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第五節 ― 読めない皇女

 アヤメ=シラハが取り出した白絹は、小さく折り畳まれていた。


 白影宮の香が、かすかに残っている。


 沈香。

 白檀。

 月除けの薄い香草。

 そして、どこか空の箱の内側に似た匂い。


 イロハは、それを見た瞬間、白影宮の奥に置かれていた黒漆の面箱を思い出した。


 棚はある。

 面紐もある。

 香も焚かれている。

 箱もある。


 けれど、皇女の面だけがない。


 その空の面箱の底に敷かれていた白絹。


 面を眠らせるための布。

 まだ来ない面を、ずっと待ち続けていた布。


 セイラン=ナナツジは、白絹を受け取る前に、手を止めた。


「確認します。これは、サヨ=ミカゲ様の面箱に敷かれていたものですね」


「はい」


 アヤメが答える。


「いつから」


「わたしが白影宮に入った時には、すでに」


「交換は」


「定期的にされています。ただし、これは昨夜、月が浮かんだ面箱に敷かれていたものです」


 セイランの表情がさらに硬くなった。


「月が浮かんだ箱の内敷きですか」


「ええ」


「危険物として封じるべきものです」


「だから持ってきました」


 アヤメの声は静かだった。


 だが、言葉の奥に棘があった。


「封じるためではなく、読むために」


 セイランは、少しだけ目を伏せた。


 先ほどのヒヨリの拒絶が、まだ彼の中に残っているのだろう。命じる前に読む。封じる前に読む。その言葉を、彼はもう無視できない。


「承知しました」


 セイランは白符を広げ、その上に白絹を置いた。


 ヒヨリが机の端から身を乗り出す。


 小さな紙狐の耳が、ぴんと立った。


 星見楼の中央にある方位盤が、低く鳴る。


 かちり。


 かちり。


 歯車が動き、外周の十二方位がゆっくり回り始めた。


 セイランは小瓶から星砂を取り出した。


 砂といっても、ただの砂ではない。淡く青白く光る細かな粒で、掌に載せると、空の星を砕いたように瞬いている。


「本来なら」


 セイランは説明しながら、星砂を方位盤の中央へ落とした。


「皇族に属する品は、天帝宮方位へ落ちます。白影宮に属する品であれば、白影宮方位へ偏る。個人に強く結びついた品なら、その者の仮面籍に対応する方位へ流れる」


 星砂は、方位盤の中央に落ちた。


 そこで一度、小さく光る。


 イロハは息を止めた。


 砂粒は、どこかへ流れるはずだった。


 天帝宮方位。

 白影宮方位。

 皇族の方位。

 少なくとも、どこかへ。


 けれど、星粒は落ちなかった。


 方位盤の上で、小さな円を描き始める。


 中央から外へ行かない。

 外から内へ沈まない。

 北にも、南にも、東にも、西にも落ちない。


 ただ、ぐるぐると回っている。


 白絹の周囲を囲むように。

 まるで、そこに見えない面の輪郭があるかのように。


 セイランの顔色が変わった。


「方位がありません」


 アヤメの目が鋭くなる。


「白影宮のものです」


「場所の話ではありません」


「では、何ですか」


 セイランは、回り続ける星粒を見つめた。


 声を出すまでに、わずかな間があった。


「この絹に触れた方の役が、どの方位にも属していない」


 星見楼の空気が、冷えた。


 アヤメの手が、腰の刀に触れたわけではない。


 だが、彼女の立ち姿そのものが刃のようになった。


「皇女様を、存在しない者のように言うな」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいない。


 だからこそ、怒りが深い。


 セイランは、すぐに首を振った。


「違います。存在しないのではなく、割り当てられていない」


「同じことです」


「陰陽寮では、違います」


 アヤメの目がさらに冷たくなる。


「白影宮では、同じです」


 その一言に、セイランは答えられなかった。


 イロハは、ふたりの間にある緊張を感じながら、方位盤の星粒を見つめた。


 星粒は、まだ回り続けている。


 落ちない。


 留まらない。


 決まらない。


