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序節 ― 暦にない満月

 暦とは、月を縛るための帳面ではない。


 人が、夜を恐れすぎぬように、月の顔を数えた約束である。


 今宵は細い。

 明日は少し太る。

 やがて満ち、やがて欠け、また戻る。


 そう数えることで、人は夜に名前を与えてきた。


 けれど、帳面にない満月が面の裏に棲むならば、恐れるべきは空ではない。


 恐れるべきは、月を映してしまう顔のほうである。


 アカツキ家の中庭には、まだ水の匂いが残っていた。


 鉄鉢の水面に映っていた、空にない満月は、ハルマサ=アカツキの一閃によって断たれた。


 けれど、それで月が消えたわけではない。


 暁刃戦面アカツキノハの右目元には、白い月痕が残っている。深朱の奥に戻った熱は確かにあった。だが、その熱の縁に、白い噛み跡はまだ食い込んでいた。


 イロハ=ナギは、白布に包まれた戦面を見下ろしていた。


 一度だけ刀は抜けた。


 ハルマサ自身の言葉で。


 ここから先へ、月を通さない。


 その言葉によって、面は彼を呼び戻した。


 しかし、一度だけだ。


 完全に戻ったわけではない。

 月痕は消えていない。

 面紐の白化も残っている。


 役は、まだ噛まれている。


 そんな中で、陰陽寮からの急使がもたらした報せは、さらに重かった。


 暦が合わぬ。


 昨夜は半月のはず。


 しかし、方位盤の式面の内側に、満月が出た。


 アヤメ=シラハは、その報告を聞いた瞬間から表情を変えていなかった。


 白影宮の近習としての顔。

 刀を持つ者としての顔。

 そして、サヨ=ミカゲの身に迫るものを察した者の顔。


 どれも重なって、彼女の横顔を硬くしていた。


「陰陽寮へ向かいます」


 アヤメは短く言った。


 アカツキ家の年長者が眉を寄せる。


「夜分に、ですか」


「今が夜分だからです」


 アヤメの声には迷いがなかった。


「半月の夜に満月が出た。その満月が、面の内側に現れている。ならば、夜が明けてからでは遅い」


 イロハは道具袋を閉じた。


 指先には、まだ仮札を通して受けた白い痺れが残っている。


 ユラの神楽面。

 白影宮の空の面箱。

 カンナの香役。

 アヤメの宮中札。

 ハルマサの戦面。

 そして今度は、陰陽寮の式面。


 月は、ひとつの場所に留まっていない。


 水にも映る。

 鞘口にも映る。

 面の内側にも映る。


 ならば、方位盤にも映るのだ。


 イロハとアヤメは、陰陽寮の急使に導かれ、アカツキ家を出た。


 帝都カミザの夜は静かだった。


 けれど、その静けさは白影宮の夜とも、武家屋敷の夜とも違っていた。


 都全体が、息を潜めているようだった。


 黒漆の門が閉じられた商家。

 月除けの布を掛けた面屋。

 水盆を伏せた家々。

 戸口に吊るされた小さな祈面。

 役面市の通りには、昼間あれほど並んでいた面箱がひとつも見えない。


 誰もが、何かを恐れ始めている。


 けれど、その恐れにまだ名前はない。


 名を喰う月。


 その言葉が、都の隅々まで届くのは時間の問題だった。


 東郭を抜け、官庁の区画へ入ると、空気が変わった。


 陰陽寮は、帝都の北東寄りにある。


 白影宮ほど奥まっておらず、武家屋敷ほど開けてもいない。高い塀の中に、星見楼、暦殿、式札庫、方位庭が配置されている。門には黒と青銀の紋があり、中央に七つの星点を結ぶ辻文様が刻まれていた。


