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第四節 ― 鈴祈舞面《ユラノスズ》、使用停止

 鈴祈舞面ユラノスズの面箱が、審査台の中央へ置かれた。


 黒漆の箱ではない。


 神楽師が使う面箱らしく、朱の紐がかけられ、蓋の端には小さな鈴紋が描かれている。長く使われてきた箱なのだろう。角には擦れがあり、漆の艶もところどころ薄れていた。


 けれど、それは粗末という意味ではなかった。


 何度も舞台へ運ばれ、何度も神前へ置かれ、何度も持ち主の手で開かれてきた箱。


 イロハには、それがわかる。


 面箱にも、息がある。


 大切に扱われた面箱は、蓋を開ける前から持ち主の役を覚えている。


 だが、仮面籍庁の審査台の上に置かれた瞬間、その面箱は急に小さく見えた。


 朱の紐も、鈴紋も、過去の舞台の気配も、この場ではただの対象物になる。


 下役が箱の前に札を置いた。


 鈴祈舞面ユラノスズ

 所有者、ユラ=シラビョウ。

 役名、神楽師見習い。

 祭礼参加資格、仮承認。

 異常記録、白化。


 その文字を見た瞬間、イロハは胸が痛んだ。


 そこには、ユラがどれほど震えていたかは書かれていない。


 舞を忘れたのではなく、舞へ入る一節だけを奪われたことも。

 白い面の奥に、消えかけた袖の軌跡が戻った瞬間の美しさも。

 鈴の音が、一度だけ確かに神を迎えたことも。


 何も書かれていない。


 ただ、白化。


 その一語だけだった。


 襖が静かに開き、ユラ=シラビョウが入ってきた。


 白拍の家に連なる少女らしく、淡い水干姿に細い鈴紐を結んでいる。顔色は悪いが、背筋は伸びていた。


 彼女は泣いていなかった。


 泣くことを、ここでは許されていないと知っているようだった。


 ユラは上座へ深く礼をし、それからイロハを見た。


 一瞬だけ、目が合う。


 助けを求めているのではない。


 ただ、覚えていてほしいと言っているような目だった。


 自分は逃げたのではない。

 舞を捨てたのではない。

 あの一節は、確かにあった。


 イロハは小さく頷いた。


 ユラの指が、袖の中で鈴を握る。


 かすかな音がした。


 ちり、と。


 その音は、すぐに審査所の沈黙へ吸い込まれた。


 アリノリ=シジョウは、定役面コトサダメをつけたままユラを見た。


 白漆の半面は、少女の怯えを映さない。


 ただ、役を問う。


「ユラ=シラビョウ」


「はい」


「あなたは、神楽師ですか」


 ユラの喉が小さく動いた。


「はい」


 声は細い。


 けれど、確かだった。


「では、神を迎える沈黙を舞えますか」


 その問いが落ちた瞬間、ユラの指が鈴を強く握った。


 イロハは思わず身を乗り出しそうになる。


 その問いは、あまりにも正確だった。


 ユラが失ったものを、アリノリは理解している。


 舞の型ではない。

 足運びではない。

 鈴の振り方でもない。


 神を迎える沈黙。


 舞台へ入る前に、息を止め、音を閉じ、神のために空白を作る一節。


 それだけが、抜け落ちている。


 ユラは答えられなかった。


 答えようとして、唇を開く。


 だが、声が出ない。


 彼女の中に技術は残っている。


 鈴も持てる。

 袖も動かせる。

 足も床を打てる。

 身体は、舞を覚えている。


 けれど、その入口がない。


 神を迎える沈黙だけが、白く欠けている。


 アリノリは責めなかった。


 声を荒げない。


 嘲らない。


 ただ、穏やかに言う。


「ならば、現在のあなたは神楽師として不安定です」


 ユラの顔が、少しだけ白くなった。


 イロハは耐えきれず、声を上げた。


「違います」


 室内の視線が、いっせいにイロハへ向く。


 アリノリだけは、すでにそれを予想していたかのように静かだった。


「何が違うのでしょう、面師イロハ」


「ユラさんは舞を忘れたわけじゃありません。喰われたんです」


「喰われた」


「はい。面の内側に月痕がありました。神を迎える沈黙だけが、白く噛み取られていたんです」


「その診断は、先ほどの資料にも記されています」


「なら」


「ですが、理由は問いません」


 イロハの言葉が止まった。


 アリノリは続ける。


「祭礼に立てるかどうかを問うています」


 静かな声。


 けれど、その一言は鋭かった。


 ユラが喰われたのか。

 怯えたのか。

 事故だったのか。

 怪異だったのか。


 仮面籍庁にとって、それは二番目の問題なのだ。


 最初に問われるのは、役を遂行できるかどうか。


 祭礼に立てるかどうか。


 イロハは拳を握る。


「でも、あの子は一度、舞えました。私が仮置きした時、鈴も鳴りました。袖も戻りました」


「一時的な回復ですね」


「一時的でも、戻ったんです」


「常時の祭礼参加資格を認める根拠にはなりません」


「根拠……」


 イロハは、その言葉が嫌だった。


 あの時の舞を、根拠と呼ばれることが。


 白い面の奥に戻った袖の軌跡。

 床を打った足。

 ちりん、と鳴った鈴。

 ユラの目に戻った光。


 それは、根拠ではない。


 生きている役だった。


 だが、この場ではそれを証明できない。


 アリノリは、審査台へ視線を落とした。


鈴祈舞面ユラノスズを開箱してください」


 下役が面箱の朱紐を解く。


 蓋が開かれた。


 中の舞面が現れる。