 それは、サヨそのもののようだった。


 皇女である。

 白影宮にいる。

 女房たちは彼女に仕え、アヤメは彼女を守っている。


 なのに、彼女の面はない。


 この国では、面こそが顔である。

 面こそが役である。

 面こそが、その人がどこに立つのかを示す。


 ならば、面のない皇女は、どこへ立てばいいのか。


 イロハは、空の面箱を思い出す。


 月が棲んでいた箱。


 けれど、あれは失われた面を納める箱ではなかった。


 面を待っている箱だった。


「方位がないんじゃありません」


 イロハは、気づけば口を開いていた。


 セイランとアヤメが、同時にこちらを見る。


 イロハは方位盤へ近づいた。


 星粒は、白絹のまわりを回り続けている。


 その動きは、ただ迷っているようにも見える。

 だが、面師の目で見れば、違う。


 これは探している。


 まだない輪郭をなぞっている。


「この星粒、落ちる場所がないんじゃなくて、落ちる場所がまだ作られていないんです」


 セイランが眉を寄せる。


「それを、陰陽寮では未割当と呼びます」


「面師小路では、違います」


 イロハは言い返した。


「これは、失くした場所を探している動きじゃありません」


 彼女は、白絹の周囲を回る星粒を指した。


「新しく彫る場所を探している動きです」


 アヤメの表情が、わずかに揺れた。


「イロハ殿」


「はい」


「それは、サヨ様の面が……」


「やっぱり、なくなった面じゃありません」


 イロハは、はっきり言った。


「サヨ様の面は、失われた面じゃない。どこかに隠されている面でもない。まだ、この国に作られていない面です」


 星粒の円が、少しだけ広がった。


 白絹の上に、薄い輪郭が浮かぶ。


 目に見えるほどではない。

 けれど、イロハにはわかった。


 面の輪郭だ。


 まだ彫られていない。

 まだ役として成立していない。

 けれど、何もないわけではない。


 そこには、待っている形がある。


 セイランは、方位盤へ身を寄せた。


「……星粒の運動が変わった」


 彼はすぐに筆を取る。


「未割当ではなく、未形成方位の探索反応……いや、仮説。面師イロハ=ナギの見立てにより、白絹周囲に未成面輪郭反応を確認」


「また難しくなりましたね」


「正確にしています」


「でも、その言い方だとサヨ様が物みたいです」


 セイランの筆が止まった。


 アヤメが、少し驚いたようにイロハを見る。


 イロハは続けた。


「面は物です。でも、役は物じゃありません。サヨ様が何者として立つのかは、星粒だけで決めるものじゃないと思います」


 セイランは沈黙した。


 それから、書いたばかりの一文を見下ろす。


 少し迷ったあと、彼はその横に追記した。


 ただし、対象者本人の選択未確認。

 未成の役は、外部観測のみで定義不可。


 イロハは、その文字を見て小さく息を吐いた。


 アヤメもまた、表情を少しだけ緩めた。


「ありがとうございます」


 セイランは顔を上げた。


「礼を言われることではありません。記録上、必要な注記です」


「それでもです」


 アヤメは静かに言った。


「その注記がなければ、サヨ様はまた、誰かに勝手に定められるところでした」


 セイランは、答えられなかった。


 ヒヨリが机から降り、方位盤のそばへ歩いていく。


 紙狐は、回る星粒を鼻先で追った。


 そして、白絹の前で止まる。


 尾で床に小さく文字を書く。


 まだない。


 それから、少し離れた場所にもう一つ書いた。


 けれど、ある。


 イロハはその文字を見て、胸の奥が熱くなった。


 まだない。


 けれど、ある。


 サヨの面そのものだった。


 存在しないのではない。

 割り当てられていないだけでもない。

 まだ作られていない。


 けれど、作られるべき輪郭はある。


 白影宮の空の面箱は、空っぽではなかった。


 あれは、待っていたのだ。


 サヨ自身が何者として立つのか。

 その役が、この国に初めて彫られる日を。


 その時、白絹の端がかすかに揺れた。


 風はない。


 方位盤の歯車も止まっている。


