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第八節 ― 一度だけ抜けた刀

 その夜、アカツキ家の中庭に鉄鉢が置かれた。


 稽古場ではなかった。


 稽古場は、刀を学ぶ場所だ。

 型を繰り返し、足を運び、敵の間合いを知る場所。


 だが、今必要なのは型ではない。


 ハルマサ=アカツキが、何のために刀を抜くのか。


 それを問うには、閉じた稽古場では足りなかった。


 中庭には、白砂が敷かれている。庭石の脇には低い松があり、奥には小さな灯籠が並んでいた。昼には武家屋敷の硬さを少しだけ和らげていた庭も、夜になると影が深い。


 空には、半月が出ていた。


 昨夜と同じ。


 欠けた月。

 細く、静かな月。


 けれど、中庭の中央に置かれた浅い鉄鉢の水面には、満月が映っていた。


 空にない月。


 白く、丸く、あまりにも完全な月。


 それを見た瞬間、屋敷の者たちが息を呑んだ。


 黒布で覆って保管していた水は、イロハの指示で再び鉄鉢へ戻された。危険は承知の上だった。月がどこから噛むのか、どうすればその入口を断てるのかを確かめるには、昨夜と同じ通り道を開く必要があった。


 ただし、今回は違う。


 ハルマサはひとりではない。


 イロハがいる。

 アヤメがいる。

 そして《アカツキノハ》の内側には、焦げかけた仮札が置かれている。


 完全な修復ではない。


 ほんの一度、面がハルマサを呼べるようにするための仮の橋。


 ハルマサは、中庭の端に立っていた。


 戦面アカツキノハを帯びている。


 深朱の面は夜の中で沈んだ色を帯び、右目元から頬へかけて走る白い月痕だけが、不気味に浮かんで見えた。面紐の一部にも、まだ淡い白化が残っている。


 だが、面は眠っていない。


 昼に見た時よりも、わずかに熱が戻っている。


 イロハにはそう感じられた。


 ハルマサの手は、刀の柄に近いところで止まっている。


 触れてはいない。

 まだ。


 アヤメは少し離れた位置に立っていた。


 もし役なき抜刀が起きれば、止めるために。


 だが、彼女の刀も抜かれてはいない。


 ハルマサを疑っているのではない。

 けれど、甘く見てもいない。


 その距離だった。


 屋敷の者たちは、縁側や廊下の奥から中庭を見守っている。年長の武士たち。家臣たち。若い稽古衆。誰も大きな声は出さない。


 そのさらに奥に、幼い小姓たちと女中がいた。


 本来なら、こんな場に出てくるべきではなかったのだろう。だが異変は屋敷中に知れ渡っている。彼らは柱の陰に身を寄せ、怯えた目で鉄鉢の満月を見ていた。


 イロハは、その姿を見た。


 そして、ハルマサも見た。


 面の奥で、彼の視線がわずかに揺れる。


 鉄鉢の水面に、空にない満月が浮かんでいる。


 白い月は、静かに光を強めた。


 水面から、細い歯のような光が伸びる。


 白影宮の面箱で見たものと同じ。

 《アカツキノハ》の内側を噛んだものと同じ。


 月は、今度も抜刀の入口を探している。


 ハルマサの戦面の月痕が、白く光った。


 彼の手が、柄へ伸びる。


 鯉口へ触れる。


 その瞬間、指が止まりかけた。


 イロハは声を出した。


「家のためではなく」


 ハルマサの肩が動く。


「番衆のためでもなく」


 イロハは鉄鉢の水面を見た。


 満月が、こちらを見ているようだった。


 月には目などない。

 それでも、見られている。


「今、誰を通したくないのかを見てください」


 ハルマサの呼吸が乱れた。


 月痕がさらに白く光る。


 面の右目が、迷う。


 アヤメが続けた。


「守る役は、誰かに命じられるだけでは戻りません」


 その声は厳しかった。


 けれど、そこには昨夜サヨに呼び戻された者だけが知る重みがあった。


「家が命じたから。番衆札があるから。帝都の秩序だから。その答えだけでは、月に噛まれます」


 ハルマサは動かない。


 だが、逃げてもいない。


 アヤメは静かに言った。


「あなたが、何を通したくないのか。それを見てください」


 中庭の奥で、幼い小姓が小さく肩を震わせた。


 女中がその子を抱き寄せる。


 彼らは、ハルマサを責めてはいなかった。


 ただ怯えていた。


 鉄鉢に映る満月に。

 白く光る戦面に。

 刀が抜けるかもしれないこの場に。


 そしておそらく、刀が抜けなければ月が屋敷の奥へ入ってくることにも。


 ハルマサの視線が、そこへ向いた。


 面の奥で、彼の呼吸が変わる。


 イロハは、仮札が熱を持つのを感じた。


 《アカツキノハ》の内側に置いた仮札が、月痕と朱の役の線の間で震えている。白い歯がそこへ噛みつこうとしている。けれど、まだ折れていない。


 ハルマサの手が、柄を握った。


 鯉口を切る。


 かちり、と音がした。


 そこで、また止まる。


 月が強く光った。


 鉄鉢の水面から、満月が浮き上がるように見えた。実際に水から離れたわけではない。だが、白い光だけが薄く立ち上がり、ハルマサの面へ伸びる。


 右目元の月痕が、白く裂ける。


 イロハは息を詰めた。


 危ない。


 このままでは、月が仮札を通って抜刀の形だけを引き出す。


 役なき抜刀になる。


 アヤメの手が、刀の柄へ近づいた。


 だが、その前に。


