第八節 ― 月は装置か
星見楼へ戻る道のりは、行きよりも長く感じられた。
鏡水の庭を離れても、背中にまだ水の気配が貼りついている。
水盆の中に浮かんだ、暦にない満月。
その奥から現れた白い半面。
目穴もないのに、こちらを見ていた客。
鏡ノ客。
アヤメがそう呼んだ存在は、斬りかかってくるわけでも、助けの手を差し伸べるわけでもなかった。
ただ映した。
ユラの止まった舞。
カンナの香炉の前の沈黙。
ハルマサの抜けない刀。
そして、空の面箱を見つめるサヨ。
星見楼に戻ると、吊るされた式札がまだ微かに揺れていた。
さらさら。
さらさら。
誰かが紙の裏側から指で撫でているような音だった。
セイラン=ナナツジは、長机の前に立つと、まず深く息を吐いた。
彼の顔色は悪い。
けれど、目は逃げていなかった。
彼は、反転した記録紙を机の中央に置いた。鏡水の庭で書いたはずの文字は、まだ左右逆のままだった。
半月の夜、鏡水に満月反応――
その文は、こちら側からは読みにくい。
けれど、鏡を通せば読める。
誰かが反対側から読むために、そう書かれたように。
セイランは、しばらくその文字を見つめていた。
それから、新しい記録紙を取り出す。
今度はすぐには筆を下ろさなかった。
ヒヨリが机の端に座り、セイランを見上げる。
命じる者ではない。
読む者。
その言葉を、セイラン自身も忘れていないのだろう。
彼は筆を握ったまま、まず口に出した。
「月は原因ではなく、媒介かもしれません」
イロハは顔を上げた。
「媒介?」
「はい」
セイランは、机上に並んだ記録を指で示す。
ユラの舞面。
カンナの香役。
ハルマサの戦面。
自分の星読式面。
サヨの白絹。
鏡水の反応。
「これまで私たちは、月が役を喰っていると考えていました。少なくとも、そう見える現象が起きていた。月光に触れ、鏡水や刃や面の内側に満月が現れ、役の入口が白化する」
彼は、少しだけ言葉を切った。
「しかし、鏡ノ客は言いました。月が喰っているのではない、と」
アヤメの目が細くなる。
「あれを信じるのですか」
「信じるとは言っていません」
セイランはすぐに答えた。
「ただ、仮説として採用する価値はあります」
「仮説」
「はい。月が原因ではなく、結果を映す媒介である可能性です」
イロハは、机の上の白絹を見た。
月が喰うのではない。
喰われた役が、月に映っている。
だが、そうなると疑問が残る。
「じゃあ、役を喰っているのは何なんですか」
その問いに、セイランはすぐには答えなかった。
答えを持っていない顔だった。
「まだ不明です」
彼は正直に言った。
「ですが、少なくとも二つの可能性があります」
筆先が紙へ落ちる。
一、役を奪う別の仕組みがあり、月はその結果を映している。
二、王朝儀礼のどこかに、役を月へ移す古い式が残っている。
イロハは、その二行を見つめた。
「役を月へ移す……?」
「はい」
セイランは、方位盤の中心を指した。
「仮面籍は、人の役を登録し、社会へ接続する制度です。皇族面は、王朝の中心に立つ者の役を示す。天帝宮は、その役の上位儀礼を管理する。白影宮は、皇女の居所でありながら、サヨ様の面を持たない」
アヤメの表情が硬くなる。
だが、セイランは続けた。
「これらが偶然とは思えません」
「王朝儀礼……」
イロハは低く繰り返した。
「仮面籍、皇族面、天帝宮、白影宮。どこかに、月を使って役を処理する古い式が残っている可能性があります」
「処理?」
アヤメの声が冷えた。
「人の役を、物のように言わないでください」
セイランは目を伏せた。
「陰陽寮の術語です。不快にさせたなら訂正します」
「術語であれば許されるわけではありません」
「……承知しました」
セイランは、記録紙に小さく追記した。
役の処理、という表現は対象者の人格を損なう恐れあり。
以後、「役の移送」「役の封置」「役の反映」と区分する。
イロハは、その追記を見ていた。
セイランは、やはり制度の人間だ。
けれど、制度の言葉を絶対だとは思っていない。
少なくとも今は、言葉が人を傷つけることを記録に入れようとしている。
アヤメも、それを見て何も言わなかった。
星見楼の中央で、方位盤の歯車がゆっくり回る。
かちり。
かちり。
その音が、まるで王朝そのものの歯車のように聞こえた。
これまでの事件は、どれも個人の悲劇だった。
ユラは舞えなくなった。
カンナは香を焚けなくなった。
ハルマサは刀を抜けなくなった。
セイランは式神に命じる前に読むことを忘れかけた。
けれど、それだけではない。
面。
役。
仮面籍。
方位。