 それなのに、白絹の内側から、淡い白が滲んだ。


 イロハは息を詰めた。


 月痕か。


 そう思った瞬間、白絹の中央に小さな丸い光が浮かんだ。


 満月ではない。


 まだ、丸くなりきっていない。


 輪郭だけの月。


 けれど、それはすぐに膨らみ始めた。


 アヤメが一歩前へ出る。


「サヨ様の白絹から離れてください」


 セイランは符を取る。


 ヒヨリが低く身を伏せる。


 イロハは、白絹を見たまま動けなかった。


 月が来ている。


 だが、これまでの白い月痕とは少し違う。


 これは噛みつく月ではない。


 何かを映そうとしている。


 白絹の上の光が、淡く揺れる。


 そこに、一瞬だけ人影が映った。


 御簾の奥に座る少女。


 サヨ=ミカゲ。


 彼女は、こちらを見ていない。


 空の面箱を見つめている。


 その口元が、わずかに動いた。


 声は聞こえない。


 けれど、イロハにはなぜか、その言葉がわかった。


 わたしは、どこへ立てばよいのでしょう。


 胸が締めつけられた。


「サヨ様」


 アヤメが呟く。


 彼女にも見えたのだろう。


 次の瞬間、星粒が一斉に跳ねた。


 白絹の上の月が、急に強く光る。


 満月になろうとしている。


 セイランが叫んだ。


「白月反応、上昇!」


 ヒヨリが方位盤の上へ飛び乗る。


 イロハは、とっさに白絹へ手を伸ばした。


 アヤメが止めようとする。


 だが、その前に。


 イロハの指先が、白絹の端に触れた。


 冷たかった。


 月の冷たさではない。


 空白の冷たさだった。


 誰にも置かれなかった役。

 誰にも呼ばれなかった面。

 そこに長く敷かれていた布の冷たさ。


 イロハは、歯を食いしばる。


「まだです」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。


 サヨへか。

 月へか。

 白絹へか。

 それとも、自分自身へか。


「まだ、決めないでください」


 白い光が揺れる。


「サヨ様の役は、まだ誰にも決めさせません」


 その瞬間、星粒の円がほどけた。


 満月になりかけていた光が、すっと薄くなる。


 白絹の上には、何も残らない。


 ただ、かすかな面の輪郭だけが、光の痕として揺れていた。


 セイランは息を呑んだまま、筆を取り落としていた。


 アヤメはイロハの肩を掴む。


「無茶をしないでください」


「すみません」


「謝るなら、する前にしてください」


「それは難しいです」


「でしょうね」


 短いやり取りのあと、アヤメは白絹を見つめた。


 その目には怒りではなく、深い痛みがあった。


「サヨ様は……今も、白影宮であの箱を見ておられるのでしょうか」


 イロハは答えられなかった。


 けれど、そうなのだと思った。


 サヨは今も、自分の面がない箱を見ている。


 自分がどこへ立てばよいのか、誰にも聞けずに。


 セイランは、落とした筆を拾った。


 手が震えている。


 だが、記録をやめなかった。


 彼はゆっくりと書いた。


 白影宮白絹、方位未落下。

 星粒は対象周囲を循環。

 未成面輪郭反応あり。

 白月反応上昇時、対象者サヨ=ミカゲ様らしき幻影を確認。

 面師イロハ=ナギの接触により、満月化は一時停止。


 そこまで書いてから、彼は最後に小さく追記した。


 未定義ではなく、未作成の可能性高し。


 イロハは、その一文を見た。


 胸の中に、確かなものが落ちた。


 サヨの面は、失われたのではない。


 まだ作られていない。


 ならば、直すのでは足りない。


 探すのでも足りない。


 作らなければならない。


 ただし、イロハが勝手に作って与えるのではない。


 サヨ自身が、どこへ立つのかを選ぶ必要がある。


 星見楼の高窓の向こうで、空の半月が薄く光っていた。


 方位盤の上には、満月の痕が消えている。


 けれど、イロハにはわかった。


 月はまだ近くにいる。


 サヨの空白が、月を映してしまう限り。

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