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第四節 ― 役喰いの条件

 星見楼の長机に、四つの記録が並べられた。


 ひとつは、神楽師ユラ=シラビョウの白化舞面についての聞き取り。


 満月の夜。

 ウズメの舞殿近く。

 奉納舞の稽古中。

 舞の技術は残っていたが、「神を迎える沈黙」だけが抜け落ちた。


 ふたつめは、白影宮の香役カンナ=ツキシロの異常記録。


 名も家も覚えている。

 香木の種類も、香を扱う手順も覚えている。

 けれど、なぜその香をその夜、その廊に焚くのかがわからなくなった。


 三つめは、ハルマサ=アカツキの暁刃戦面アカツキノハ


 剣術は残っていた。

 木刀も振れる。

 間合いも読める。

 しかし、真剣を抜く直前だけ、指が止まる。


 そして四つめ。


 セイラン=ナナツジの星読式面ナナツジノホシ


 星を読む術は残っている。

 方位も、暦も、記録も扱える。

 だが、式神に命じる前に、星と式の声を読む入口が白く塞がれている。


 セイランは、机の中央に大きな紙を広げた。


 細く整った筆跡で、事例ごとの項目を書き出していく。


 月齢。

 時刻。

 場所。

 媒介。

 失われた役。

 周囲への影響。

 仮面籍の状態。

 白化の部位。


 イロハは、その字を横から見ていた。


 美しい字だった。


 けれど、紙の上に並べられた言葉は、どれも痛々しかった。


 ユラは、舞台に立つ入口を喰われた。

 カンナは、宮の夜を整える入口を喰われた。

 ハルマサは、刀を抜く入口を喰われた。

 セイランは、星を読む入口を喰われかけている。


 人は、役を名乗るだけでは役へ入れない。


 舞う前の沈黙。

 香を焚く理由。

 刀を抜く覚悟。

 星へ聞く間。


 その小さな境目を、月は正確に噛む。


 セイランは筆を止め、紙の端に大きく見出しを書いた。


 ――共通条件。


 それから、ひとつずつ書き出していく。


「一、月光に触れている」


 筆先が紙を滑る。


「二、水、刃、面の内側、方位盤など、反射する媒介がある」


 イロハは、アカツキ家の鉄鉢を思い出した。


 水面に浮かぶ、空にない満月。

 鞘口に映った、抜刀の入口を塞ぐ月。


 白影宮では、空の面箱の中に月がいた。


 陰陽寮では、式面の内側に月が棲んでいる。


 セイランは続けた。


「三、役へ入る瞬間に異常が起きる」


 ユラが舞い出す瞬間。

 カンナが香炉の前に立つ瞬間。

 ハルマサが刀を抜く瞬間。

 セイランが式神に命じる瞬間。


 どれも、ただの行為ではない。


 その人がその役になるための、境目だった。


「四、失われるのは技術ではなく、役の入口」


 その言葉を書いた時、セイランは一瞬だけ筆を止めた。


 自分自身のことも書いているのだと、気づいたのだろう。


 ヒヨリは机の端で、静かに尾を揺らしていた。


「五、周囲の記憶にも影響する」


 アヤメが低く言った。


「ユラ殿の時ですね」


「はい」


 イロハは頷いた。


「あの子は神楽師だったか、と周りが思い出せなくなっていました」


「白影宮でも似たことがありました」


 アヤメは続ける。


「カンナが香役であることを、女房たちが曖昧にしか思い出せなくなった。サヨ様だけが覚えておられた」


 セイランは記録へ書き足した。


 周囲記憶の希薄化。

 役の社会的認識にも干渉。


 その字を見て、イロハの胸が重くなる。


 月が喰うのは、本人の中だけではない。


 周囲からも、その人の役が薄れていく。


 本人がどれほど覚えていたくても、周囲が忘れれば、その役は世界から削られていく。


 そして、最後の項目。


 セイランは筆先を少し浮かせた。


 書くのをためらったようにも見えた。


 だが、彼は書いた。


「六、仮面籍に未確定、矛盾、不安定がある場合、発症しやすい」


 イロハは黙った。


 その一文が、紙の上でやけに黒く見えた。


 未確定。


 矛盾。


 不安定。


 それは、サヨのことだった。


 皇女でありながら、面がない。

 白影宮にいながら、どの方位にも属していない。

 皆が忘れた役を覚えているのに、自分自身の役だけは言えない。


 そして。


 イロハの手が、無意識に自分の腰へ触れた。


 そこには、《ナギノオモテ》の鍵がある。


 師匠が開けるなと言った面。


 自分に与えられた、生面でありながら生面ではないもの。

 役を持たない子どもに、役を与えるために作られた面。

 皇女の未在面に似ていると言われた面。


 未確定。


 矛盾。


 不安定。


 そのどれにも、触れている。


 イロハは、息を浅くした。


 アヤメが、そのわずかな変化に気づいた。


「イロハ殿?」


「……いえ」


 ごまかそうとした声は、自分でも弱かった。


 アヤメの目が、紙の六番目へ落ちる。


 そして、すぐに理解したようだった。


「サヨ様も、条件に入るのですか」


 その問いは、セイランへ向けられていた。


 星見楼の空気が止まる。


 ヒヨリの尾も止まった。


 セイランは、すぐには答えなかった。


 答えたくなかったのではない。


 どう言えば、白影宮の近習を怒らせずに済むかを考えている顔だった。


 だが、アヤメは待たなかった。


「答えてください」


 セイランは、静かに息を吸った。


「理論上は……最も危険です」


 アヤメの表情が硬くなる。


 イロハも、胸の奥が冷えた。


「最も?」


「はい」


 セイランは紙の六番目を指した。


「仮面籍に未確定がある者は、役へ入る入口が定まりにくい。矛盾がある者は、面と役の経路に歪みが生じやすい。不安定な者は、媒介に映った満月の影響を受けやすい」


「サヨ様は皇女です」


 アヤメの声は低かった。


「存在しない者のように扱わないでください」


