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第六節 ― 鏡水の実験

 鏡水の庭は、星見楼の裏手にあった。


 庭と呼ばれてはいるが、花を愛でる場所ではない。


 白砂は方位線に沿って掃かれ、庭石は星辰の配置に合わせて置かれている。低い石灯籠の火は青く、池ではなく、円形の水盆がいくつも並んでいた。


 水盆の縁には、細かな文字が刻まれている。


 北。

 東。

 南。

 西。

 鬼門。

 裏鬼門。

 月齢。

 星宿。


 水は、空を映すために置かれていた。


 だが、今のイロハには、それがひどく危ういものに見えた。


 白影宮の月見池。

 アカツキ家の鉄鉢。

 刀の鞘口。

 方位盤の式面。


 月は、映る場所を見つける。


 ならば、この庭は、月にとってあまりにも入りやすい場所だった。


 空には半月があった。


 細くもなく、満ちてもいない。暦の通りの、欠けた月。


 水盆にも、本来ならその半月が映るはずだった。


 セイラン=ナナツジは、庭の中央にある最も大きな水盆の前に立った。


 片手には星読式面ナナツジノホシ

 もう片方の手には、白影宮の白絹を包んだ白符。


 ヒヨリは彼の肩ではなく、足元にいた。


 先ほどから、紙狐はセイランの前を歩いている。主人に従う式神というより、道を確かめる案内役のようだった。


 セイランも、それを叱らなかった。


 命じる前に読む。


 その言葉は、彼の中にまだ残っている。


「実験条件を確認します」


 セイランは言った。


 声は落ち着いている。

 けれど、先ほどよりも少し低い。


「空の月は半月。鏡水にも、通常なら半月が映る。ここへ星読式面ナナツジノホシと、サヨ様の白絹を近づける」


 彼は一度、イロハを見る。


「危険を感じた場合は、即時中断します」


「はい」


 イロハは頷いた。


 アヤメは、白絹の側に立っている。


 サヨに関わるものを、少しでも月へ渡したくない。そんな意思が、彼女の立ち位置に表れていた。


 セイランはまず、《ナナツジノホシ》を水盆の前に置いた。


 面の表が、空を向く。


 淡青の星図が、夜気の中でわずかに光った。


 水面には、半月が映っていた。


 欠けた月。


 正しい月。


 セイランは、記録紙へ書きつける。


「星読式面単独。鏡水反応、半月のまま。異常なし」


 次に、白絹を水盆の近くへ置く。


 アヤメの目が鋭くなる。


 白絹は、白符の上に静かに広げられた。


 面箱の底に敷かれていた布。

 サヨの面を待っていた布。

 先ほど方位盤の上で、星粒を落とさず円を描かせた布。


 その白絹が水盆へ近づいた瞬間、水面が揺れた。


 風はない。


 誰も触れていない。


 けれど、半月が歪む。


 欠けた輪郭が、丸くなろうとする。


 イロハの背筋が冷えた。


 水面の月が、ゆっくり膨らんでいく。


 半月だったものが、丸く満ちていく。


 空は変わっていない。


 高窓の向こうでも、庭の上でも、空には半月しかない。


 なのに、水盆の中だけに、満月が浮かんだ。


 白く、完全で、暦にない月。


 セイランが息を呑む。


「満月反応、発生」


 ヒヨリが小さく身を伏せた。


 アヤメの手が刀へ近づく。


 イロハは、水面から目を離せなかった。


 それは、ただの月ではなかった。


 白い光の縁に、歯がある。


 細く、柔らかく、けれど確かに噛みつくための歯。


 月が笑っているのではない。

 月が口を開けているのでもない。


 けれど、光そのものが噛む形をしている。


 水盆の中の満月は、《ナナツジノホシ》の内側にある白い月痕と同じ冷たさを放っていた。


 面の内側から噛みつくような光。


 星を読む入口へ、歯を立てようとしている。


「セイランさん」


 イロハは小さく言った。


「近づけすぎないでください」


「承知しています」


 セイランは答えながら、筆を取った。


 それでも記録する。


 恐れていても、記録する。


 彼は記録紙の上に筆先を置いた。


「半月の夜、鏡水に満月反応――」


 そこまで書いた時だった。


 筆跡が、ずれた。


 墨が滲んだのではない。


 文字そのものが、反転した。


 セイランの手は正しく動いている。

 筆の流れも乱れていない。

 けれど、紙に現れた文字は、鏡に映したように左右逆になっていた。


 半月の夜、鏡水に満月反応。


 そう書いたはずの文が、反対側から読む文字になっている。


 セイランの顔色が、はっきり変わった。


「これは……」


 彼は筆を離した。


 手が震えている。


「これは、私が書いた字ではない」


 イロハは、紙を覗き込んだ。


 逆さ文字。


 ヒヨリが床に書いたものと同じ。

 けれど、今度は式神が書いたのではない。


 セイラン自身の筆跡だ。


 線の癖も、払いの角度も、彼の字そのものだった。


「書いたのはあなたです」


 イロハは言った。


 セイランがこちらを見る。


「では、なぜ読めない」


 その声には、初めて隠しきれない恐れがあった。


