終節 ― 作るべき面
夜が明ける前、箱の中の月は消えた。
消える時も、月は静かだった。
白絹の底に浮かんでいた満月が、薄い水に溶けるように輪郭を失い、白い歯のような光も、ひと筋ずつ箱の奥へ引いていった。
最後に残ったのは、黒漆の面箱と、白絹の内底。
そして、そこに刻まれた月痕だけだった。
夜の間、白影宮を満たしていた緊張も、少しずつほどけていく。
御簾守は、閉じた御簾の結び目を確かめ直した。
庭番は、竹簾の前で長く息を吐いた。
カンナ=ツキシロは、東廊の香炉の前に座り込み、まだ震える手で沈香の包みを畳んでいた。
アヤメ=シラハは、刀を抜かなかった手をじっと見つめていた。
役は、戻った。
完全ではない。
けれど、今夜は誰も完全には喰われなかった。
そのことだけが、白影宮に薄い安堵をもたらしていた。
だがイロハは、面箱の底から目を離せなかった。
月は消えた。
けれど月痕は、昨夜より深くなっている。
白い噛み跡のような裂け目が、内底の白絹からさらに奥へ沈み込んでいる。爪で引っ掻いた傷ではない。光に焼かれた痕でもない。まるで、そこに存在していない面を、何度も何度も噛み続けた跡だった。
イロハは白布を指に巻き、月痕の縁へ触れた。
もう月の光はない。
それなのに、指先は冷えた。
「深くなっています」
イロハが言うと、アヤメの表情が険しくなった。
「昨夜よりも?」
「はい」
サヨ=ミカゲは、箱の前に座ったまま動かなかった。
顔色は白い。ほとんど眠っていない。夜を通して、彼女は喰われかけた者たちの役を呼び戻し続けた。アヤメを呼び戻し、カンナを支え、御簾守と庭番を縫い止めた。
けれど、自分の役だけは呼べなかった。
サヨは静かに尋ねた。
「それは、わたしの面がまた喰われたということですか」
イロハは、すぐには答えられなかった。
面がない。
だから、喰われたと言ってよいのかもわからない。
だが、月は確かに噛んでいた。サヨの面が生まれるはずだった場所を。彼女がこの国に立つための、まだ形になっていない役の座を。
「面そのものではありません」
イロハは、慎重に言葉を選んだ。
「でも、面になるはずの場所が削られています」
アヤメが低く言った。
「それは、悪化しているということですね」
「はい」
嘘はつけなかった。
サヨは目を伏せた。
その横顔は、泣いてはいなかった。悲鳴を上げることもない。ただ、長く予想していた答えを、ようやく言葉として受け取った人の顔だった。
「そうですか」
彼女は小さく言った。
「やはり、待っているだけでは、喰われていくのですね」
その言葉は、面箱の底に落ちるように響いた。
イロハは白布を外し、焦げ残った白札と、月痕の写しを並べた。
昨夜、仮読みで見たものが、まだ胸の奥に残っている。
無面原の木。
若き日のロウセツ。
宮廷の御面庫。
白い未完成の面。
幼い自分の泣き声。
面箱の中で喰われ続ける月。
そして、サヨの声。
この国に、まだない役。
あれは幻ではない。
月の見せた罠も混じっているかもしれない。だが、すべてが嘘ではなかった。
イロハは顔を上げた。
「皇女様の面は、なくなった面ではありません」
サヨがイロハを見る。
「では、何ですか」
「まだ、この国に作られていない面です」
部屋の空気が止まった。
アヤメも、カンナも、近くに控えていた女房たちも、誰も言葉を挟まなかった。
まだ、この国に作られていない面。
それは、サヨがただ不運にも面を失った皇女ではないということだった。
誰かが隠した面を探せば済む話でもない。
古い目録を調べれば出てくるものでもない。
御面庫の奥から引き出せるものでもない。
サヨの面は、まだ存在していない。
だから誰も見つけられなかった。
サヨは、ゆっくりと息を吸った。
「だから、誰も見つけられなかったのですね」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
絶望していないわけではない。
けれど、長く「ない」とだけ言われ続けてきた空白に、初めて理由が与えられたようでもあった。
ないのではない。
まだ作られていない。