「存在しないとは言っていません」


 セイランはすぐに返した。


 だが、その声には慎重さがあった。


「むしろ、存在が強すぎるのかもしれません」


「どういう意味です」


「役が割り当てられていないのに、周囲の失われた役を覚えている。通常ならありえません」


 セイランは、言葉を選びながら続けた。


「面がない者は、役の経路を持たない。だから本来、他者の役喰いを正確に記憶することも難しいはずです。けれどサヨ様は、それができる」


 イロハは、白影宮の月見池のそばで聞いたサヨの言葉を思い出した。


 わたしは、役を持たないのに、失われた役だけは覚えているのです。


 それは、悲しい告白だった。


 けれど今、セイランの言葉を聞くと、別の意味を持ち始める。


 サヨはただの被害者ではない。


 役を喰われた者を覚えていられる、特異な存在。


 だからこそ、月にとって危険なのか。

 それとも、月が最も狙いやすい存在なのか。


 イロハにはまだわからなかった。


「セイラン殿」


 アヤメが言った。


「陰陽寮では、サヨ様をどう判定しますか」


 セイランは、明らかに答えに詰まった。


 その沈黙が、答えに近かった。


 アヤメの目が細くなる。


「危険な空白、とでも?」


「……陰陽寮の正式判定ではありません」


「では、あなた個人の見立ては」


 セイランは、机の上の記録紙を見た。


 そこには、条件が六つ並んでいる。


 どれも、サヨに触れている。


 彼は低く言った。


「未定義の中心です」


 その言葉に、イロハの指が小さく震えた。


 未定義の中心。


 それは冷たい言い方だった。


 だが、間違いではないのかもしれない。


 サヨは、面を持たない。

 役を持たない。

 けれど、失われた役を覚えている。

 空の面箱に、暦にない満月を宿す。


 月喰いの条件が集まる場所。


 それが、白影宮の皇女。


 アヤメはしばらく黙っていた。


 怒りを飲み込んでいるのがわかった。


 やがて、彼女は静かに言った。


「その言葉を、仮面籍庁の前で軽々しく口にしないでください」


 セイランは顔を上げる。


「なぜです」


「彼らは、未定義を保護しません」


 アヤメの声が、少しだけ冷たくなった。


「定めるか、封じます」


 その言葉で、星見楼の中がさらに静まった。


 仮面籍庁。


 第1話で白化した神楽面を、不正修復や工房の事故として処理しようとした役所。

 ハルマサの戦面も、不安定役面として届け出れば、預かりや封役の対象になる可能性がある。


 もし、サヨが「未定義の中心」と記録されたら。


 仮面籍庁は、どう動くか。


 イロハは、それを考えたくなかった。


 だが、考えないわけにはいかなかった。


 セイランは、筆を握ったまま黙っている。


 理論上は書くべきだ。

 記録者としては、危険性を記すべきだ。

 けれど、書けばそれが制度の刃になる。


 彼は初めて、記録が人を守るだけではないことに直面しているようだった。


 イロハは、そっと言った。


「サヨ様は、危険な空白じゃありません」


 アヤメがイロハを見る。


 セイランも視線を上げた。


「まだ面がないだけです」


 イロハは続けた。


「失われた面じゃない。壊れた面でもない。まだ、この国に作られていない面なんです」


 その言葉に、星見楼の式札がかすかに揺れた。


 セイランは、紙の上に書かれた六番目を見つめる。


「未定義と、未作成は違う……」


「違います」


 イロハははっきり言った。


「陰陽寮の言葉では、どう違うのかわかりません。でも、面師としては違います」


「どう違うのですか」


「未定義は、まだ帳面にないものです。でも未作成は、これから彫れるものです」


 セイランは黙った。


 ヒヨリが、机の上で小さく尾を振った。


 アヤメの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。


 サヨの面は、まだない。


 だが、ないことは、終わりではない。


 イロハはそう信じたかった。


 信じなければ、あの白影宮の空の面箱も、自分の《ナギノオモテ》も、すべて月に差し出されてしまうような気がした。


 セイランは、筆を動かした。


 六番目の横に、小さく追記する。


 未定義と未作成は区別を要す。

 面師イロハ=ナギの見立て。

 未作成の役は、封じる対象ではなく、成立過程にある可能性。


 イロハは、その字を見て少し驚いた。


「書くんですね」


「記録ですから」


 セイランは言った。


「私が納得していないことも、仮説として記録します」


「納得していないんですか」


「完全には」


「正直ですね」


「記録ですから」


 同じ言葉を繰り返しただけなのに、先ほどより少し違って聞こえた。


 記録は、封じるためだけにあるのではない。


 少なくともセイランは今、そう使おうとしている。


 アヤメは、深く息を吐いた。


「では、次はサヨ様に関わるものを読んでください」


 セイランの顔が引き締まる。


「白影宮から、何かお持ちですか」


「はい」


 アヤメは懐から、白く折り畳まれた絹を取り出した。


 それは、空の面箱に敷かれていた白絹だった。


 サヨの面が置かれるはずだった箱。


 けれど、面はない。


 その空白を長く受け止めてきた絹。


 星見楼の光の下で、その白絹は月を含んでいるように見えた。


 セイランは、それを見て表情を固くした。


「これを方位盤に?」


「お願いします」


 アヤメの声には、決意があった。


 イロハは白絹を見つめた。


 次に読まれるのは、サヨの空白だ。


 そしておそらく。


 その空白は、この六つの条件のすべてに触れている。

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