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終節 ― 反転する報告書

 星見楼の夜は、深くなっていた。


 高窓の外には、まだ半月がある。


 暦どおりの月。

 欠けたままの月。

 陰陽寮の記録に従うならば、何ひとつおかしくない夜。


 けれど、もう誰もその月を信じきることはできなかった。


 水に映れば満ちる。

 面の裏に入れば白く噛む。

 方位盤の内側では、暦を裏切る。

 記録紙の上では、文字を反転させる。


 空の月は正しい。


 だが、正しい月だけが月ではない。


 セイラン=ナナツジは、長机の前に座っていた。


 彼の前には、新しい報告書が広げられている。

 先ほど反転した記録紙は、すでに別の白符で押さえられ、机の端に置かれていた。


 触れればまた何かが起こるかもしれない。


 けれど、捨てることもできない。


 それもまた、記録だからだ。


 ヒヨリは、セイランの肩ではなく、机の隅に座っていた。さっきまでなら命令を待つ式神の位置だった。だが今は違う。紙狐は、セイランが筆を走らせるたび、文字を見守るように小さな目を動かしていた。


 イロハは、少し離れた場所で白絹を見ていた。


 白影宮の空の面箱に敷かれていた布。


 今は静かだ。


 月も浮かんでいない。

 面の輪郭も消えている。

 ただの白い絹のように見える。


 それなのに、その白さが怖い。


 白とは、何もない色ではないのだと、イロハは知り始めていた。


 喰われた痕も白い。

 未完成の面も白い。

 隠された役も、まだ名を与えられる前は白く見える。


 アヤメは、白絹の近くに立っている。


 彼女の立ち位置は、最初から変わらない。


 サヨに関わるものと、月の異常との間に身を置く。


 それが今のアヤメの役だった。


 セイランは、ゆっくりと筆を走らせた。


 報告書の内容は、慎重だった。


 暦上の月齢と異なる満月反応。

 式面内側における白化。

 方位盤における皇女関連物の未定義反応。

 ただし、未定義と未作成は区別を要す。

 鏡水における不明反射。

 白面状の観測異常。

 月そのものを原因と断定せず、反射媒介としての性質を疑うこと。

 役を喰う現象は、技術の喪失ではなく、役へ入る入口の欠落として現れること。


 彼は、ひとつひとつ言葉を選んでいた。


 強すぎる言葉を書けば、上層に握り潰される。

 弱すぎる言葉を書けば、仮面籍庁に都合よく使われる。

 曖昧に書けば、サヨの空白が「危険」として処理される。


 記録とは、ただ事実を並べるものではないのだと、イロハは初めて実感した。


 書き方ひとつで、人は守られる。

 書き方ひとつで、人は封じられる。


 セイランは筆を止めずに言った。


「この報告は、陰陽寮の正式記録として上げます」


 アヤメが問い返す。


「上に渡せば、仮面籍庁へ流れる可能性があります」


「あります」


「ならば」


「ですが、上げなければ、陰陽寮は何も知らなかったことになります」


 セイランは、顔を上げなかった。


 声だけが静かに続く。


「知らなかったことにすれば、白化面は個別の事故として処理される。神楽師の舞面は使用停止。戦面は封役。星読式面は不具合として交換。白影宮の白絹は危険物として封じられる」


