表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/108

第一節 ― 仮面籍庁

 仮面籍庁は、天帝宮の東外郭にあった。


 宮そのものの内ではない。

 けれど、民の通りに開かれた役所でもない。


 天帝宮の影が届き、帝都の声が遠のく、その境目に建てられている。


 白影宮が、空白を抱えた静けさの宮なら。

 陰陽寮が、暦と星を読む紙と墨の官庁なら。


 仮面籍庁は、すべてを棚に納める場所だった。


 門は黒漆。

 柱は磨かれた白木。

 軒には灰白の幕が下がり、その中央に閉じた面箱の紋が染め抜かれている。


 美しい建物だった。


 だが、イロハ=ナギはその門を見上げた瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。


 ここは、人が助けを求めて来る場所ではない。


 人が、どの箱に入るべきかを決められる場所だ。


 門前には、仮面籍庁の下役たちが並んでいた。


 灰白の官衣。

 同じ幅の帯。

 同じ高さで結ばれた髪。

 胸には小さな役札。


 誰も怒鳴らない。

 誰も睨まない。

 誰も刃を向けない。


 ただ、定められた位置に立っている。


 それだけで、イロハは足裏が冷たくなるような感覚を覚えた。


「行きます」


 アヤメ=シラハが短く言った。


 彼女は白絹を包んだ箱を抱えている。


 白影宮から持ち出した、サヨ=ミカゲの空の面箱に敷かれていた白絹。


 それを持つ手は、まるで皇女本人を守るように慎重だった。


 セイラン=ナナツジは、陰陽寮の官衣を整え、報告書を懐に収めていた。


 肩にはヒヨリがいる。


 紙狐はいつもより体を小さく見せ、セイランの襟元に半ば隠れていた。


 イロハは、自分の道具袋を握り直した。


 中には仮札がある。

 白札もある。

 彫刻刀もある。


 けれど、この門の前では、それらが急に頼りなく思えた。


 ここでは、面を直す技術だけでは足りない。


 門番が恭しく頭を下げる。


「白影宮近習、アヤメ=シラハ様。陰陽寮、セイラン=ナナツジ様。面師、イロハ=ナギ殿。お待ちしておりました」


 名前は呼ばれた。


 だが、イロハには、それが自分を呼んだ声には聞こえなかった。


 役札を読み上げられたようだった。


 白影宮近習。

 陰陽寮。

 面師。


 人ではなく、所属と資格。


 そうやって、この場所は人を迎える。


 門をくぐると、内側はひどく静かだった。


 足音が、磨かれた床に細く響く。


 廊下の両側には、黒漆の棚が続いていた。棚の中には、木箱、面札、台帳、紐で括られた記録束が整然と収められている。


 生面。


 職面。


 祈面。


 武面。


 官面。


 棚の上には小さな札があり、それぞれの分類名が墨で記されていた。


 イロハは思わず足を止めた。


 生面の棚には、家ごとの面箱が並んでいる。

 職面の棚には、商人、工人、香役、庭番、神楽師、番衆、記録官、面師など、職に属する面札が収められている。

 祈面の棚には、神前に立つための資格が記されている。

 武面の棚には、戦面と護衛面の使用許可。

 官面の棚には、役所に属する者たちの着面資格。


 整っている。


 あまりにも整っている。


 欠けた面も、割れた面も、泣きながら持ち込まれた子どもの生面も、ここにはない。


 面師小路の裏工房には、いつも埃があった。

 木粉が舞い、漆の匂いが染み、欠けた面が不揃いに並び、客は自分の言葉で困りごとを話した。


 けれどここには、困りごとの声がない。


 代わりにあるのは、分類だった。


 人の名より先に、所属家。

 許可された役。

 着面資格。

 祭礼参加資格。

 未更新の有無。

 保留歴。

 停止歴。


 誰がどこに立ってよいか。

 誰が何を名乗ってよいか。

 誰がどの面をつけてよいか。


 それらが、美しく、間違いなく、黒漆の棚に納められている。


 イロハの足元が、少し揺れたような気がした。


 昔のことが、ふいに喉の奥へ戻ってくる。


 名前を呼ばれても、面がない。

 家を聞かれても、答える面がない。

 どこの棚にも入れない。

 どの台帳にも載らない。


 役を持たない子ども。


 制度上、存在が不安定な者。


 かつての自分。


 イロハは、腰の鍵に触れた。


 《ナギノオモテ》。


 師匠が与えてくれた、自分の面。


 あの面がなければ、自分は今も、この棚のどこにも入れなかったのだろうか。


 いや。


 入れないまま、最初からいないものとして扱われたのだろうか。


「イロハ殿」


 アヤメの声で、我に返った。


「顔色が悪いです」


「大丈夫です」


 そう答えた声は、思ったより小さかった。


 アヤメはそれ以上問わなかった。


 ただ、イロハの半歩前に立った。


 その位置取りだけで、少し息がしやすくなる。


 セイランは棚を見ながら、低く言った。


「仮面籍庁の記録は、陰陽寮の暦記録より古いものもあります」


「そんなに古いんですか」


「はい。人がどの役に属するかを記す制度は、王朝の基礎ですから」


 イロハは棚を見た。


 王朝の基礎。