暦。
皇女の未在面。
すべてが、同じ網の目の上に乗っている。
もしその網そのものに、月を使って役を映す仕組みがあるのなら。
名を喰う月は、怪異ではない。
この国の制度の奥に埋め込まれた、古い装置かもしれない。
イロハは、胸が重くなるのを感じた。
「じゃあ、面を直すだけじゃ足りない」
自然と、その言葉が口から出た。
セイランの筆が止まる。
アヤメが、静かに答えた。
「制度の中に原因があるなら、制度が敵になる」
星見楼が沈黙した。
その言葉は重かった。
制度が敵になる。
それは、役所の誰かが悪いというだけの話ではない。
仮面籍。
宮中儀礼。
陰陽寮の暦。
白影宮の空の面箱。
武家の月試し。
神楽の奉納舞。
この国で人が役を持ち、面をつけ、どこかに立つための仕組み。
その全部が、月喰いとつながっているかもしれない。
セイランは、黙っていた。
彼は制度側の人間だ。
陰陽寮の官衣を着ている。
暦を読み、方位を定め、儀式の時刻を記録する。
その手は、王朝の仕組みを支えるために動いてきた。
その彼の前で、アヤメは「制度が敵になる」と言った。
反発してもおかしくなかった。
だが、セイランは反発しなかった。
ただ、机の上の記録を見つめていた。
イロハには、その沈黙がわかった気がした。
彼はまだ、こちら側に来たわけではない。
仮面籍庁や天帝宮を疑うと決めたわけでもない。
陰陽寮の記録を捨てるつもりもない。
王朝の制度を敵と断じる覚悟など、今の時点で持てるはずがない。
けれど、疑いは生まれた。
それは小さな罅だった。
美しく整った暦の紙に、細い裂け目が入ったような。
「私は」
セイランは、ようやく口を開いた。
「陰陽寮の人間です」
アヤメは黙っている。
「私の役は、暦と方位を乱さぬことです。祭礼が正しく行われるように記録し、宮中儀礼に齟齬が出ないよう整えることです」
彼は、自分に言い聞かせるように言った。
「ですから、制度そのものを敵と呼ぶことはできません」
「でしょうね」
アヤメの声は硬い。
けれど、責めているだけではなかった。
セイランは続ける。
「ですが」
筆先が、紙の上に落ちる。
「制度の中に、異常を生む古式が残っている可能性は記録します」
イロハは顔を上げた。
「それは、大丈夫なんですか」
「大丈夫ではありません」
セイランは即答した。
あまりにも正直だった。
「場合によっては、私の上司に握り潰されます。仮面籍庁に渡れば、都合よく解釈される可能性もあります。天帝宮に触れる記述は、陰陽寮内でも慎重に扱われます」
「じゃあ」
「だから、書き方を考えます」
セイランは、反転した記録紙を横に置いた。
そして、新しい紙にこう記した。
月喰い現象、王朝儀礼系統との関連疑い。
ただし、月そのものを原因と断定せず。
反射媒介を通じ、役の欠落または隠匿が可視化される現象として暫定整理。
仮面籍未確定者、未成面所有者、役入口に揺らぎを持つ者への影響大。
未成面所有者。
その言葉に、イロハの指がまた鍵へ触れた。
自分の《ナギノオモテ》も、きっとそこに含まれる。
セイランは、それに気づいたようだった。
だが、何も言わない。
イロハも、聞かなかった。
今ここで《ナギノオモテ》を開けるわけにはいかない。
師匠の言葉が、頭の奥で響く。
今日は開けるな。
いや。
あれは今日だけの話だったのか。
それとも、月が近い場所では開けるな、という意味だったのか。
イロハには、まだわからない。
ヒヨリが、机の上へ飛び乗った。
紙狐は、記録紙の端に尾で小さな丸を描いた。
半月ではなく、満月でもない。
丸になりかけた輪郭。
サヨの白絹に浮かんだ、未完成の月に似ている。
「未成の月?」
イロハが呟く。
セイランはその図を見た。
「満ちる前の月、という意味でしょうか」
ヒヨリは首を傾げる。
否定ではない。
だが、それだけではない、というように。
アヤメが言った。
「サヨ様の面も、未成です」
「はい」
イロハは頷く。
「でも、月は満月になろうとしていました。白絹の上で」
「未成の役を、満月として固定しようとしている?」
セイランが呟く。
その瞬間、彼の顔色が変わった。
イロハも、その意味に気づいた。
月は、役を喰うだけではない。
未成のものを、満月として固定する。
まだ選ばれていない役を、すでに完了した形として閉じる。
それがもし、王朝儀礼の古い式なら。
サヨの面は、作られる前に「ないもの」として定められてしまうかもしれない。
未完成のものを、完成していないまま封じる。
それは、役を喰うことと同じくらい恐ろしい。
「月は」
