第一節 ― 星見楼の若き陰陽師
星見楼の中は、夜でありながら明るかった。
灯火の明るさではない。
紙の白。
墨の黒。
星砂の淡い青。
青銀の糸に吊られた式札の反射。
方位盤の歯車に残る、磨かれた金属の光。
それらが、月光を使わずに夜を照らしている。
白影宮の光は、御簾や白木に沈む。
アカツキ家の光は、朱漆と黒鉄に弾かれる。
けれど陰陽寮の光は、紙の上に留まる。
記録されるための光だった。
壁には、何枚もの暦図が掛けられている。
月齢、星辰、方角、禁忌日、祭礼の吉凶。細かな文字と線が、夜の天を帳面に押し込めるように並んでいた。
天井からは、青銀の糸で吊られた式札が下がっている。
札は風もないのに、ときおり小さく揺れた。
そのたびに、さらさら、と紙の触れ合う音がする。
イロハは、無意識に自分の道具袋を握り直した。
ここは面師小路ではない。
木粉の匂いも、漆の匂いも、削り屑の温かさもない。
欠けた面を膝に乗せ、客の声を聞きながら直す場所ではない。
ここでは、面は数字と方位で測られる。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、イロハの足裏には、妙な居心地の悪さが残った。
セイラン=ナナツジは、机の上に面箱を置いたまま、すぐには開けなかった。
彼は若い。
だが、若さに任せて慌てるような人間ではなかった。
緊急の異常が起きているにもかかわらず、机の上に置かれた紙は整えられ、筆は同じ向きに並べられ、星砂の入った小瓶には蓋がされている。
恐れていないのではない。
恐れているからこそ、整えている。
イロハはそう見た。
セイランは、まずイロハへ向き直った。
「面師小路の方ですね」
「はい」
「陰陽寮の式面は、通常の職面とは構造が違います」
彼の声は丁寧だった。
けれど、そこには距離があった。
面師小路の面師。
資格剥奪者ロウセツ=カガミの弟子。
白影宮に呼ばれたとはいえ、陰陽寮の内側から見れば、まだ素性のはっきりしない職人。
そう見られていることは、イロハにもわかった。
「見ればわかります」
イロハが答えると、セイランの眉がわずかに動いた。
「……見れば、ですか」
「はい」
「式面は、外見だけでは判定できません。材、刻まれた方位線、使用者との連結、式神への命令経路、暦との同期。見るべき項目は多い」
「だから、見ます」
セイランは一瞬、言葉を止めた。
肩の紙狐が、小さく耳を動かす。
アヤメが横から静かに言った。
「イロハ殿は、白影宮とアカツキ家の白化面を診ています」
「承知しています」
セイランはすぐに答えた。
だが、その目はイロハから逸れない。
「だからこそ、感覚ではなく記録が必要です」
イロハは、その言葉に少しだけ胸を刺された。
感覚。
そう言われれば、確かにそうなのかもしれない。
面の内側に触れ、息の残りを読む。
月痕の冷たさから、喰われた役の位置を探す。
仮札を置いて、失われかけた入口へ橋をかける。
そのどれも、陰陽寮の帳面に載るようなものではない。
けれど、それでユラの舞は一節だけ戻った。
カンナは香の役を思い出した。
ハルマサは一度だけ、自分の言葉で刀を抜いた。
記録されていなくても、そこにあるものはある。
「記録は大事です」
イロハは言った。
セイランが意外そうに目を細める。
「否定しません。ただ、記録に残っていないから存在しない、とは思いません」
「陰陽寮では、記録できないものは扱えません」
「扱えないものが、人を喰っているんです」
その言葉に、星見楼の空気が少し冷えた。
アヤメは止めなかった。
セイランも怒らなかった。
ただ、机の上の記録紙へ視線を落とした。
「……あなたの言うことは、乱暴です」
「よく言われます」
「しかし、完全に間違っているとも言えない」
セイランは、方位盤の中心に置かれた小式面を見る。
内側に満月を宿した式面。
「昨夜から、陰陽寮の記録は矛盾しています。暦は半月。天測も半月。星の配置も半月の夜として整っている。にもかかわらず、式面の内側には満月が出た」
彼は机上の紙を一枚取った。
細かな字で、時刻、方位、温度、式札反応、星砂の沈み方まで書き込まれている。
「私は、起きたことを可能な限り記録しました。ですが、記録すればするほど、原因から遠ざかっている気がする」