 それはたしかに強い言葉だった。


 けれど、基礎とは、人が立つためのものではないのか。


 人を押さえつけるためのものなのか。


 廊下を進むうち、棚の種類が変わった。


 前方の区画には、白札と黒札が並んでいた。


 白札には「保留」。

 黒札には「停止」。

 黒縁の白札には「封役」。

 灰札には「再審」。


 イロハは思わず立ち止まる。


 札の一枚一枚に、誰かの役が記されていた。


 奉納舞参加保留。

 市役職面更新停止。

 武面使用一時差止。

 祈面資格再審。

 家面継承保留。


 その札の向こうに、顔が見えた気がした。


 舞台に立てなくなった誰か。

 店を継げなくなった誰か。

 神前に出られなくなった誰か。

 家に戻れなくなった誰か。


 でも、ここには泣き声がない。


 札だけがある。


「ここでは」


 イロハは呟いた。


「人じゃなくて、役が並んでいるんですね」


 案内の下役が、振り返った。


 表情は変わらない。


「人を正しく扱うために、役を記録しております」


「正しく」


「はい」


 下役は丁寧に答えた。


「正しく記録されぬ役は、本人にも周囲にも混乱を生じさせます。仮面籍庁は、その混乱を防ぐための役所です」


 言葉は正しい。


 だからこそ、息苦しかった。


 イロハは、何も言い返せなかった。


 やがて一行は、臨時審査所へ通された。


 広い部屋だった。


 中央に低い卓。

 その奥に上座。

 左右に控えの座。

 壁際には面札棚。

 正面の奥には、白い布で覆われた面箱がひとつ置かれている。


 座る位置は、すでに決められていた。


 上座は空いている。


 その正面に、審査対象の面を置くための台。


 左手には、白影宮関係者の座。

 アヤメの名札がある。


 右手には、陰陽寮記録者の座。

 セイランの名札がある。


 少し下がった場所に、面師の座。


 そこに、イロハ=ナギと書かれた札が置かれていた。


 その位置を見ただけで、イロハはこの場の形を理解した。


 アヤメは白影宮の使者。

 セイランは陰陽寮の記録者。


 イロハは、面を診た職人。


 つまり、発言は許されるかもしれない。

 だが、決める側ではない。


 座順が、すでにそう告げている。


 怒鳴られるより、ずっと苦しかった。


 アヤメが名札を一瞥し、ほんの少し眉を動かした。


「イロハ殿をその位置に?」


 下役は丁寧に頭を下げる。


「面師資格に基づく席次です」


「白影宮の依頼を受けている方です」


「承知しております。ですが、宮中面師ではございませんので」


 アヤメの目が冷える。


「……なるほど」


 その一言だけで、部屋の温度が下がったように感じた。


 セイランは何も言わず、自分の座へ向かった。


 ただし、座る前にイロハを見た。


「記録します」


 短い言葉だった。


 けれど、その意味はわかった。


 この座順も。

 この扱いも。

 この場の空気も。


 彼は記録するつもりなのだ。


 イロハは小さく頷いた。


 自分の座へ進む。


 そこに座った瞬間、背中に棚の気配を感じた。


 黒漆の棚。

 白札と黒札。

 保留、停止、封役、再審。


 この部屋では、沈黙さえも役を持っている。


 誰が話すべきか。

 誰が黙るべきか。

 誰の言葉が記録されるか。

 誰の言葉が「感想」として退けられるか。


 すべて、見えない面によって決められている。


 イロハは、膝の上で手を握った。


 面は、顔を隠すものではない。


 この国では、面こそが顔である。


 ならば、ここは顔を与える場所なのか。


 それとも、顔を取り上げる場所なのか。


 しばらくして、部屋の奥の襖が開いた。


 灰白の官衣を着た役人たちが、静かに入ってくる。


 最後に現れた男を見た瞬間、室内の空気が整った。


 整いすぎて、息が止まりそうになる。


 黒に銀糸の混じる髪。

 白金と墨黒の宮廷装束。

 手には黒檀の扇。

 穏やかな目元。

 だが、その視線は人の顔ではなく、置かれた札と座順を見ている。


 アリノリ=シジョウ。


 典役卿。


 仮面籍庁において、役を定める者。


 彼は上座へ進み、静かに腰を下ろした。


 誰も命じられていないのに、部屋の者たちが一斉に頭を下げる。


 イロハも遅れて頭を下げた。


 その瞬間、彼女は思った。


 この人は、声を荒げない。


 怒鳴らない。


 刃も向けない。


 それでも、きっと人を舞台から降ろせる。


 アリノリは、穏やかに微笑んだ。


「皆様、遠路ご足労いただき、感謝いたします」


 声は柔らかかった。


 けれど、その柔らかさの奥に、閉じた面箱の音がした。


「これより、白化面および不安定役面に関する臨時審査を始めます」


 イロハは、膝の上の手に力を込めた。


 仮面籍庁という場所そのものが、すでに審査を始めている。


 棚が。

 札が。

 座順が。

 沈黙が。


 人の顔を見る前に、その人がどの役に属するのかを問うている。


 そして今日、その問いはサヨの空白にまで届こうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