 イロハの胸が冷えた。


 それは、ありそうな未来だった。


 そして、あまりにも役所らしい未来だった。


 壊れたものは取り上げる。

 不安定なものは封じる。

 未定義なものは定める。

 定まらないものは、存在しなかったように扱う。


「だから、書きます」


 セイランは言った。


「ただし、白影宮にも写しを渡します。陰陽寮内の写しとは別に」


 アヤメはわずかに目を細めた。


「それは、規則違反ですね」


「はい」


「先ほどより、答えが早くなりました」


「事実ですから」


 ヒヨリが、机の端で尾を小さく振った。


 イロハは、少しだけ息を吐いた。


 セイランは、完全に味方になったわけではない。


 彼は今も陰陽寮の人間だ。

 制度の内側にいる。

 王朝の暦と方位を守る役を持っている。


 けれど、その制度の中で、記録を隠さず残そうとしている。


 それは、彼なりの抵抗なのだろう。


 セイランは最後の一文を書き始めた。


 ――本件は、月光そのものによる単純な怪異ではなく、仮面籍・王朝儀礼・皇族面の未成状態に関わる、役反映現象の可能性あり。


 筆が、そこで止まった。


 墨が紙に落ちたまま、じわりと滲む。


 イロハは、嫌な気配に顔を上げた。


「セイランさん?」


 セイランは動かない。


 筆を持つ手が、固まっている。


 ヒヨリが机の上で身を低くした。


 アヤメが白絹の前へ一歩出る。


 報告書の最後の一文。


 その下に、墨が勝手に伸びた。


 セイランは筆を動かしていない。


 それなのに、文字が生まれていく。


 左右が反転した文字だった。


 鏡に映さなければ読めないはずの文字。


 だが、イロハには読めてしまった。


 未在を定めよ。

 定まらぬ役は、封じよ。


 星見楼の空気が、凍った。


 セイランの顔から血の気が引く。


「私は……書いていません」


 掠れた声だった。


 だが、その筆跡はセイランのものだった。


 線の癖。

 払いの角度。

 墨の置き方。


 全部、彼の字だ。


 けれど、彼の意思ではない。


 イロハは、反転した二行を見つめた。


 未在を定めよ。

 定まらぬ役は、封じよ。


 それは月の言葉なのか。


 鏡ノ客の言葉なのか。


 それとも、もっと別のもの――この国の制度そのものが、紙の裏側から吐き出した命令なのか。


 アヤメが低く言った。


「破棄してください」


 セイランは動かなかった。


「セイラン殿」


「破棄できません」


 彼は、青ざめた顔で答えた。


「これも、現象です」


「その紙が仮面籍庁へ渡れば」


「渡しません」


 セイランの声が、初めて強くなった。


「この反転部分は、陰陽寮への正式報告からは外します」


「改竄ですか」


「違います」


 セイランは、震える手で白符を取り、その反転文字の上へ重ねた。


「観測異常として別紙に分けます。現象そのものは隠しません。ただし、命令文として利用されない形で記録する」


 ヒヨリが、尾で机を軽く叩いた。


 肯定のようだった。


 イロハは、反転文字から目を離せなかった。


 未在を定めよ。


 サヨのことだ。


 定まらぬ役は、封じよ。


 ハルマサの戦面も、ユラの神楽面も、セイランの星読式面も、そして自分の《ナギノオモテ》も。


 すべて、その言葉の中に入ってしまう。


 月より恐ろしいのは、白い歯ではないのかもしれない。


 恐ろしいのは、喰われた痕を見て「ならば定めよう」と言う人間の手だ。


 その時、星見楼の外で足音がした。


 複数の足音。


 規則正しく、乱れのない歩き方。


 陰陽寮の者ではない。


 アヤメがすぐに気づく。


 彼女の手が刀へ触れた。


 扉の向こうで、低い声がする。


「仮面籍庁より、使者にございます」


 セイランの顔色が、さらに悪くなった。


 イロハの喉が詰まる。


 早すぎる。


 まるで、報告書が書き終わるのを待っていたかのようだった。


 扉が開く。


 入ってきたのは、灰白の官衣を着た男だった。


 面はつけていない。


 だが、胸元には仮面籍庁の札が下がっている。四角い札の中央に、閉じた面箱の紋。役を収め、役を定める役所の印。


 男は、室内を一瞥した。


 イロハ。

 アヤメ。

 セイラン。

 白絹。

 星読式面。

 押さえられた反転文字。


 見たはずなのに、何も見なかったような顔をした。


「夜分に失礼いたします」


 声は丁寧だった。


 丁寧すぎるほどに。


「仮面籍庁より、陰陽寮および白影宮関係者へ通達をお持ちしました」


 アヤメが前へ出る。


「白影宮関係者とは、どなたを指しますか」


「サヨ=ミカゲ様に関わる面および役面の件にございます」


 アヤメの目が冷えた。


「皇女様の件を、役面の件と呼ぶのですか」


 使者は、表情を変えなかった。


「庁内分類では、そのように扱われます」


 イロハの胸の奥が、かっと熱くなった。


 庁内分類。


 その言葉ひとつで、サヨは人ではなく案件にされる。


 空の面箱も、白絹も、まだない役も、分類の中に押し込められる。


 使者は、封書を差し出した。


 灰白の封。

 黒い紐。

 封蝋には、閉じた面箱の印。


 セイランが受け取る。


 手つきは慎重だった。


 開くと、中には短い通達があった。


 白化面および不安定役面の再検査について。

 定役面コトサダメによる臨時審査を行う。


 それだけだった。


 だが、その短さがかえって冷たい。


 ユラの神楽面。

 ハルマサの戦面。

 セイランの式面。

 サヨの白絹。

 イロハの《ナギノオモテ》。


 不安定役面。


 その一語で、すべてを並べられてしまう。


 アヤメが低く言った。


「仮面籍庁が動きました」


 セイランは、通達を持ったまま沈黙している。


 ヒヨリが、彼の袖を小さく引いた。


 イロハは、机の上の星読式面ナナツジノホシを見た。


 表は美しいままだ。


 白木に淡青の星図。

 七つの星点。

 交差する辻文様。

 青銀の星糸。


 けれど、内側には白い月痕が残っている。


 星を読む入口を塞いだ、丸い噛み跡。


 あれは月の傷だ。


 だが、今この場に届いた封書は違う。


 月ではない。


 人間の手で書かれたものだ。


 人間の役所が、人間の制度で、人間の役を定めに来た。


 イロハは、静かに言った。


「月より先に、人が役を決めに来るんですね」


 誰もすぐには答えなかった。


 星見楼の高窓の外で、半月が雲に隠れた。


 室内には、紙と墨と星砂の匂いだけが残る。


 だが、イロハにはもう、月の白さよりも、封書の灰白のほうが恐ろしかった。


 未在を定めよ。

 定まらぬ役は、封じよ。


 反転した報告書の文字と、仮面籍庁の通達が、同じ意味を持ち始めている。


 サヨの面は、まだ作られていない。


 だが、その前に。


 この国は、彼女の役を決めようとしている。


 第四話 ― 陰陽寮の月読み 了

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