第八節 ― まだない役を読む
箱の中の満月は、消えなかった。
アヤメの役を喰い損ねたあとも、白絹の底に浮かぶ月は、じっとこちらを見ているようだった。光は少し弱まっている。だが、それは眠った弱さではない。
次の噛みどころを探している沈黙だった。
イロハは、焦げた仮札を道具袋へしまったあとも、しばらく手を動かせなかった。
指先が痺れている。
月の光に触れた場所が、冷たいのに熱い。火傷ではない。凍傷でもない。役の線に触れた場所だけを、白く抜かれたような感覚だった。
アヤメは立ち上がっていた。
顔色は悪いが、刀を握る手に迷いはない。サヨの言葉によって、彼女の役は戻っている。完全ではないかもしれない。けれど、少なくとも今は、サヨの前に立つ意味を見失ってはいない。
サヨは、まだ面箱を見つめていた。
恐れている。
それは、イロハにもわかった。
だが、サヨは目を逸らさない。
箱の中に月がいる。
自分の面を喰い続けているかもしれない月が。
それでも彼女は、そこに座っている。
面のない皇女として。
喰われた役を覚えている者として。
「もう一度、見ます」
イロハは言った。
アヤメがすぐに反応した。
「先ほどの札は焼かれました。危険です」
「だから、同じことはしません」
「では、何を」
「仮置きではなく、仮読みをします」
アヤメは眉をひそめた。
「仮読み?」
「役を置くのではありません。まだ存在しない役が、どちらへ伸びようとしているのか。その方向だけを読むんです」
サヨが静かに問う。
「それで、わたしの面がわかるのですか」
「全部は、わかりません」
イロハは正直に答えた。
「でも、失われた面の修復ではないことは、もうわかっています。なら、次に見るべきなのは、失われたものではなく、まだ生まれていないものです」
「まだ、生まれていないもの」
サヨはその言葉を、そっと胸の中へ置くように繰り返した。
イロハは新しい仮札を取り出した。
先ほどより薄い札だった。役を支えるためのものではなく、面の気配を写すための白札。師匠からは、滅多に使うなと言われている。理由は、何度聞いてもはぐらかされた。
使う者の内側まで読まれるからだ、とだけ言われたことがある。
今になって、その意味が少しわかる気がした。
これは、面を見る札ではない。
面と自分のあいだにあるものを、開いてしまう札だ。
イロハは白札を指に挟んだ。
「サヨ様」
「はい」
「もし私が戻れなくなりそうなら、名を呼んでください」
アヤメの表情が険しくなる。
「戻れなくなるとは、どういう意味ですか」
「見すぎるかもしれません」
「なら中止を」
「今夜見なければ、次に誰が喰われるかわかりません」
アヤメは言葉を詰まらせた。
その沈黙の間に、サヨが頷いた。
「わかりました」
彼女はまっすぐイロハを見た。
「呼びます。必ず」
その声があまりに静かで、イロハは少しだけ安心した。
イロハは面箱の前に膝を進める。
黒漆の縁に、白札を置いた。
今度は底に置かない。月痕へ直接触れない。役の線もない場所に無理に押し込まない。
箱の縁。
まだこちら側にある場所。
そこから、箱の中を読む。
白札が、ふっと軽くなった。
先ほどとは違う。
焼かれるのではなく、吸い込まれる。
紙そのものが薄くなり、月の光へ透けていく。
イロハは息を止めた。
面箱の中の満月が、ゆっくりと広がる。
白絹の底が遠ざかる。
黒漆の縁が消える。
部屋の灯も、香の煙も、サヨとアヤメの気配も薄くなる。
代わりに、匂いがした。
木の匂い。
湿った森の匂いではない。
伐られた木の匂いでもない。
まだ役を持たない木の匂い。
無面原。
名を持たぬ木々が立ち、枝にも葉にも、どの家の役も、どの神の印も宿していない場所。面材になる前の木。何にでもなれるがゆえに、誰のものでもない木。
イロハは、その森を見た。
白い霧の中に、一本の木が立っている。
木肌は淡く、月のように白い。けれど月の白ではない。喰われた白でもない。何も書かれる前の、紙のような白。
その木に、若い男が手を触れていた。
ロウセツだった。
今よりずっと若い。髪も少し短く、目つきは鋭いが、今ほどくたびれていない。宮廷御面師の装束を着ている。背筋はまっすぐで、腰には正規の面師札が下がっていた。
若いロウセツは、誰かに向かって言う。