 ハルマサが、言った。


「ここから先へ」


 声は小さかった。


 だが、借り物の言葉ではなかった。


 彼の目は、家紋を見ていない。

 番衆札も見ていない。

 年長の武士たちの顔も見ていない。


 中庭の奥で怯える、小姓と女中たちを見ていた。


「ここから先へ、月を通さない」


 その瞬間。


 《アカツキノハ》が、息をした。


 深朱の面の奥で、仮札が赤く光る。

 白い月痕の縁に、細い朱が戻る。


 ハルマサの手が動いた。


 今度は止まらなかった。


 刀が抜けた。


 派手な音はしなかった。


 叫びもない。

 踏み込みも大きくない。

 怒りもない。


 ただ、静かに。


 黒い鞘から、刃が一筋の光として現れた。


 中庭の空気が、まっすぐに裂ける。


 ハルマサは人を斬らなかった。


 誰にも向けなかった。


 刃は、鉄鉢の水面だけへ向かった。


 静かな一閃。


 水面に浮かんでいた満月が、真横に断たれた。


 ぱしゃり、と水が跳ねる。


 鉄鉢の水が白砂へ散り、そこに映っていた満月が崩れた。丸い光は二つに割れ、波紋に飲まれ、形を失っていく。


 中庭に、朝ではないのに朝のような静けさが落ちた。


 ハルマサは、刀を抜いた姿勢のまま止まっていた。


 刃の先から、水滴が落ちる。


 一滴。


 また一滴。


 それだけの音が、やけに大きく聞こえた。


 イロハは《アカツキノハ》を見た。


 右目元の白い月痕が、少しだけ薄くなっている。


 消えてはいない。


 まだ、はっきり残っている。


 けれど、深朱が戻った部分がある。迷いに覆われていた右目の奥に、静かな覚悟がかすかに戻っている。


 ハルマサは、ゆっくり刀を下ろした。


 その手は震えていた。


 けれど、先ほどまでの凍ったような震えではない。


 自分の意志で刀を抜いた者の震えだった。


「抜けた……」


 誰かが縁側で呟いた。


 それが合図のように、屋敷の者たちの間にざわめきが広がる。


「刀が」


「満月を断った」


「戦面が……」


 ハルマサは振り返らなかった。


 彼は、まず刀を鞘へ戻した。


 納刀の音が、静かに響く。


 それから、鉄鉢を見た。


 水面はもう満月を映していない。波紋が残るだけだ。やがてそれも消え、欠けた空の月だけが、ほんの歪んだ形で揺れている。


 ハルマサは、その場に膝をついた。


 倒れたのではない。


 深く、頭を下げたのだ。


 誰へ向けてかは、すぐにはわからなかった。


 刀へか。

 面へか。

 中庭の奥で怯えていた者たちへか。


 あるいは、ようやく戻ってきた自分の役へか。


 イロハは駆け寄ろうとして、足を止めた。


 今は、彼が自分で立つまで待つべきだと思った。


 アヤメも動かなかった。


 ただ、ハルマサを見ている。


 その目には、先ほどまでの厳しさが残っている。

 けれど、そこに少しだけ認める色が混じっていた。


「一度だけです」


 イロハは言った。


 ざわめきが静まる。


 年長の武士たちが、こちらを見る。


「今、刀は抜けました。でも、完全に戻ったわけではありません」


 ハルマサも顔を上げた。


 イロハは《アカツキノハ》の月痕を見た。


「月痕は残っています。面紐の白化も消えていません。仮札で、一度だけ入口をつないだ状態です」


 誰も、すぐには声を上げなかった。


 喜びが、そこで止まる。


 元通りになったわけではない。


 このまま番衆として何事もなかったように戻れるわけでもない。


 それでも。


 ハルマサは、自分の意志で刀を抜いた。


 借り物の答えではなく、自分の言葉で。


 ここから先へ、月を通さない。


 その言葉で、《アカツキノハ》は彼を呼んだ。


 アヤメが静かに言った。


「それでも、大きな一度です」


 ハルマサは彼女を見る。


「一度、あなたは自分の答えで刀を抜きました」


 アヤメの声は、硬いままだ。


 だが、そこには確かな重みがある。


「次に抜けるかは、まだわかりません。けれど、今の一度は、あなたが役を手放していない証です」


 ハルマサは、胸元の番衆札に触れた。


 返上しようとした札。


 月に喰い残された役を、自分で手放しかけた札。


 彼はそれを、今度はしっかりと握った。


「はい」


 声は小さかった。


 けれど、もう空ではなかった。


 中庭の奥で、幼い小姓が、女中の袖を握ったままハルマサを見ていた。


 その目から、少しだけ恐怖が薄れている。


 ハルマサは、それを見た。


 そして、また深く頭を下げた。


 イロハは、鉄鉢の水面に目を向けた。


 満月は崩れた。

 けれど、水はまだ白く濁っている。


 月は完全に退いたわけではない。


 《アカツキノハ》も、完全に治ったわけではない。


 ただ、ハルマサが一度だけ、自分の意志で面を呼び戻した。


 それで十分ではない。


 けれど、それがなければ、何も始まらなかった。


 夜の中庭で、深朱の戦面がかすかに光る。


 白い月痕の奥に、ほんの少しだけ戻った朱。


 それは、失われた役が完全に戻った印ではなかった。


 まだ喰われていないものがある、という印だった。

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