序節 ― 灰白の封書
裁きもまた、舞である。
誰が上座に立ち、誰が下座に控え、誰が名を呼ばれ、誰が沈黙させられるのか。
その順番ひとつで、人は役を与えられもすれば、舞台から降ろされもする。
ならば問おう。
舞台に上がることさえ許されぬ者を、誰が裁けるというのか。
星見楼の空気は、紙よりも白く冷えていた。
仮面籍庁の使者が置いていった封書は、長机の上にある。
灰白の封。
黒い紐。
閉じた面箱を象った封蝋。
それは小さな紙束にすぎない。
けれど、イロハ=ナギには、その封書が面箱よりも重く見えた。
白化した神楽面。
白化した暁刃戦面。
星読式面。
白影宮の空の面箱と、そこに敷かれていた白絹。
面師イロハ=ナギの宮中出入り資格。
そして、サヨ=ミカゲの未登録役名。
封書に記された対象は、その六つだった。
ただし、そこに「ユラが何を失ったか」は書かれていない。
「ハルマサがなぜ刀を抜けなくなったか」も書かれていない。
「サヨが何を覚えているか」も、「イロハが何を見たか」も、「セイランが何を記録したか」も、そこにはなかった。
記されていたのは、ただひとつ。
白化面および不安定役面の再検査について。
それだけだった。
イロハは、胸の奥に硬いものが沈むのを感じた。
これは診断ではない。
ユラの舞を取り戻すための場ではない。
ハルマサがもう一度刀を抜くための場でもない。
サヨの面を作るための相談でもない。
面の保護ですらない。
これは、役を持つ資格があるかどうかを裁く場だ。
「白化面および不安定役面、ですか」
アヤメ=シラハの声は低かった。
彼女は封書を一度読んだきり、表情を変えていない。だが、その手は腰の刀に近い位置で止まっていた。
怒っている。
イロハにはわかった。
白影宮の近習として。
サヨを守る者として。
そして、第2話の夜に自分自身も役を揺らされた者として。
この封書の言葉が、どれほど冷たいものかを、アヤメは理解している。
セイラン=ナナツジは、封書の文面をもう一度読み返していた。
彼の机には、反転文字を封じた報告書がある。
未在を定めよ。
定まらぬ役は、封じよ。
あの二行は、白符の下に隠されていた。
けれど、隠したからといって消えたわけではない。
そして今、仮面籍庁の封書は、ほとんど同じ意味を別の言葉で告げていた。
「臨時審査の日時は、本日昼刻」
セイランが言った。
「早すぎます」
「準備されていたのでしょう」
アヤメが答える。
「仮面籍庁は、陰陽寮の報告を受けて動いたのではありません。おそらく、すでにこちらを見ていた」
ヒヨリが、セイランの袖の中で小さく鳴いた。
紙の擦れるような声だった。
イロハは、灰白の封書を見つめた。
月は、白く噛む。
けれど役所は、灰色の紙で閉じる。
ユラの舞面は、まだ死んでいない。
ハルマサの戦面も、まだ呼び戻せる。
セイランの星読式面にも、青い星点は残っている。
サヨの面は、失われたのではなく、まだ作られていない。
それなのに、仮面籍庁はそれらを同じ箱に入れようとしている。
不安定。
その一語で。
「行くしかありません」
アヤメは言った。
イロハは顔を上げた。
「白影宮へ戻らなくていいんですか」
「サヨ様には、すでに使いを出しました。ですが、おそらく仮面籍庁はサヨ様本人をすぐには呼びません」
「どうしてですか」
「本人を呼べば、皇女を裁く場になります」
アヤメの目が冷える。
「彼らはまず、面を裁きます。白絹を裁き、空の面箱を裁き、周囲の者を裁ち、最後にサヨ様を“役名保留者”として扱う」
役名保留者。
その言葉だけで、イロハの胸が痛くなった。
サヨは、人だ。
静かに空の面箱を見つめ、失われた役を覚えている人だ。
それを、保留者という枠に入れる。
まだない面を、存在しない役として扱う。
そんなことを、許していいはずがない。
「私も行きます」
イロハは言った。
セイランが顔を上げる。
「あなたは審査対象でもあります」
「だから行きます」
「仮面籍庁は、あなたの《ナギノオモテ》にも触れる可能性があります」
その名を聞いた瞬間、イロハの手が腰の鍵に触れた。
《ナギノオモテ》。
師匠が、自分に与えた面。
サヨのものに似ていると言われた面。
まだ開けてはいけないと告げられた面。
それも、仮面籍庁に見られるかもしれない。
記録されるかもしれない。
未認定面として、封じられるかもしれない。
怖い。
イロハは、そう思った。
だが、それ以上に嫌だった。
自分の面を勝手に定められることが。
「それでも行きます」
イロハは言った。
「ユラさんの面も、ハルマサさんの面も、サヨ様の白絹も、私が診ました。診た者が、何も言わずに外されるわけにはいきません」
アヤメがわずかに頷く。
「では、共に」
セイランはしばらく黙っていた。
彼は陰陽寮の人間だ。
仮面籍庁と敵対する立場ではない。
制度の内側にいる者として、臨時審査に出るならば、慎重でなければならない。
だが、彼は机の上の報告書を見た。
反転した文字。
鏡水に映った白い半面。
ヒヨリが床に書いた、読む者という言葉。
やがて、セイランは封書を畳んだ。
「私も出席します」
アヤメが見る。
「陰陽寮の代表として?」
「形式上は」
「では、本心では」
セイランは、少しだけ目を伏せた。
「記録者として」
ヒヨリが袖の中から顔を出し、短く尾を振った。
その尾の先が、机の上に小さな円を描く。
満月ではない。
まだ満ちきらない、未成の円。
イロハは、それを見て小さく息を吸った。
未成の役。
まだない面。
定められる前に、守らなければならないもの。
星見楼の高窓の外で、朝の気配が薄く差し始めていた。
夜は終わる。
けれど、月の事件が終わるわけではない。
むしろ、ここから始まるのだ。
月ではなく、人が役を決めに来る。
イロハは道具袋を肩にかけた。
白札も、仮札も、彫刻刀も入っている。
けれど、今日向かう場所では、それだけでは足りない。
相手は欠けた面ではない。
相手は、面を欠けていると決める者たちだ。
アヤメは白絹を丁寧に包み直した。
セイランは報告書を二つに分けた。
ひとつは、陰陽寮へ提出する正式な記録。
もうひとつは、白影宮へ渡すための写し。
反転文字の記録は、さらに別の白符に封じられ、彼の懐に収められた。
「行きましょう」
アヤメが言った。
三人が星見楼を出るとき、机の上の灰白の封書が、朝の光を受けて鈍く光った。
その色は、月の白とは違っていた。
もっと乾いている。
もっと冷たい。
もっと人の手に馴染んだ白。
イロハは振り返らなかった。
仮面籍庁。
役を定める場所。
そこに、まだない役を持つ者たちの名が呼ばれようとしていた。




