第七節 ― 鏡ノ客
水盆の満月が、白く膨らんだ。
空の半月は、庭の上で変わらず欠けている。
けれど鏡水の中だけは、夜が別の暦を持っていた。
白い円の奥に、影が浮かぶ。
はじめは、月の染みかと思った。
次に、面だと思った。
けれど、それはただの面ではなかった。
白漆の半面。
顔の片側だけを覆うような、なめらかな白。
鼻筋は細く、頬の線は人に似ている。
けれど、その輪郭の端に、どこか獣の気配があった。
目穴はない。
それなのに、見ている。
水面の向こう側から、こちらを覗いている。
イロハは動けなかった。
白い半面の表に、自分の顔が薄く映っていた。
面師小路の裏工房で木粉にまみれていた自分。
白影宮の空の面箱を覗き込んだ自分。
《ナギノオモテ》の鍵を握ったまま、開けることを恐れている自分。
その全部が、白漆の面の上に重なっているように見えた。
アヤメが刀に手をかける。
刃はまだ抜かれていない。
しかし、いつでも動ける距離だった。
セイランは式札を構えた。
青符ではない。
白い符だ。
封じるためではなく、観測を切り離すための札なのだろう。
だが、その指先はわずかに震えている。
ヒヨリは、セイランの袖の中へ半分隠れた。紙の尾だけが外に出て、細かく震えている。
白い半面の客は、水面の中で傾いた。
こちらへ近づいているのか、ただ月の揺れに合わせているのかはわからない。
声がした。
「月が喰っているのではありません」
誰の声ともつかなかった。
男とも、女とも、老人とも、子どもともつかない。
遠い水面を通った声。
鏡の裏側で、紙に墨が染みるような声。
「あなたがたが、喰われた役を月に映しているのです」
イロハは息を呑んだ。
月が喰っているのではない。
その言葉が、胸の奥へ冷たく沈む。
では、月は何なのか。
噛み跡は確かにあった。
ユラの舞面にも、ハルマサの戦面にも、《ナナツジノホシ》にも。
白い歯のような光が、役の入口へ食い込んでいた。
それでも、この白い客は言う。
月そのものが喰っているのではない、と。
「あなたは誰ですか」
イロハは問いかけた。
声は少し掠れていた。
白い半面は答えなかった。
かわりに、その面の表に、別の影が映った。
朱塗りの舞台。
鈴の音が止まる。
袖が空中で途切れる。
神楽師ユラ=シラビョウが、舞い出す一歩手前で立ち尽くしている。
舞を忘れたのではない。
神を迎える沈黙を失った少女。
次に映ったのは、白影宮の廊だった。
香炉の前で、カンナ=ツキシロが手を止めている。
香木の名は知っている。手順も覚えている。けれど、なぜ今夜その香を焚くのかがわからない。
宮の夜を閉じる役を、月に映されてしまった女房。
白面の表が揺れる。
今度は、アカツキ家の中庭だった。
ハルマサ=アカツキが刀へ手をかけている。
柄に触れ、鯉口を切り、けれど抜けない。
その背後には、怯えた小姓や女中たちがいる。
ここから先へ、月を通さない。
彼がそう言う直前の姿だった。
アヤメの手が、刀の柄を握りしめる。
彼女にも見えているのだろう。
それらは過去の影ではなかった。
ただ思い出が映っているのでもない。
喰われた瞬間。
役が白く切り取られた、その境目が映っていた。
そして最後に、白面の上へ、静かな影が浮かぶ。
白影宮。
黒漆の空の面箱。
その前に座る少女。
サヨ=ミカゲ。
面のない皇女。
彼女は誰かに助けを求めているわけではない。
泣いてもいない。
叫んでもいない。
ただ、空の面箱を見つめている。
面を待つ箱。
まだない役を眠らせる器。
そこに浮かぶ月を、サヨだけが静かに見ている。
白面の客が、もう一度言った。
「映るものは、喰われたものとは限りません」
イロハの胸が鳴った。
白漆の面に、サヨの影が揺れる。
「隠されたものも、月は映します」
その瞬間、水面が割れた。
実際に水が裂けたわけではない。
けれど、鏡水の満月が硝子のようにひび割れ、白い線が走った。
アヤメが一歩踏み込む。
セイランが式札を投げる。
ヒヨリが袖の中で小さく鳴く。
だが、すべて遅かった。
白い半面は、割れた満月の奥へすっと退いていく。
最後に、面の表に映っていたイロハの顔だけが残った。
その顔は、イロハ自身よりも少しだけ白く、少しだけ知らない表情をしていた。
まるで、《ナギノオモテ》をつけた未来の自分を、先に見せられたように。
水面が大きく揺れた。
満月は崩れ、白い光は砕け、ただの波紋になる。
空にある半月だけが、ゆがんで水盆に戻った。
庭のほかの水盆も、ひとつ、またひとつと静まっていく。
青い石灯籠の火が、かすかに揺れた。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
アヤメは刀から手を離さない。
セイランは投げた式札の先を見つめている。
ヒヨリは、ようやく袖口から顔を出した。
イロハは、水盆の縁に手をついた。
冷たい。
けれど、さっきまでの噛みつくような冷たさではない。
ただ水の冷たさだった。
「今のものは」
アヤメが低く言った。
「月ではありませんね」
イロハは頷いた。
「たぶん」
セイランは、水盆の底を見つめたまま呟いた。
