第二節 ― 星読式面《ナナツジノホシ》
星読式面は、静かに箱の中へ納まっていた。
白木の面だった。
神楽面のような艶やかさも、戦面のような重さもない。けれど、軽いわけではなかった。表に刻まれた淡青の星図が、灯火ではなく星の光を吸っているように見える。
額に七つの星点。
それぞれの星点から細い線が伸び、頬、鼻筋、顎へ向かって交差している。辻文様だ。道が分かれ、また結び、どの方位へ進むべきかを面そのものが問いかけているようだった。
面紐は青銀の星糸で編まれている。
布ではない。金属でもない。光を撚ったような糸だった。動かさなくても、見る角度によって細く明滅する。
イロハは、思わず息を止めた。
美しい面だと思った。
ただ顔につける道具ではない。
空を読むために、顔を空へ近づける面。
面師小路の裏工房では、こういう面は滅多に触れない。職面や生面、欠けた神楽面なら何度も直してきた。けれど陰陽寮の式面は、役所の管理下にある。持ち主の家から気軽に持ち込まれるようなものではない。
セイランは、面へ触れる前に手を清めた。
青い符を指先に挟み、短く息を吹きかける。符は燃えずに、薄い光だけを残して消えた。
「星読式面」
彼は静かに言った。
「七方と交差方位を読むための式面です。通常の方位面よりも、個人の星筋に寄せて調整されています」
「星筋」
「生まれた時刻、家の方位、師から受けた式の系譜、使役する式神との経路。それらを総合したものです」
セイランは淡々と説明する。
イロハは頷いた。
「つまり、かなりあなた用の面なんですね」
「簡略化すれば、そうです」
「簡略化しないと?」
「三刻はかかります」
「簡略化でお願いします」
セイランは少しだけ眉を寄せた。
冗談が通じなかったのか、通じたうえで処理に困ったのかはわからない。
アヤメは横で表情を変えずに見ていたが、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
ヒヨリは机の端に座り、青い尾で星砂の瓶を軽く叩いていた。
セイランは面を持ち上げた。
「表には異常が見られません」
確かに、表は美しいままだった。
淡青の星図にも乱れはない。
七つの星点も揃っている。
交差する辻文様も、欠けてはいない。
もし表だけを見れば、これは完璧に整えられた陰陽寮の式面だった。
だが、イロハにはわかる。
月は、表に噛みつかないことがある。
ユラの神楽面も、内側に噛み跡があった。
ハルマサの《アカツキノハ》も、外側の白化より内側の傷が深かった。
役に触れる場所。
息が当たる場所。
面が持ち主を呼ぶ場所。
そこを、月は喰う。
「裏を見ます」
イロハが言うと、セイランはすぐに頷いた。
「どうぞ。ただし、直接触れるなら白符越しに」
「はい」
イロハは差し出された白符を指に巻いた。
いつもの白布とは感触が違う。陰陽寮の符は、紙なのに繊維の奥に冷たい光を含んでいる。触れると、指先の脈が少し遅くなるような感覚があった。
面を裏返す。
その瞬間、星見楼の空気が細く鳴った。
吊るされた式札が、さらさらと揺れる。
イロハは、面の内側を見た。
そこにも星図があった。
表の星図より淡く、使用者の息に触れるためか、木肌の奥に沈むように刻まれている。七つの星点が、内側にもある。
だが、そのうちの一つが白く濁っていた。
右上。
額の裏にあたる場所。
そこに、満月のような丸い月痕が浮かんでいる。
丸い。
白く、完全で、空の半月とはまるで違う形。
ただの染みではない。
星点のひとつを飲み込み、周囲の線まで白く滲ませている。
イロハの指先が、冷えた。
星読式面の内側から、こちらを覗く月。
それは、戦面の月痕とは少し違った。
《アカツキノハ》の月痕は、抜刀の瞬間を横から噛んでいた。鋭い歯で裂くような痕だった。
だが《ナナツジノホシ》の月痕は、丸く塞いでいる。
星が見えるはずの場所を、月が覆っている。
読むための点が、白い満月に塗り潰されている。
「この面も、噛まれています」
イロハは言った。
セイランの目が細くなる。
「式面がですか」
「いいえ」
イロハは月痕から目を離さなかった。
「読む役が」
「読む役……?」
「星を読む入口です」
セイランはすぐには答えなかった。
彼は面の内側を覗き込み、白い月痕を確認する。それから机の上に置いた記録紙を一枚めくった。
「昨夜の初期反応は子の刻三つ。方位盤の北東部に白月反応。星砂の沈降は通常の二倍。式札は東南へ二度傾きました。月齢、方角、時刻、使用者、式神反応。すべて記録しました」
