終節 ― 方位盤の満月
中庭の水は、しばらく白く濁っていた。
鉄鉢の中で断たれた満月は、もう形を結ばない。波紋が消えたあとも、水面には薄い白が残り、底の黒鉄をぼんやりと曇らせていた。
ハルマサ=アカツキは、刀を抜いた。
その事実は、アカツキ家の者たちの間に静かな動揺を残していた。
抜けなかった刀が、一度だけ抜けた。
鉄鉢の水面に映った、空にない満月だけを断った。
誰も斬らず、誰も傷つけず、ただ月の入口を断った。
けれど、それで終わりではなかった。
暁刃戦面の右目元には、まだ白い月痕が残っている。昼よりはわずかに薄くなった。迷いに覆われていた目元にも、深朱の色が少し戻った。
だが、消えてはいない。
面紐の白化も、そのままだ。
イロハは白布の上に戦面を戻し、内側に置いた仮札をそっと外した。
札は半分ほど焦げていた。
黒く焼けたのではない。
白く焼けていた。
紙の端が、月光に噛まれたように薄く欠けている。
仮札を長く置き続ければ、今度は札を通して面そのものがさらに喰われるかもしれない。仮置きは、あくまで橋だ。橋を架けたままにすれば、向こう側からも渡ってくる。
イロハは焦げた札を白布に包み、道具袋へしまった。
ハルマサは、その様子を黙って見ていた。
面は戻ったのか。
自分は戻ったのか。
その問いが、彼の顔に浮かんでいる。
けれど、イロハは安易に頷けなかった。
「この面は、まだ治っていません」
イロハは言った。
ハルマサは静かに頷いた。
「はい」
その声には、落胆はある。
しかし、昼間のような絶望ではなかった。
一度だけでも刀を抜いた。
それが、彼の背をほんの少し支えている。
年長の武士が低く言った。
「仮面籍庁への届け出は避けられぬ」
中庭の空気が再び重くなる。
「戦面の白化。抜刀不能。役の不安定。これだけ揃えば、届けぬわけにはいかぬ」
別の家臣が続ける。
「預かり処分になるやもしれません」
「番衆勤務も停止であろう」
「封役の判断が出る前に、こちらから申告すべきだ」
封役。
今度は、その言葉がはっきり場に出た。
ハルマサの手が、胸元の番衆札へ伸びる。
昼間のように外そうとはしなかった。
ただ、そこにあることを確かめるように、指先で握った。
「処分は、受けます」
彼は言った。
声は静かだった。
「戦面に月痕が残っている以上、番衆として立てる状態ではありません。届け出が必要なら、従います」
アヤメは黙って聞いていた。
その横顔は厳しい。
彼女は、ハルマサが一度刀を抜いたことを認めている。けれど、それだけで帝都警護に戻せるほど甘くもない。
イロハにも、それはわかった。
守る役は、美しい言葉だけでは立てない。
人を守る役を持つ者が、役の入口を喰われたまま前線に戻れば、本当に誰かが傷つく。
しかし。
「この面は、まだ死んでいません」
イロハは言った。
ハルマサが顔を上げる。
「戻るのですか」
「戻す、というより」
イロハは《アカツキノハ》を見た。
深朱の戦面。
白く噛まれた右目。
その奥に、まだ消えていない覚悟。
「あなたが、もう一度呼べるようにするんです」
「わたしが」
「はい。面はあなたを覚えています。でも、呼ぶ声を噛まれている。だから、次はあなたのほうから呼び返す必要があります」
ハルマサは、白布の上の戦面を見つめた。
「呼び返す」
「今日、あなたは一度だけ、それをしました」
イロハは、鉄鉢の水面を見た。
もう満月はない。
欠けた空の月だけが、歪んで映っている。
「ここから先へ、月を通さない。あれは、あなた自身の言葉でした」
ハルマサの喉が、わずかに動いた。
その言葉を口にした瞬間を、彼自身も思い返しているのだろう。
家のため。
番衆のため。
帝都の秩序のため。
どれも正しい。
けれど、そのどれでも刀は抜けなかった。
小姓と女中たちを見て、月をここから先へ通したくないと思った時、初めて刃は鞘を離れた。
「処分を受けることと、役を手放すことは違います」
イロハは言った。
「仮面籍庁へ届けることになっても、番衆勤務が止まっても、この面を死んだものとして扱わないでください」
年長の武士が眉を寄せる。
「面師殿。それは役所の判断次第では」
「役所の判断は、役所の判断です」
イロハは振り返った。
怖くないわけではなかった。
仮面籍庁という名だけで、胸の奥に重いものが生まれる。ロウセツの資格剥奪。自分の面の秘密。制度の外側に立つ者への冷たい目。
けれど、言葉を止めなかった。
「でも、面がまだ役を覚えているかどうかは、面を診なければわかりません」
アヤメが、わずかにイロハを見た。
その目には、昨夜よりはっきりした評価があった。
無鉄砲だと思っているのかもしれない。
危ういと思っているのかもしれない。