 門前には、篝火が焚かれている。


 火の上には、火除けではなく月除けの符が吊るされていた。青い紙に墨で方位が書かれ、その上から朱で斜めの線が引かれている。


 急使が門番へ声をかけると、門はすぐに開いた。


 中に入った瞬間、イロハは墨の匂いを感じた。


 紙。

 墨。

 乾いた木。

 星砂。

 そして、わずかな水の気配。


 陰陽寮の夜は、音が少なかった。


 けれど静かなのではない。


 紙が擦れる。

 筆が走る。

 小さな歯車が回る。

 吊るされた式札が、風もないのにかすかに揺れる。


 白影宮が沈黙の宮なら、ここは記録の夜だった。


 何かを測り、書き、封じ、位置づけるための場所。


 イロハは、自然と肩に力が入るのを感じた。


 面師小路の裏工房とは違う。

 ここは制度の内側だ。


 しかも、ただの役所ではない。


 暦と方位を読む者たちの場所。

 この国の祭礼や儀式が、いつ、どこで、どの向きに行われるべきかを定める場所。


 もしここが月に噛まれているなら、異常はもう個人の役だけでは済まない。


 陰陽寮の奥、星見楼へ通される。


 楼と呼ばれてはいるが、派手な建物ではない。細い柱と青銀の梁、星を読むための高窓、中央には大きな方位盤が据えられている。周囲には、大小さまざまな式面が並んでいた。


 神楽面や戦面とは違う。


 式面は、顔を作るというより、方向を合わせるための面に見えた。


 表情は薄い。

 だが、額や頬に方位線、星点、暦符が刻まれている。

 目元には、見るためというより、読まれるための細い孔がある。


 その中央で、若い陰陽師が待っていた。


 セイラン=ナナツジ。


 七辻 青嵐。


 年若いが、衣の着方に乱れはない。青黒い陰陽寮の官衣に、白い式札を幾枚も差している。髪はきっちり結ばれ、目元には疲労と緊張が浮かんでいた。


 彼の肩には、小さな紙狐が乗っていた。


 白い紙を折って作ったような狐。耳と尾に淡い青の線が走っている。紙なのに、呼吸をしているように見えた。


 セイランは、アヤメを見ると礼をした。


「白影宮、アヤメ=シラハ様。お待ちしておりました」


「状況は」


「悪化はしていません。ですが、消えてもいません」


 彼の視線が、次にイロハへ向く。


「あなたが、面師イロハ=ナギ殿ですね」


「はい」


「白影宮とアカツキ家の白化面を診たと聞いています」


「診ました」


 セイランの目は鋭かった。


 敵意ではない。


 ただ、まだ信じてはいない目だった。


「こちらへ」


 彼は方位盤の前へ案内した。


 大きな盤だった。


 木と金属と紙符を組み合わせた、複雑な円。外側には十二方位、内側には星辰、さらにその奥に小さな式面が嵌め込まれている。式面は人の顔ほど大きくはない。掌より少し大きい程度の小面で、盤の中心へ向かって伏せられている。


 セイランが、慎重にそれを取り外した。


「これが、異常を示した方位盤の式面です」


 彼は小面を裏返す。


 イロハは息を止めた。


 内側に、満月があった。


 白い。


 丸い。


 完全な満月。


 空には半月しかないはずなのに、式面の裏には、月が棲みついたように浮かんでいた。


 ただ描かれているのではない。


 光っている。


 内側から、淡く。

 面の奥に、別の夜があるかのように。


 アヤメの手が、わずかに刀へ近づく。


 イロハは、その満月を見つめた。


 白影宮の面箱の月。

 アカツキ家の鉄鉢に映った月。

 鞘口に潜んだ月。


 同じだ。


 けれど、これは水ではない。刃でもない。面の内側だ。


 月はまた、入口を見つけている。


 セイランが言った。


「昨夜は半月でした」


 声は落ち着いている。

 だが、その奥に強い緊張があった。


「暦も、星も、間違っていません」


 彼は机の上に、数枚の記録紙を並べる。


 月齢表。

 天測記録。

 星見楼の観測符。

 夜半の方位記録。


 どれも同じ結果を示していた。


 半月。


「陰陽寮の暦に誤りはありません。天測も一致しています。空の月は、半月でした」


 セイランは、式面の内側を見た。


「けれど、式面の内側だけが満月を示しています」


 イロハは、満月の縁へ触れようとして、手を止めた。


 触れれば、また見える。


 だが今は、まだ早い。


「いつからですか」


「昨夜、アカツキ家より急使が出る少し前です。方位盤が北東へ勝手に回転し、式面が熱を持ちました。内側を確認したところ、これが」


「北東」


 アヤメが呟く。


「鬼門ですか」


「通常なら、そう判断します」


 セイランは答える。


「しかし、鬼門面には反応がありません。反応したのは、方位盤の式面と、私の星読式面です」


「あなたの面も?」


 イロハが見ると、セイランは一瞬だけ口を閉ざした。


 それから、腰に下げた面箱へ手をやる。


「後ほどお見せします」


 イロハは頷いた。


 焦ってはいけない。


 今はまず、この式面だ。


「この満月は、外側には出ていないんですね」


「はい。表面には異常なし。内側だけです」


「役に触れる側だけ」


 イロハが呟くと、セイランの眉が動いた。


「役に触れる側?」


「面の内側は、顔や息に触れる場所です。戦面なら、抜刀の呼び声が通る。神楽面なら、舞い出す入口が通る」


 イロハは式面を見た。


「この面なら、方位を読む入口が通るんじゃないですか」


 セイランは、少しだけ沈黙した。


「……陰陽寮では、式面を『意識を方位へ合わせる器』と定義しています」


「同じことです」


「ずいぶん簡単に言いますね」


「難しく言えば、月は待ってくれるんですか」


 セイランの表情が変わった。


 アヤメが小さく息を吐く。


 イロハは、言ってから少しだけ後悔した。


 だが、撤回はしなかった。


 月痕は待たない。


 白化は、役所の定義が整うまで止まってくれない。


 セイランは感情を押さえるように目を伏せた。


「失礼しました。記録と定義に頼らなければ、陰陽寮は機能しません」


「それは、わかります」


 イロハは言った。


「でも、記録される前に喰われるものもあります」


 その言葉に、セイランは顔を上げた。


 方位盤の式面の内側で、満月が淡く揺れた。


 まるで、その言葉を聞いていたかのように。


 肩の紙狐が、小さく尾を震わせた。


 セイランはそれに気づき、そっと指を添える。


「ヒヨリ?」


 紙狐は返事をしなかった。


 ただ、式面の内側に浮かぶ満月をじっと見ている。


 イロハの胸に、冷たい予感が降りた。


 この月は、ただ方位を狂わせているだけではない。


 陰陽寮の誰かの役にも、もう触れている。


 アヤメが静かに言った。


「セイラン殿。白影宮、アカツキ家、そして陰陽寮。現象は広がっています」


「承知しています」


「では、隠さず見せてください」


 セイランは、しばらく黙った。


 それから、腰の面箱を外し、机に置く。


「私の星読式面ナナツジノホシにも、異常が出ています」


 面箱の蓋に刻まれた七辻の紋が、篝火の光を受けて青く光った。


 イロハは、その箱を見た。


 新しい事件が始まった。


 神楽でも、白影宮でも、武家でもない。


 暦と方位を読む場所で。


 帳面にない満月が、面の裏に棲みついている。

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