「でも、何を失ったかは書いてありません」
イロハが言うと、セイランの筆が止まった。
「記録されていないものは、判定できません」
「記録される前に喰われたんです」
その言葉に、セイランの表情が硬くなった。
星見楼の歯車が、かちりと鳴る。
アヤメは黙っていた。
ヒヨリは尾を揺らしている。
セイランは、ゆっくり息を吐いた。
「あなたは、先ほどから“喰われた”と表現します」
「はい」
「比喩ですか」
「半分は」
「半分?」
「見えるんです。噛み跡みたいに」
イロハは《ナナツジノホシ》の内側を示した。
「ここ。星点のまわりが、ただ白くなっているんじゃありません。内側から食い込まれている。星を読む線が、そこで止まっている」
「線?」
「役の線です」
セイランは、明らかに納得していなかった。
「役の線という用語は、陰陽寮の記録にはありません」
「でしょうね」
「では、どう記録すればよいのですか」
イロハは少し考えた。
面師小路なら、客にこんな説明はしない。
欠けています。
息が通っていません。
役が薄くなっています。
仮に置きます。
それで伝わることもある。
けれど、セイランは違う。
彼は記録しなければ動けない人だ。
そして、記録できないからこそ今、困っている。
「星点のひとつが、月痕によって遮断されている」
イロハは言った。
「遮断」
「はい。星を読むための入口が、満月の形をした白化で塞がれている。たぶん、星が見えないんじゃなくて、星を見る前に月を見せられている」
セイランの筆が動いた。
「星を見る前に、月を見せられている……」
彼は書きかけて、眉をひそめる。
「これは比喩ですか」
「たぶん比喩じゃないです」
「困ります」
「私も困っています」
アヤメが小さく目を伏せた。
笑う場面ではない。
だが、あまりにも二人の噛み合わなさが露わだった。
セイランは、記録紙に丁寧な字で書き込んだ。
星読式面内側、第一星点に白月状痕。
星読入口の遮断と推定。
観測者イロハ=ナギ曰く「星を見る前に月を見せられている」。
そこまで書いてから、彼は顔を上げた。
「この場合、失われているのは何ですか」
イロハは《ナナツジノホシ》を見た。
白い満月。
塞がれた星点。
その周囲で途切れる淡青の線。
ユラは、神を迎える沈黙。
カンナは、宮の夜を整える役。
ハルマサは、刀を抜く入口。
では、セイランは。
この式面は、何を喰われているのか。
「星を読む前に、空へ聞くところ」
イロハは呟いた。
セイランの目がわずかに動く。
「空へ聞く?」
「はい。星って、ただ見るだけじゃないんでしょう」
彼女は、うまく言葉を探した。
「面を直す時も、いきなり削るわけじゃありません。まず見る。触る。前にどんな人がつけたか、どんな息が残っているかを聞く。面が何を言おうとしているかを待つ」
セイランは黙っている。
「星を読むのも、たぶん同じです。いきなり命じたり、決めたりするんじゃなくて、星がどう並んでいるか、何を示そうとしているかを聞く」
「陰陽寮では、それを観測と呼びます」
「なら、その観測の入口が噛まれています」
セイランの筆が止まった。
ヒヨリが、机の上で小さく鳴いた。
紙が擦れるような、かすかな声だった。
セイランはヒヨリを見る。
「どうした」
ヒヨリは答えず、《ナナツジノホシ》の内側をじっと見ている。
イロハは、その様子を見逃さなかった。
「その子、何か知っているんじゃないですか」
「ヒヨリは式神です。知っているというより、式の乱れに反応しているのでしょう」
「またそういう言い方をする」
「正確に言っています」
「でも、その子は嫌がってます」
「嫌がる、という感情設定はしていません」
ヒヨリの尾が、ぺしりとセイランの手首を叩いた。
今度はアヤメも少しだけ目を細めた。
セイランは咳払いをする。
「……反応が強い、という意味では、あなたの指摘は否定しません」
イロハはもう一度、面の内側へ視線を戻した。
白い月痕の縁が、わずかに揺れている。
満月の中に、かすかな線が見えた。
星図ではない。
丸い月の奥に、別のものが映りかけている。
イロハは近づこうとして、アヤメに腕を押さえられた。
「無理はしないでください」
「少しだけ」
「その“少しだけ”で、あなたはよく戻れなくなりかけます」
イロハは言い返せなかった。
第2話の空の面箱。
第3話の《アカツキノハ》。
どちらも、深く見すぎれば月に引かれた。