イロハは、ゆっくり言った。
「満ちるものを待ってくれないんですね」
アヤメが目を伏せる。
セイランは、深く頷いた。
「未成のものを、満月として記録してしまう。あるいは、満月の形で封じてしまう」
彼は筆を走らせる。
未成役の満月化。
成る前の役を、既成・完了・封置として扱う危険あり。
書かれた文字が、かすかに揺れた。
反転はしない。
けれど、墨の縁が白くにじんだ。
アヤメがそれに気づく。
「今の記述に、月が反応しています」
「そのようです」
セイランは筆を止めない。
怖くないはずがない。
だが、彼は書ききった。
これは仮説である。
ただし、サヨ=ミカゲ様の未在面、および白影宮の空の面箱との関連が疑われる。
そこまで書くと、墨の白いにじみは止まった。
イロハは、喉の奥が乾くのを感じた。
サヨの面を作る。
それは、ただ一人の皇女を助けるための仕事だと思っていた。
けれど違う。
サヨの面は、この国で「まだない役」が本当に存在できるのかどうかを決めるものになりつつある。
もしサヨの未在面が封じられれば、月は勝つ。
まだ選ばれていない役を、未定義として処理する仕組みが、この国を覆ってしまう。
その時、灰面長屋の子どもたちも。
役を失った神楽師も。
戦面を喰われた武士も。
《ナギノオモテ》を持つ自分も。
すべて、定められるか、封じられる。
イロハは、道具袋を握った。
「私は、面師です」
ぽつりと言った。
アヤメとセイランが、こちらを見る。
「面を直すことはできます。少しなら、役を仮置きすることも。でも、制度の中に原因があるなら、私だけじゃ無理です」
それは悔しかった。
面のことなら、自分がどうにかしたかった。
壊れた面を直し、欠けた役を繋ぎ、喰われかけた入口へ仮札を置く。
それが自分の仕事だと思っていた。
けれど、相手が制度なら。
相手が王朝儀礼そのものなら。
ひとつの面を直しても、別の場所でまた喰われる。
アヤメが言った。
「だから、白影宮が動きます」
静かな声だった。
「サヨ様を守るために。まだない役を、勝手に封じさせないために」
セイランは、その言葉を聞いていた。
しばらく沈黙してから、彼は低く言う。
「陰陽寮として、白影宮へ公式に協力することは、今は約束できません」
アヤメの目が鋭くなる。
「でしょうね」
「ですが、私個人の記録として、月喰い現象の条件と危険性はまとめます」
「それは協力ですか」
「記録です」
セイランはそう答えた。
けれど、今度の「記録です」は、ただの逃げには聞こえなかった。
制度の内側にいる彼が、制度に呑まれないために使える唯一の言葉。
それが記録なのだ。
ヒヨリが、机の上で小さく鳴いた。
紙の擦れるような声。
セイランは、初めて少しだけその頭を撫でた。
「それと」
彼は言った。
「もし陰陽寮の上層がこの記録を握り潰した場合、別の写しを残します」
アヤメが少し目を見開く。
「それは、規則違反では」
「はい」
セイランは即答した。
「軽いものではありません」
「なら、なぜ」
セイランは、反転した記録紙を見た。
「自分の書いた字が読めなくなる恐怖を、私は初めて知りました」
彼の声は静かだった。
「記録が読めなくなる。自分が何を書いたのか、誰のために書いたのかもわからなくなる。それは、私にとって役を喰われることに近い」
イロハは黙って聞いた。
「だから、読める形で残します。私が陰陽寮の人間である限り、それが私の役です」
アヤメは、しばらくセイランを見ていた。
そして、わずかに頭を下げた。
「その記録、白影宮にも写しをください」
「正式な手続きでは」
「正式な手続きでは間に合いません」
セイランは苦い顔をした。
「……検討します」
「今のは、渡すという意味で受け取ります」
「白影宮の方は強引ですね」
「守る役ですので」
その言葉に、セイランは少しだけ黙り、ヒヨリを見た。
読む者。
記録する者。
守る者。
直す者。
それぞれの役が、少しずつ見え始めている。
だが、それを月が見逃すとは思えなかった。
星見楼の高窓の外には、まだ半月があった。
暦どおりの月。
けれど、もう誰もそれをただの半月とは見ていない。
イロハは、白絹と《ナナツジノホシ》を見比べた。
月は装置かもしれない。
喰う口ではなく、映す鏡。
あるいは、役を封じる古い器。
ならば、次に来るのは月そのものではない。
月に映った記録を利用する者。
役を定め、未定義を封じ、制度の名で人の顔を決める者たち。
イロハは、まだ見ぬ仮面籍庁の影を感じた。
月の白さよりも、ずっと冷たいものが、すぐ近くまで来ている。




