今度は、役札ではなく顔を見ていた。
「面師イロハ」
「はい」
「あなたは、役なき者にも面を与えたいのですね」
部屋の奥が静まり返った。
イロハの指が、腰の鍵へ触れそうになる。
《ナギノオモテ》。
その存在を、アリノリはどこまで知っているのか。
アヤメの気配が鋭くなる。
セイランの筆が、紙の上で止まっている。
アリノリは、表情を変えない。
「お気持ちは理解します」
「気持ちの話じゃありません」
「では、思想の話ですか」
静かな問いだった。
イロハは、息を詰めた。
思想。
そんな大きな言葉で考えたことはなかった。
ただ、目の前で困っている人がいた。
面が欠けていた。
役を喰われていた。
立つ場所がなかった。
だから、直したかった。
仮でもいいから、置きたかった。
「私は」
イロハは、言葉を探した。
「面師です」
「はい」
「面が欠けていたら、直します。役が薄くなっていたら、つなぎます。まだ面がないなら、作れるか考えます」
アリノリの目が、わずかに動いた。
「まだ面がないなら」
「はい」
「それが、王朝に存在しない役であっても?」
イロハは、はっきり答えた。
「その人が、そこに立つために必要なら」
部屋の空気が、さらに重くなる。
その答えが、この場所では危ういものなのだと、イロハにもわかった。
けれど、引っ込めるつもりはなかった。
アリノリは、静かに扇を閉じた。
「なるほど」
その声には怒りがなかった。
侮りもなかった。
ただ、何かを台帳の一項目に書き加えたような響きがあった。
「面師イロハ。あなたの見立てと姿勢は、後ほど確認させていただきます」
イロハの背筋が冷えた。
確認。
その言葉は、尋問よりもずっと怖かった。
アリノリは視線をアヤメへ移す。
「白影宮のアヤメ殿。白影宮より持参された物品は」
「こちらに」
アヤメは、白絹の入った箱を示した。
「確認いたします」
次にセイランへ。
「陰陽寮のセイラン殿。報告書は」
「正式報告と、観測別記を用意しております」
「結構」
アリノリは頷いた。
「ただし、読めぬ記録は正式記録として扱えない場合があります」
セイランの表情がわずかに硬くなる。
「読めないからこそ、記録が必要です」
「記録とは、読まれるためにあります」
穏やかな声。
だが、そこにも刃があった。
セイランは黙った。
ヒヨリが袖口から少しだけ顔を出し、セイランの手首に紙の鼻先を寄せる。
アリノリの視線は、その紙狐にも一瞬だけ向いた。
しかし、何も言わない。
ただ、閉じた扇を卓上に置き、部屋全体へ向き直った。
「それでは、審査を始めましょう」
その合図で、下役たちが動き出す。
白い布のかけられた台が中央へ運ばれる。
黒漆の小箱が並べられる。
白札、黒札、黒縁の白札、灰札が揃えられる。
イロハは、それを見て喉の奥が冷たくなるのを感じた。
面を直す時、最初に用意するのは柔らかい布だ。
欠けた部分を受ける箱だ。
持ち主の話を聞く椅子だ。
けれどここで用意されるのは、札だった。
保留するための白札。
停止するための黒札。
封役するための黒縁の白札。
再審するための灰札。
救うための道具ではない。
定めるための道具。
アリノリは、最後にこう告げた。
「本日の審査は、個人の善悪を問うものではありません」
それは、とても正しい言葉に聞こえた。
「王朝において、その役が安定して存在し得るかを確認するものです」
イロハは、その言葉を聞きながら思った。
この人は、自分が悪いことをしているとは思っていない。
むしろ、守っていると思っている。
王朝を。
役を。
面の正しさを。
だからこそ、きっと強い。
そして、きっと怖い。
月は白く噛む。
けれどアリノリ=シジョウは、正しさで封じる。
そのことを、イロハはこの時、はっきりと知った。