セイランがそれを聞き、眉を寄せる。
「戻れなくなりかけた?」
「白影宮で一度。アカツキ家でも一度」
アヤメが代わりに答えた。
「月痕を深く読むと、意識を持っていかれる危険があります」
セイランの表情が変わった。
「その情報は、先に共有してください」
「共有する前に、あなたが面を開けました」
「……以後、注意します」
彼はすぐに記録紙へ書き足した。
月痕深読時、観測者に意識牽引の危険あり。
イロハは、その字の細かさを見て、少しだけ感心した。
この人は、本当に記録する。
嫌味でも、形式でもなく、必要だから。
「セイランさん」
「はい」
「あなたは、月痕を見た時、何かできなくなりましたか」
その質問に、彼はすぐ答えなかった。
「できなくなった、とは」
「ハルマサさんは、剣術は覚えていました。でも刀を抜けなかった。ユラさんは舞を覚えていました。でも神を迎える沈黙だけが抜けていた。あなたは?」
セイランは、面箱の前で沈黙した。
視線が、一瞬だけヒヨリへ向く。
「……式神への命令が、一部通りにくくなっています」
「一部?」
「命令そのものは出せます。符も切れます。方位も指定できます」
「でも?」
セイランは、答えたくなさそうに唇を結んだ。
けれど、記録の人間だからだろう。
彼は嘘をつかなかった。
「ヒヨリが、従いません」
ヒヨリは机の上で、前足を揃えて座っていた。
まるで、最初からそのつもりだったというように。
「なぜ従わないのかは」
「不明です」
セイランは即答した。
そして少し遅れて、低く付け加える。
「通常なら、ありえません」
イロハは《ナナツジノホシ》の白い月痕を見た。
星を見る入口。
空へ聞く入口。
それが月に塞がれている。
なら、セイランが失いかけているのは、式神を従わせる力ではない。
従わせる前に、聞く力だ。
「たぶん」
イロハは言った。
「命じる前のところが、噛まれています」
「また入口ですか」
「はい」
「何の入口です」
イロハはヒヨリを見た。
紙狐は、じっとセイランを見ている。
主人を見る目ではなかった。
何かを待っている目だった。
「星や式神が何を言おうとしているか、聞く入口です」
セイランは、はっきりと不服そうな顔をした。
「陰陽師が式神に命じるのは当然です」
「でも、今は命じても動かない」
「異常のせいです」
「はい。その異常が、そこを噛んでいるんです」
セイランは口を開きかけ、閉じた。
理屈では納得していない。
けれど、現象として否定しきれない。
その顔だった。
アヤメが静かに言う。
「セイラン殿。今は、イロハ殿の言葉を一度仮説として置いてください」
「仮説」
「陰陽寮の記録にないなら、仮説として記録すればよいのでは」
セイランは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり頷く。
「……妥当です」
彼は筆を取った。
星読式面異常仮説。
失われているのは、星を読む技術ではなく、星・式神の反応を受け取る入口。
命令経路ではなく、観測前段階の応答経路に白月干渉あり。
イロハは、その言葉を覗き込んで首を傾げた。
「難しいですね」
「正確です」
「私の言葉のほうが短いです」
「短さより誤解の少なさを優先します」
「でも、月はたぶん読んでくれませんよ」
セイランは筆を止めた。
それから、真面目な顔で言った。
「月に読ませるために書いているのではありません」
イロハは、思わず少し笑った。
「それもそうですね」
ヒヨリが小さく尾を振った。
その時、《ナナツジノホシ》の内側に浮かぶ白い満月が、かすかに明るくなった。
星見楼の式札が、一斉に揺れる。
セイランはすぐに面へ手を伸ばした。
「反応が上がっています」
アヤメが刀へ手を近づける。
イロハは、面の内側を見た。
満月の白が、星点をさらに深く覆おうとしている。
まるで、こちらの会話を聞いて、塞いだ場所を広げようとしているようだった。
「離れてください」
セイランが言う。
イロハは一歩下がった。
だが、目は逸らさなかった。
この面も、まだ死んでいない。
星を読む入口は噛まれている。
けれど、ヒヨリはまだセイランを見ている。
式札も、方位盤も、完全には止まっていない。
喰われたのは全部ではない。
なら、まだ読める。
ただし、セイラン自身が、命じる前に聞くことを思い出せれば。
星読式面は、箱の中で淡く青く光っている。
その内側に棲みついた満月が、静かに白い歯を隠していた。