 記録を信じてきた人間が、自分の記録を読めなくなる恐怖。


 それは、刀を抜けない武士とも、舞えない神楽師とも違う。


 けれど、同じだった。


 自分の役へ入る入口が、目の前で反転する。


 イロハは、水盆の満月を見た。


 白い光の歯が、わずかに揺れている。


 そこから、誰かが見ているような気がした。


 月ではない。


 もっと薄い。

 もっと遠い。

 鏡の裏側から、こちらの顔を覗く何か。


「誰かが」


 イロハは、ゆっくり言った。


「反対側から読んでいるんです」


 アヤメが一歩前へ出る。


「反対側?」


「鏡の向こう側です」


 言葉にした瞬間、庭の水盆が一斉に揺れた。


 中央の水盆だけではない。


 左右に置かれた小さな水盆も、方位石のそばの浅い器も、月を映すための水すべてが、細かく震えた。


 それぞれの水面に、半月ではなく満月が浮かび始める。


 ひとつ。

 ふたつ。

 三つ。


 庭のあちこちに、暦にない満月が開く。


 セイランは青符を取ろうとした。


 その手を、ヒヨリが止めた。


 紙狐は彼の袖を噛むようにくわえ、首を振る。


 命じるな。


 そう言っているようだった。


 セイランは唇を噛んだ。


 そして、青符を戻した。


「……読む」


 彼は小さく言った。


「封じる前に、読む」


 イロハは頷く。


 だが、水盆の満月は待ってくれなかった。


 中央の水面から、白い光が細く伸びる。


 それは《ナナツジノホシ》へ向かっていた。


 星読式面の内側に残った白い月痕が、表側からでもわかるほど光り始める。


 星点のひとつが、また塞がれようとしている。


 アヤメが白絹へ手を伸ばした。


「離します」


「待ってください」


 セイランが言った。


「まだ、反応の中心がどちらかわかりません」


「白絹に危険が及ぶなら、待てません」


「しかし、今離せば、原因を見失います」


 ふたりの声が重なる。


 イロハは、水面を見ていた。


 満月は、白絹を喰おうとしているわけではない。

 《ナナツジノホシ》だけを狙っているわけでもない。


 どちらか片方ではない。


 ふたつの間に、満月が出ている。


 未作成の役。

 読む入口を噛まれた式面。

 鏡水。


 それらが揃ったから、水面に満月が浮かんだ。


「両方です」


 イロハは言った。


 セイランとアヤメが振り返る。


「白絹だけでも、式面だけでもありません。ふたつが近づいたから、月が映った」


「なぜ」


 セイランが問う。


「どちらも、まだ読めていないから」


 イロハは、水面の満月を睨んだ。


「サヨ様の役は、まだ作られていない。セイランさんの式面は、読む入口を噛まれている。読めないものと、読む力を失いかけたものが鏡水の前に置かれたから、月が割り込んだんです」


 セイランは、はっとした顔をした。


 彼はすぐに記録紙へ向かおうとする。


 しかし、反転した文字を見て手が止まった。


 書いても読めない。


 その恐怖が、彼を縛っている。


 イロハは、その手元を見て言った。


「今は、声で記録してください」


「声で?」


「はい。聞きます。私も、アヤメさんも、ヒヨリも」


 ヒヨリが尾を立てた。


 アヤメも頷く。


「私が覚えます」


 セイランは、ゆっくり息を吸った。


 筆を置く。


 記録紙から手を離す。


 それは彼にとって、刀を置くようなものだったのかもしれない。


 けれど、彼は顔を上げた。


「鏡水実験。空は半月。水面は本来半月を映す」


 彼の声が、夜の庭に響く。


星読式面ナナツジノホシ単独では異常なし。白影宮白絹を近づけた際、鏡水に満月反応発生」


 水面の満月が揺れる。


「満月反応は、白絹および式面の間に発生。未作成の役と、読解入口を白月干渉された式面の接触により、媒介水面が異常満月を形成した可能性」


 ヒヨリが、床を尾で叩く。


 肯定のようだった。


 セイランの声が少し強くなる。


「記録文字は反転。これは記録者本人の筆跡であるにもかかわらず、本人側から判読不能。反対側からの観測、もしくは反射干渉が疑われる」


 その時、水盆の満月の中に、何かが揺れた。


 イロハは息を止めた。


 月の中に、白い影がある。


 まだはっきりしない。

 顔なのか、面なのか、月の欠けた部分なのかもわからない。


 けれど、誰かがいる。


 水面の向こう側に。


 セイランも、それを見た。


 声が止まりかける。


 アヤメの手が刀へかかる。


 ヒヨリは、セイランの足元へ戻り、身体を低くした。


 イロハは、冷たい息を吸った。


「来ます」


 水盆の満月が、さらに白くなる。


 反転した記録紙の文字が、ひとりでに滲んでいく。


 鏡の向こうから、誰かがこちらを読んでいる。


 月が喰うのではない。


 月に映る何かが、こちらを見返している。


 イロハは、その視線を感じながら、白く光る水面を見つめた。

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