声は聞こえない。
だが唇の形だけが見える。
――まだない役なら、まだない面を作るしかねえだろ。
次の瞬間、場面が変わった。
宮廷の御面庫。
白木と黒漆で囲まれた、重い扉の奥。棚には皇族の面が並んでいる。天帝の儀面、后の礼面、親王の式面、神前に立つための祈面。それぞれの面には、名札と役札が添えられている。
その奥に、ひとつだけ布のかかった作業台があった。
若いロウセツが、そこに白い面材を置く。
未完成の面。
まだ目も口もない。
ただ、なめらかな曲面だけが彫り出されている。
その白い未完成の面を見た瞬間、イロハの胸が痛んだ。
知っている。
知らないのに、知っている。
その曲線。
額から頬へ落ちる白い面の光。
まだ誰の顔にもなっていないのに、誰かを待っている形。
それは、箱の奥で見た皇女の面に似ていた。
そして、《ナギノオモテ》にも似ていた。
視界がまた変わる。
泣き声が聞こえた。
幼い子どもの泣き声。
暗い工房。
雨の音。
割れた生面の破片。
ロウセツの手。
小さな面箱。
幼いイロハが泣いている。
自分の声だと、気づくのに少し時間がかかった。
寒い。
怖い。
誰も自分を呼ばない。
名前はあるのかもしれない。
けれど、呼ばれても世界に届かない。
生面がない。
家の面がない。
役の面がない。
どこにも置かれない子ども。
ロウセツが、何かを混ぜている。
白い面材の削り粉。
割れた面の欠片。
古い面師の面片。
そして、小さな子どもの失われた生面の破片。
だめだ、と誰かが言っている。
そんなことをすれば、役を持たない子に、最初から役を入れてしまう。
生まれを、書き換えてしまう。
けれどロウセツは、手を止めない。
彼の声が、今度は聞こえた。
「役がねえまま死なせるより、ましだ」
イロハの胸が、強く締めつけられた。
これは、見てはいけないものだ。
そう思った。
自分の面の由来。
師匠が隠してきたもの。
自分が今ここにいる理由。
その入口に、触れてしまっている。
白い月が、また広がった。
面箱の中。
黒漆の箱の底で、月が白い面を喰っている。
まだできていない面。
まだサヨのものにも、イロハのものにもなっていない面。
月の歯が、何度もそこへ噛みつく。
噛んでも、面はない。
だから月は、輪郭を喰う。
役が生まれる前の場所を喰う。
そのたびに、白影宮の誰かの役が揺れる。
御簾守。
庭番。
香役。
アヤメ。
サヨを支える役から、順に。
イロハは理解しかけた。
月は、サヨの面を直接喰えない。
面がないから。
だから、サヨを支える周囲の役を喰っている。
サヨがこの宮にいることを証明する役を、ひとつずつ削っている。
そうすれば、サヨの面は永遠に生まれない。
空白は、空白のままになる。
白い月の奥で、声がした。
サヨの声だった。
遠い。
けれど、はっきり聞こえる。
――わたしは、役を持たないのに、失われた役だけは覚えているのです。
次に、別の声。
誰のものかわからない。
男とも女ともつかない、古い声。
――この国に、まだない役。
その言葉が、月の中で響いた。
この国に、まだない役。
皇女でありながら、面を持たない者。
面を持たないまま、喰われた役を覚える者。
既存の皇女面では収まらない者。
定められた役ではなく、失われた役を呼び戻し、まだない役を選ぶ者。
サヨの面は、失われた皇女面の復元ではない。
昔あった儀礼をそのまま戻すだけでもない。
この国にまだ存在しない皇女の役を、形にしなければならない。
その瞬間、白い月が振り返った。
イロハは、見られた。
満月の中に目はない。
けれど、確かに視線があった。
月が、イロハの中の《ナギノオモテ》を見つけた。
白い歯が伸びる。
箱の中からではない。
記憶の奥から。
無面原の木の影から。
幼いイロハの泣き声の隙間から。
月の歯が、イロハの面へ向かってくる。
開けてはいけない。
開けてはいけない。
師匠の声が、遠くで叫んでいる。
けれど、鍵が熱い。
道具袋の奥で、黒い小箱が開こうとしている。
まだ自分の手は触れていないのに、箱の中から白い面が起き上がろうとしている。
イロハは息ができなくなった。
自分がどこにいるのかわからない。
白影宮か。
無面原か。
御面庫か。
師匠の工房か。
幼い自分の泣き声が近づいてくる。
面がなければ、人ではない。
