第一節 ― 仮面籍庁
仮面籍庁は、天帝宮の東外郭にあった。
宮そのものの内ではない。
けれど、民の通りに開かれた役所でもない。
天帝宮の影が届き、帝都の声が遠のく、その境目に建てられている。
白影宮が、空白を抱えた静けさの宮なら。
陰陽寮が、暦と星を読む紙と墨の官庁なら。
仮面籍庁は、すべてを棚に納める場所だった。
門は黒漆。
柱は磨かれた白木。
軒には灰白の幕が下がり、その中央に閉じた面箱の紋が染め抜かれている。
美しい建物だった。
だが、イロハ=ナギはその門を見上げた瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。
ここは、人が助けを求めて来る場所ではない。
人が、どの箱に入るべきかを決められる場所だ。
門前には、仮面籍庁の下役たちが並んでいた。
灰白の官衣。
同じ幅の帯。
同じ高さで結ばれた髪。
胸には小さな役札。
誰も怒鳴らない。
誰も睨まない。
誰も刃を向けない。
ただ、定められた位置に立っている。
それだけで、イロハは足裏が冷たくなるような感覚を覚えた。
「行きます」
アヤメ=シラハが短く言った。
彼女は白絹を包んだ箱を抱えている。
白影宮から持ち出した、サヨ=ミカゲの空の面箱に敷かれていた白絹。
それを持つ手は、まるで皇女本人を守るように慎重だった。
セイラン=ナナツジは、陰陽寮の官衣を整え、報告書を懐に収めていた。
肩にはヒヨリがいる。
紙狐はいつもより体を小さく見せ、セイランの襟元に半ば隠れていた。
イロハは、自分の道具袋を握り直した。
中には仮札がある。
白札もある。
彫刻刀もある。
けれど、この門の前では、それらが急に頼りなく思えた。
ここでは、面を直す技術だけでは足りない。
門番が恭しく頭を下げる。
「白影宮近習、アヤメ=シラハ様。陰陽寮、セイラン=ナナツジ様。面師、イロハ=ナギ殿。お待ちしておりました」
名前は呼ばれた。
だが、イロハには、それが自分を呼んだ声には聞こえなかった。
役札を読み上げられたようだった。
白影宮近習。
陰陽寮。
面師。
人ではなく、所属と資格。
そうやって、この場所は人を迎える。
門をくぐると、内側はひどく静かだった。
足音が、磨かれた床に細く響く。
廊下の両側には、黒漆の棚が続いていた。棚の中には、木箱、面札、台帳、紐で括られた記録束が整然と収められている。
生面。
職面。
祈面。
武面。
官面。
棚の上には小さな札があり、それぞれの分類名が墨で記されていた。
イロハは思わず足を止めた。
生面の棚には、家ごとの面箱が並んでいる。
職面の棚には、商人、工人、香役、庭番、神楽師、番衆、記録官、面師など、職に属する面札が収められている。
祈面の棚には、神前に立つための資格が記されている。
武面の棚には、戦面と護衛面の使用許可。
官面の棚には、役所に属する者たちの着面資格。
整っている。
あまりにも整っている。
欠けた面も、割れた面も、泣きながら持ち込まれた子どもの生面も、ここにはない。
面師小路の裏工房には、いつも埃があった。
木粉が舞い、漆の匂いが染み、欠けた面が不揃いに並び、客は自分の言葉で困りごとを話した。
けれどここには、困りごとの声がない。
代わりにあるのは、分類だった。
人の名より先に、所属家。
許可された役。
着面資格。
祭礼参加資格。
未更新の有無。
保留歴。
停止歴。
誰がどこに立ってよいか。
誰が何を名乗ってよいか。
誰がどの面をつけてよいか。
それらが、美しく、間違いなく、黒漆の棚に納められている。
イロハの足元が、少し揺れたような気がした。
昔のことが、ふいに喉の奥へ戻ってくる。
名前を呼ばれても、面がない。
家を聞かれても、答える面がない。
どこの棚にも入れない。
どの台帳にも載らない。
役を持たない子ども。
制度上、存在が不安定な者。
かつての自分。
イロハは、腰の鍵に触れた。
《ナギノオモテ》。
師匠が与えてくれた、自分の面。
あの面がなければ、自分は今も、この棚のどこにも入れなかったのだろうか。
いや。
入れないまま、最初からいないものとして扱われたのだろうか。
「イロハ殿」
アヤメの声で、我に返った。
「顔色が悪いです」
「大丈夫です」
そう答えた声は、思ったより小さかった。
アヤメはそれ以上問わなかった。
ただ、イロハの半歩前に立った。
その位置取りだけで、少し息がしやすくなる。
セイランは棚を見ながら、低く言った。
「仮面籍庁の記録は、陰陽寮の暦記録より古いものもあります」
「そんなに古いんですか」
「はい。人がどの役に属するかを記す制度は、王朝の基礎ですから」
イロハは棚を見た。