「観測異常……いや、反射存在。鏡水に現れた白面状の影。発言内容、月喰い現象の原因仮説を否定」
彼はそこまで言って、筆を持っていないことに気づいた。
記録紙は星見楼に置いたままだ。
だが、今の言葉は記録ではなく、自分を落ち着かせるための確認にも聞こえた。
イロハは、水面を見た。
もう白面はいない。
けれど、言葉だけが残っている。
月が喰っているのではない。
あなたがたが、喰われた役を月に映している。
映るものは、喰われたものとは限らない。
隠されたものも、月は映す。
「隠されたもの……」
イロハは呟いた。
サヨの面は、失われたのではない。
まだ作られていない。
そう思っていた。
けれど、もしそれだけではないのだとしたら。
まだない役。
隠された役。
喰われたことにされた役。
その区別は、どこにあるのだろう。
アヤメがイロハを見た。
「サヨ様の面について、何か知っているものなのでしょうか」
「わかりません」
イロハは正直に答えた。
「でも、サヨ様を映しました」
「ユラ殿、カンナ、ハルマサ殿と同じように」
「はい。でも……」
「でも?」
イロハは言葉を探した。
白面に映った三人は、喰われた瞬間の姿だった。
舞が止まったユラ。
香炉の前に立ち尽くすカンナ。
刀を抜けなかったハルマサ。
だがサヨだけは違った。
サヨは何かを喰われている瞬間ではなかった。
空の面箱の前に、ただ座っていた。
まるで、喰われた後ではなく、喰われる前でもなく。
ずっと隠されているものの前で、待っているように。
「サヨ様だけ、映り方が違いました」
イロハは言った。
アヤメの表情が固くなる。
セイランも顔を上げた。
「どう違いましたか」
「ユラさんたちは、役を喰われた場面でした。でもサヨ様は……」
イロハは水盆の底を見た。
「何かを待っている場面でした」
星見楼のほうから、吊るされた式札の音がかすかに聞こえた。
さらさら。
風はない。
けれど、どこかで紙が揺れている。
セイランは、低く言った。
「隠されたものも、月は映す」
アヤメが続ける。
「ならば、サヨ様の面は、まだないだけではなく」
言葉が途中で止まる。
それ以上を、今ここで口にするのが怖いようだった。
イロハは、自分の腰の鍵に触れた。
《ナギノオモテ》。
師匠が、自分に与えた面。
サヨのものに似ていると言われた面。
無面原の木から作られた、役のない者に役を与えるための面。
もし月が隠されたものも映すのなら。
いつか、月はこの面の内側も映すのだろうか。
イロハがまだ知らないものを。
師匠が隠したものを。
自分の役が本当は何なのかを。
水盆の中で、半月が細く揺れた。
セイランはようやく息を整え、白絹へ近づいた。
「白絹に損傷はありません」
アヤメがすぐに確認する。
白絹は濡れてもいない。
月痕も増えてはいない。
《ナナツジノホシ》も、外見上は変わっていなかった。けれど、内側の星点がどうなっているかは、星見楼へ戻って確認しなければならない。
ヒヨリが、水盆の縁に近づいた。
尾で、濡れた石の上に小さく文字を書く。
客。
それだけだった。
「客?」
イロハが読むと、ヒヨリは頷いた。
アヤメが眉を寄せる。
「敵ではなく?」
ヒヨリは首を傾げた。
セイランが言う。
「ヒヨリの反応では、敵性封じの対象ではなかった、ということかもしれません」
「では、味方ですか」
「それも不明です」
セイランは水盆を見た。
「ただ、こちらを観測していました」
観測。
その言葉が、妙に重く響いた。
イロハは白面の客を思い出す。
目穴のない半面。
けれど、見ていた。
白漆の上に、自分たちの顔と役を映していた。
それは、喰うものではなかった。
救うものでもなかった。
ただ、映していた。
アヤメが静かに言った。
「鏡ノ客」
セイランが彼女を見る。
「何かご存じですか」
「東方の古い噂です」
アヤメは、水盆から目を離さずに言った。
「面を覗きすぎると、向こう側から覗き返す客が来る。鏡にも、水にも、面の裏にも現れる。名を名乗らず、助けもせず、ただ見返す」
「迷信ですか」
「白影宮では、迷信で済ませないものもあります」
イロハは、水盆の静かな半月を見つめた。
鏡ノ客。
名前を知らない白い半面。
けれど、その言葉は妙にしっくり来た。
こちらが月を見ているつもりで、向こうから見られている。
こちらが面を診ているつもりで、面の奥から診られている。
その気配。
セイランは、水盆の前で深く息を吐いた。
「戻りましょう」
彼は言った。
「今の現象を整理します。月が原因ではなく、媒介である可能性。鏡水に現れた観測者。反転文字。サヨ様の白絹と未成面反応」
それから、少しだけ言葉を切った。
「それと、隠された役」
イロハは頷いた。
鏡水の庭を離れる時、もう一度だけ水盆を振り返った。
そこには、ただ半月が映っている。
正しい月。
暦通りの月。
けれど、イロハにはもう、それが安全なものには見えなかった。
月は空にあるだけではない。
水に映り、面の裏に棲み、記録を反転させる。
そして時に、こちらが隠したものまで映してしまう。
白い半面の客は消えた。
けれど、その言葉は星見楼へ戻る三人の背中に、薄く貼りついて離れなかった。