イロハは、セイランを見た。
彼は嫌味な役人ではなかった。
記録を信じている。
理屈を信じている。
方位や暦や式の積み重ねによって、世界を読めると信じている。
だからこそ、記録できない異常に怯えている。
その怯えを、整った字と丁寧な言葉で抑えている。
「セイラン殿」
アヤメが言った。
「今、陰陽寮で異常が出ているのは、この方位盤の式面だけですか」
「いいえ」
セイランは短く答えた。
「星読式面にも出ています」
彼は面箱へ手を置いた。
白木ではなく、濃い青に塗られた細長い箱。角には銀の金具。蓋には七つの辻が交差する紋が描かれている。
開ける前に、セイランは言った。
「先に断っておきます。陰陽寮の式面は、職面や戦面とは違います」
「先ほども聞きました」
「重要なので、もう一度言います」
イロハは少し目を瞬いた。
セイランは真剣だった。
「式面は、社会的な役を示すだけのものではありません。方位、暦、星、式神の経路へ、自分の意識を合わせるための器です。誤って触れれば、あなた自身の方位感覚にも影響が出る可能性があります」
「私が月に引かれるかもしれない、ということですか」
「その可能性があります」
アヤメの表情が硬くなる。
「ならば、私が先に確認します」
「いけません」
セイランは即座に言った。
「式面の内側を見ること自体が危険です。役に揺らぎのある方ほど、影響を受けやすい」
アヤメの手が、腰の札へ触れた。
第2話の夜、彼女の役も揺らいだ。
自分が誰を守る役なのか、一瞬だけ見失った。
セイランはそれを知っているわけではないだろう。
けれど、言葉は正確に刺さった。
アヤメはわずかに目を伏せた。
「……では、イロハ殿が適任だと?」
「適任とは言っていません」
セイランは正直に言った。
「ただ、白化面を診た経験がある。現時点では、最も異常に近い見立てを持っている」
「ずいぶん遠回しな評価ですね」
イロハが言うと、セイランは真顔で答えた。
「評価ではなく、状況整理です」
アヤメが小さく息を吐いた。
少しだけ、張りつめていた空気が緩む。
肩の紙狐が、セイランの袖から机へ降りた。
白い紙でできた小さな足が、星砂のこぼれた机を踏む。足跡は残らない。ただ、青い尾がひらりと揺れた。
「その子は?」
イロハが尋ねる。
「紙狐です。私の式神です」
ヒヨリは、イロハをじっと見た。
紙の狐なのに、目だけは妙に生きている。描かれた墨の点が、こちらを測るように動いた気がした。
「式神にも、面があるんですか」
「式神そのものに面はありません。ただし、式面を通して命令経路を整えます」
「命令」
イロハが繰り返すと、ヒヨリの耳がぴくりと動いた。
セイランは、それに気づかないふりをした。
「陰陽師と式神の関係は、契約と命令で成り立ちます。無秩序に動かせば、式は乱れる」
「でも、その子は嫌そうですよ」
「ヒヨリは紙狐です。嫌そう、という判断は不要です」
ヒヨリの尾が、ぺしりと机を叩いた。
セイランは少しだけ咳払いをした。
「……時に、反応が過剰なだけです」
イロハは、ほんの少し笑いそうになった。
けれど、すぐに表情を戻す。
ここで笑えるほど、状況は軽くない。
星見楼の中央の方位盤は、静かに歯車を鳴らしている。
かちり。
かちり。
外の月は半月。
けれど、式面の内側には満月。
陰陽寮の理論も、面師の感覚も、まだこの異常を完全には掴めていない。
「では、見せてください」
イロハは言った。
「星読式面を」
セイランは頷いた。
面箱の蓋に手をかける。
その直前、彼はもう一度だけ言った。
「感覚で見たことでも、必ず言葉にしてください。記録します」
「わかりました」
「比喩ではなく」
「たぶん、比喩にしないと伝わらないものもあります」
セイランは困ったように眉を寄せた。
「では、比喩である箇所は比喩と明記します」
「律儀ですね」
「記録ですから」
そう言って、彼は面箱を開けた。
青銀の光が、箱の内側から薄く広がる。
星読式面。
その面が現れた瞬間、星見楼の式札が一斉に揺れた。
さらさら、と紙が鳴る。
ヒヨリが、セイランの袖の中へ半分だけ隠れた。
イロハは、息を吸った。
感覚と記録。
木粉と星砂。
面師小路と陰陽寮。
その二つが、今、同じ白い月痕を見ようとしていた。