 元は淡い朱と白で彩られた、若い神楽師のための面だった。口元はわずかに開き、舞い始めの息を含んでいる。目元には、緊張と祈りが同居する柔らかな線があった。


 だが今、その右頬から口元にかけて、白い月痕が走っている。


 噛み跡。


 第1話で見た時より、少し濃くなっているようにイロハには見えた。


 ユラが息を呑む。


 自分の面が審査台に置かれる。


 それは、自分の顔を他人の前で裁かれることに近い。


 アリノリは《コトサダメ》の奥から面を見た。


 その瞬間、鈴祈舞面の上に細い白線が浮かぶ。


 確認の白ではない。


 揺らぎの白。


 白札の色に近かった。


 下役が台帳を読み上げる。


鈴祈舞面ユラノスズ。白拍家分家、シラビョウ家預かり。神楽師見習い用祈面。奉納舞補助資格あり。正式神楽師資格、未到達」


 未到達。


 その言葉で、ユラの肩がわずかに揺れた。


 アリノリが問う。


「ユラ=シラビョウ。あなたは現在、神を迎える沈黙を舞えますか」


 二度目の問い。


 ユラは、今度こそ答えようとした。


 鈴を握る指が震える。


「……舞いたいです」


 それは、問いへの答えではなかった。


 けれど、ユラにとっては精一杯の答えだった。


「舞いたいです。わたしは、逃げたのではありません。忘れようとしたのでもありません。あの一節だけが、どうしても……」


 声が詰まる。


 イロハは、胸が締めつけられた。


 ユラは自分が何を失ったのかを知っている。


 けれど、その失ったものを完全には言えない。


 役を喰われた者は、自分が何を失ったのかさえ、正しく証明できない。


 アリノリは、静かに聞いていた。


 そして、穏やかに言った。


「舞いたいことは、理解しました」


 ユラの目がわずかに上がる。


「ですが、舞いたいことと、祭礼に立てることは別です」


 鈴の音が止まった。


 ユラの手の中で、鈴は握り込まれたまま沈黙する。


 アリノリは、白札を取った。


 薄い白木の札。


 そこには、まだ何も書かれていない。


 彼が筆を取ると、《コトサダメ》の額の朱印がわずかに光った。


 札に文字が浮かぶ。


 使用停止。

 祭礼参加保留。


 イロハは立ち上がりかけた。


「待ってください」


 アヤメが鋭くこちらを見る。


 止める視線ではない。


 立ち上がるなら覚悟しろ、という視線だった。


 イロハは、そのまま立った。


「ユラさんから舞台を取らないでください」


 アリノリは、筆を止めない。


「舞台を取るのではありません。祭礼に立つ資格を、安定回復まで保留するのです」


「同じです」


「違います」


「ユラさんにとっては同じです」


 イロハの声が震えた。


「月は、舞に入る入口を喰いました。でも、今あなたがしているのは、舞台そのものを閉じることです」


 室内が静まり返った。


 下役たちの視線が動かない。


 セイランの筆が、紙の上で止まっている。


 ヒヨリが、袖の中で小さく震えた。


 アリノリは、ゆっくりイロハを見た。


 白漆の半面の奥から、低く柔らかな声が返る。


「舞台は、神のためにあります」


「ユラさんのためにもあります」


「舞えぬ者を立たせれば、神前が乱れます」


「喰われた者を下ろせば、月のしたことを人が完成させます」


 言った瞬間、イロハ自身も息を呑んだ。


 月のしたことを、人が完成させる。


 それが、今まさに起きていることだった。


 月はユラから、神を迎える沈黙を奪った。


 けれど仮面籍庁は、ユラから舞台を奪う。


 喰われた傷を、白札で固定する。


 アリノリは、少しだけ沈黙した。


 その沈黙に、何かが揺れたように見えた。


 けれど、すぐに彼は札を取り上げた。


「面師イロハ。あなたの意見は記録します」


「意見じゃありません」


「しかし、判定は変わりません」


 白札が、《ユラノスズ》の面箱に置かれた。


 その瞬間、舞面の鈴紋がかすかに曇った。


 ユラが息を吸う。


 泣くかと思った。


 けれど、泣かなかった。


 彼女はただ、袖の中の鈴を強く握った。


 ちり、と小さく鳴る。


 それは舞台の鈴ではなかった。


 神を迎える音でもなかった。


 自分がまだここにいると知らせるための、かすかな音だった。


「ユラさん」


 イロハが呼ぶ。


 ユラは、わずかに顔を上げた。


「私は、まだ直すことを諦めていません」


 その言葉に、ユラの目が揺れる。


 アリノリの下した札は、取り消せない。


 少なくとも今は。


 でも、イロハはそう言わずにはいられなかった。


 ユラは小さく頷いた。


「……はい」


 その声は細かった。


 けれど、消えてはいなかった。


 下役が《ユラノスズ》の面箱に白札を添え、慎重に蓋を閉める。


 朱紐が結び直される。


 さっきまで舞の息を抱えていた面箱は、今は使用停止の箱になっていた。


 イロハは、その光景を目に焼きつけた。


 この場所では、人を怒鳴らない。


 面を壊さない。


 持ち主を責めない。


 ただ、札を置く。


 それだけで、人は舞台から降ろされる。


 アリノリは、次の書面へ視線を移した。


「続いて、暁刃戦面アカツキノハ


 イロハの胸が、さらに重くなる。


 次は、ハルマサの刀だ。


 月に喰われた者たちが、ひとりずつ制度の札に置き換えられていく。


 その流れを、止めなければならない。


 けれど今のイロハには、まだその方法が見えなかった。

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