王朝の基礎。
それはたしかに強い言葉だった。
けれど、基礎とは、人が立つためのものではないのか。
人を押さえつけるためのものなのか。
廊下を進むうち、棚の種類が変わった。
前方の区画には、白札と黒札が並んでいた。
白札には「保留」。
黒札には「停止」。
黒縁の白札には「封役」。
灰札には「再審」。
イロハは思わず立ち止まる。
札の一枚一枚に、誰かの役が記されていた。
奉納舞参加保留。
市役職面更新停止。
武面使用一時差止。
祈面資格再審。
家面継承保留。
その札の向こうに、顔が見えた気がした。
舞台に立てなくなった誰か。
店を継げなくなった誰か。
神前に出られなくなった誰か。
家に戻れなくなった誰か。
でも、ここには泣き声がない。
札だけがある。
「ここでは」
イロハは呟いた。
「人じゃなくて、役が並んでいるんですね」
案内の下役が、振り返った。
表情は変わらない。
「人を正しく扱うために、役を記録しております」
「正しく」
「はい」
下役は丁寧に答えた。
「正しく記録されぬ役は、本人にも周囲にも混乱を生じさせます。仮面籍庁は、その混乱を防ぐための役所です」
言葉は正しい。
だからこそ、息苦しかった。
イロハは、何も言い返せなかった。
やがて一行は、臨時審査所へ通された。
広い部屋だった。
中央に低い卓。
その奥に上座。
左右に控えの座。
壁際には面札棚。
正面の奥には、白い布で覆われた面箱がひとつ置かれている。
座る位置は、すでに決められていた。
上座は空いている。
その正面に、審査対象の面を置くための台。
左手には、白影宮関係者の座。
アヤメの名札がある。
右手には、陰陽寮記録者の座。
セイランの名札がある。
少し下がった場所に、面師の座。
そこに、イロハ=ナギと書かれた札が置かれていた。
その位置を見ただけで、イロハはこの場の形を理解した。
アヤメは白影宮の使者。
セイランは陰陽寮の記録者。
イロハは、面を診た職人。
つまり、発言は許されるかもしれない。
だが、決める側ではない。
座順が、すでにそう告げている。
怒鳴られるより、ずっと苦しかった。
アヤメが名札を一瞥し、ほんの少し眉を動かした。
「イロハ殿をその位置に?」
下役は丁寧に頭を下げる。
「面師資格に基づく席次です」
「白影宮の依頼を受けている方です」
「承知しております。ですが、宮中面師ではございませんので」
アヤメの目が冷える。
「……なるほど」
その一言だけで、部屋の温度が下がったように感じた。
セイランは何も言わず、自分の座へ向かった。
ただし、座る前にイロハを見た。
「記録します」
短い言葉だった。
けれど、その意味はわかった。
この座順も。
この扱いも。
この場の空気も。
彼は記録するつもりなのだ。
イロハは小さく頷いた。
自分の座へ進む。
そこに座った瞬間、背中に棚の気配を感じた。
黒漆の棚。
白札と黒札。
保留、停止、封役、再審。
この部屋では、沈黙さえも役を持っている。
誰が話すべきか。
誰が黙るべきか。
誰の言葉が記録されるか。
誰の言葉が「感想」として退けられるか。
すべて、見えない面によって決められている。
イロハは、膝の上で手を握った。
面は、顔を隠すものではない。
この国では、面こそが顔である。
ならば、ここは顔を与える場所なのか。
それとも、顔を取り上げる場所なのか。
しばらくして、部屋の奥の襖が開いた。
灰白の官衣を着た役人たちが、静かに入ってくる。
最後に現れた男を見た瞬間、室内の空気が整った。
整いすぎて、息が止まりそうになる。
黒に銀糸の混じる髪。
白金と墨黒の宮廷装束。
手には黒檀の扇。
穏やかな目元。
だが、その視線は人の顔ではなく、置かれた札と座順を見ている。
アリノリ=シジョウ。
典役卿。
仮面籍庁において、役を定める者。
彼は上座へ進み、静かに腰を下ろした。
誰も命じられていないのに、部屋の者たちが一斉に頭を下げる。
イロハも遅れて頭を下げた。
その瞬間、彼女は思った。
この人は、声を荒げない。
怒鳴らない。
刃も向けない。
それでも、きっと人を舞台から降ろせる。
アリノリは、穏やかに微笑んだ。
「皆様、遠路ご足労いただき、感謝いたします」
声は柔らかかった。
けれど、その柔らかさの奥に、閉じた面箱の音がした。
「これより、白化面および不安定役面に関する臨時審査を始めます」
イロハは、膝の上の手に力を込めた。
仮面籍庁という場所そのものが、すでに審査を始めている。
棚が。
札が。
座順が。
沈黙が。
人の顔を見る前に、その人がどの役に属するのかを問うている。
そして今日、その問いはサヨの空白にまで届こうとしていた。