それでも、今の言葉を否定はしなかった。
その時、庭の外から足音が近づいた。
白影宮の使いだった。
アヤメがすぐに反応する。
「白影宮から?」
「はい」
使いの女房は息を整え、丁寧に膝をついた。
「サヨ様より、ハルマサ=アカツキ様へ」
差し出されたのは、小さな文だった。
白い紙。
月除けの雲紋が、淡く端に刷られている。
封には白影宮の印。
ハルマサは一瞬、戸惑った。
「わたしへ?」
アヤメが頷く。
「受け取ってください」
ハルマサは両手で文を受け取った。
封を開く手は、少し震えていた。
中に記されていた言葉は、短かった。
あなたは逃げたのではありません。
刀を抜こうとして、役を奪われたのです。
ただ、それだけだった。
だが、ハルマサはその文を長く見つめていた。
まるで、その二行の中に、自分が一日中探していた答えの入口があるかのように。
サヨ=ミカゲは、この場にはいない。
ハルマサの刀を見たわけでもない。
戦面を診たわけでもない。
鉄鉢の満月を断つ一閃を見届けたわけでもない。
それでも、彼女は知っていた。
役を喰われた者が、何を言われると一番苦しいのかを。
自分が逃げたのではないと、誰かに言ってもらえなければ、喰われた役を自分で手放してしまうことを。
ハルマサは、文を畳まなかった。
そのまま、額に近づける。
そして、深く頭を下げた。
忠誠ではない。
まだ、そう呼ぶには早い。
彼は白影宮の皇女に仕えると誓ったわけではない。サヨのために刀を抜くと決めたわけでもない。
けれど、その文を受け取った瞬間、彼の中に静かな敬意が生まれた。
面を持たない皇女。
それなのに、役を喰われた者の痛みを知っている人。
ハルマサは、低く言った。
「この御言葉、忘れません」
アヤメは何も言わなかった。
ただ、その横顔がわずかに柔らかくなる。
イロハは、その変化を見ていた。
サヨは、白影宮にいながら、人の役を呼ぶ。
それは面を持つ者の力ではない。
まだない役へ向かう彼女自身の力なのかもしれない。
その時、アカツキ家の外門で、また蹄の音がした。
夜の中庭に、緊張が戻る。
今度は白影宮の使いではなかった。
門番の声が響く。
「陰陽寮より急使!」
その名に、イロハは顔を上げた。
陰陽寮。
第六節で、彼女自身が口にしたばかりの名だった。
暦を見る者たち。
星と方位を読む者たち。
月の満ち欠けを記録する者たち。
そこから、夜のうちに急使が来る。
良い知らせであるはずがなかった。
アカツキ家の者が使者を中庭へ通す。
陰陽寮の使いは、息を切らしていた。衣の裾には夜露がつき、手には封じ紐の巻かれた小さな筒を抱えている。顔色は青い。
彼はアヤメを見て、次に年長の武士を見た。
「白影宮の方がこちらにおられると聞き、急ぎ参りました」
アヤメが問う。
「何があったのですか」
使いは、喉を鳴らした。
「暦が合いません」
その一言で、イロハの背が冷たくなった。
「昨夜は半月のはず」
使いは続ける。
「陰陽寮の暦でも、天測でも、半月に相違ありません」
アヤメの目が鋭くなる。
「しかし?」
使いは筒を開け、中から薄い紙を取り出した。
そこには、方位盤の写しが描かれていた。中央に方位、周囲に星辰、そして式面の内側を示す小さな円。
その円の中に、白く満ちた月が描かれている。
使いの声が震えた。
「しかし、方位盤の式面の内側に、満月が出ました」
中庭の空気が止まった。
鉄鉢の水面。
刀の鞘口。
白影宮の空の面箱。
そして、陰陽寮の方位盤。
満月ではない夜に、満月が出る。
役の入口を喰う月が、とうとう暦の裏へまで入り込んだ。
アヤメが低く言った。
「今度は、陰陽寮ですか」
その声には、疲れではなく、覚悟があった。
イロハは《アカツキノハ》を見た。
白く残った月痕。
少しだけ薄れたとはいえ、まだ面の右目に食い込んでいる。その白は、まるで次の場所を示す印のようだった。
月は、舞台だけを見ているわけではなかった。
宮の箱だけを見ているわけでもない。
武家の刀だけでもない。
暦。
方位。
式面。
この国が役を定める、さらに奥の仕組みにまで、月は歯を立て始めている。
イロハは、まだ冷たい指先を握った。
「月は、刀の鞘の中にも、暦の裏にもいるんですね」
誰もすぐには答えなかった。
空には、欠けた半月が静かに浮かんでいる。
けれど鉄鉢の底にも、戦面の内側にも、方位盤の写しにも、満月の痕が残っている。
ハルマサは、サヨからの文を胸元にしまい、《アカツキノハ》へ手を添えた。
刀を抜けた。
けれど、月はまだ終わっていない。
イロハは白布をかけた戦面を見つめた。
まだ喰われていないものがある。
その事実だけを頼りに、次の月痕へ向かわなければならない。
第三話 ― 抜けない刀の戦面 了