役がなければ、ここにいられない。
なら、自分は何として立っているのか。
白い月が、目の前いっぱいに広がった。
その時だった。
「イロハ=ナギ」
名を呼ばれた。
まっすぐに。
帳の名ではない。
役所の呼び名でもない。
疑いのために呼ばれた名でもない。
サヨの声だった。
「イロハ=ナギ」
二度目の声で、世界に線が戻った。
イロハは息を吸った。
白い月がひび割れる。
無面原の木が遠ざかる。
若いロウセツの背が消える。
御面庫の扉が閉まる。
幼い泣き声が、夜の奥へ沈んでいく。
最後に、白い未完成の面だけが残った。
それは、サヨのものでもあり、イロハのものではなかった。
似ている。
けれど同じではない。
イロハは、そこへ手を伸ばしかけた。
面はまだ顔を持たないまま、静かに言った気がした。
――彫れ。
そこで、意識が戻った。
イロハは奥の間の床に片手をついていた。
呼吸が荒い。額に汗が滲んでいる。指先は白く冷えていた。白札は面箱の縁で半分ほど焦げ、しかし完全には焼け落ちていない。
サヨが、すぐ目の前にいた。
彼女はイロハの手首を握っている。
強い力ではない。
けれど、離さない力だった。
「戻りましたか」
サヨの声が聞こえる。
イロハは何度か瞬きをした。
「……戻りました」
自分の声が、遠く聞こえた。
アヤメは刀を抜いていなかったが、片膝をつき、いつでもイロハを引き戻せる位置にいた。その顔には、明らかな緊張がある。
「何を見たのですか」
アヤメが尋ねた。
イロハはすぐには答えられなかった。
見たものをすべて言えば、自分の面の秘密へ触れる。ロウセツの罪にも触れる。サヨの未在面と《ナギノオモテ》の関係にも。
まだ、言葉にできない。
けれど、ひとつだけは言える。
イロハは、空の面箱を見た。
箱の中の満月は、先ほどより暗い。
白い歯のような光は引いている。だが、月痕の奥にはまだ、あの輪郭が残っている気がした。
「サヨ様の面は」
イロハは、ゆっくり言った。
「失われた面の修復ではありません」
サヨは息を止めた。
「既存の皇女面の復元でもありません」
アヤメの目が細くなる。
「では、何だというのです」
イロハは、サヨを見た。
面を持たない皇女。
誰よりも喰われた役を覚えている少女。
自分の役を言えないのに、他者の役を呼び戻す者。
「この国にまだ存在しない、皇女の役を作る必要があります」
沈黙が落ちた。
白影宮の奥の間が、深く静まる。
サヨは、まるでその言葉を胸の奥で何度も確かめるように、ゆっくり瞬きをした。
「まだ存在しない、役」
「はい」
「わたしは、それを持てるのでしょうか」
その問いは、あまりにも小さかった。
皇女の問いではない。
ただ、ずっと面を持てなかった少女の問いだった。
イロハは、まだ痺れる指を握った。
「持てるかどうかは、わかりません」
アヤメが何か言おうとしたが、イロハは続けた。
「でも、作ることはできます」
サヨの目が揺れる。
「面師として?」
「はい」
イロハは、焼け残った白札を見た。
「ただし、それは私が勝手に彫って渡せる面ではありません。サヨ様が、何としてこの国に立つのか。それを見つけなければ、彫れません」
サヨは、空の面箱を見た。
その表情に、恐怖と困惑と、ほんの少しの光が混じる。
「わたしが、選ぶのですか」
「たぶん」
「皇女の役を?」
「サヨ様の役を」
その違いに、サヨは黙った。
アヤメも何も言わない。
箱の中の月が、かすかに揺れた。
その光は、先ほどより弱い。けれど消えない。まるで、話を聞いているかのようだった。
イロハは、道具袋の奥でまだ熱を持つ鍵を感じた。
《ナギノオモテ》は、沈黙している。
だが、もう無関係ではいられない。
サヨの未在面を読むことは、自分の面の秘密を読むことでもある。
そのことを、イロハははっきり理解した。
怖い。
けれど、目を逸らせない。
第1話では、イロハがユラの失った舞を、一節だけ繋いだ。
今夜は、サヨがイロハの名を呼び、月の中から引き戻した。
その事実が、イロハの胸に静かに残る。
サヨは無力な依頼人ではない。
イロハを戻した声を持つ人だ。
その声があるなら、まだない役も、いつか形を持つかもしれない。
白影宮の夜は、まだ終わらない。
けれど箱の中の満月は、ほんの少しだけ遠くなっていた。