その違いは、小さく見えて、決定的だった。
「はい」
イロハは頷いた。
「だから、直すだけでは足りません。作る必要があります」
サヨの指が、膝の上でわずかに動いた。
「作れますか」
静かな問いだった。
第1話の終わりにも、彼女は同じように問うた。
面師イロハ。
わたしの面を、作れますか。
あの時、イロハは答えられなかった。
今も、簡単には答えられない。
「今は、まだ」
イロハは言った。
アヤメの目がわずかに厳しくなる。
だがサヨは、責めなかった。
「では、何が必要ですか」
イロハは、空の面箱を見た。
そこには月痕がある。
けれど、サヨの面そのものはない。
面師は、ただ木を彫る者ではない。
役を読む者。
役の器を作る者。
人がこの世に立つための顔を、形にする者。
ならば、サヨの面を作るには、サヨが何として立つのかを知らなければならない。
皇女として。
白影宮の主として。
喰われた役を覚える者として。
面を持たないまま、それでもここにいる者として。
「あなたが、どんな役としてこの国に立ちたいのか」
イロハは言った。
「それを知る必要があります」
サヨは黙った。
今まで、彼女は役を与えられなかった。
皇女でありながら、皇女の面がない。
祭礼に出られない。
帳に載らない。
中央の棚は空のまま。
皆が役を持つ白影宮で、彼女だけが自分の夜支度を言えない。
けれど今、イロハは言った。
役を知る必要がある、と。
それは、誰かが勝手に決めるものではない。
サヨ自身が、何として立つのか。
彼女の面は、イロハが一方的に彫って与えるものではない。
古い皇女面を複製して済むものでもない。
サヨが選ばなければ、面は顔を持たない。
サヨは、面箱の空白を見つめた。
「わたしが、選ぶのですか」
「はい」
「皇女なのに?」
「皇女だから、ではありません」
イロハは少しだけ言葉を切った。
「サヨ様だからです」
サヨの目が揺れた。
アヤメが、静かに顔を伏せる。
カンナは、香炉のそばで涙をこらえていた。
その場にいる誰もが、白影宮の空白を知っている。サヨの面がないことを知っている。けれど、サヨ自身が役を選ぶなど、誰も口にしたことがなかった。
それは、あまりに危うい考えだった。
この国では、役は与えられる。
家により、職により、神前により、仮面籍により、面によって定められる。
サヨが自ら役を選ぶなら、それは王朝のあり方そのものへ触れることになる。
けれど、そうしなければ、サヨの面は作れない。
「わたしに、できるでしょうか」
サヨが尋ねた。
イロハは、すぐに「できます」とは言わなかった。
言えば、慰めになる。
けれど面師として、嘘は言えない。
「わかりません」
イロハは答えた。
「でも、サヨ様は今夜、アヤメさんの役を呼び戻しました。カンナさんの役も、御簾守の役も、庭番の役も」
サヨは静かに聞いていた。
「自分の役がまだ見えなくても、誰かの役を覚えて、呼べる人です」
イロハは、月痕の残る空の面箱を見た。
「だから、探せると思います」
サヨの表情が、ほんの少しだけ変わった。
大きな希望ではない。
夜明け前の、空の端に出る白みのようなものだった。
「探す」
「はい」
「わたしの役を」
「一緒に」
その言葉を口にした瞬間、イロハ自身も少し驚いた。
一緒に。
それは、面師と依頼人の関係を少し越えていた。
だがサヨは、その言葉を拒まなかった。
「では」
彼女は小さく頷いた。
「お願いします、イロハ」
敬称のない名。
それは昨夜、月の中からイロハを呼び戻した声と同じだった。
イロハは深く頭を下げた。
「はい」
その時、遠くで朝鳥が鳴いた。
白影宮の外、まだ暗い空の端がわずかに白んでいる。夜が終わろうとしていた。御簾の外で、女房たちが朝支度のために動き始める気配がある。
夜を越えた。
完全には守れなかった。
月痕は深くなった。
イロハの中にも、まだ白い月の残像がある。
それでも、誰の役も完全には喰われなかった。
サヨの面についても、ひとつだけわかった。
直すのではない。
作るのだ。
まだない役を、この国に彫り出すために。
イロハは道具を片づけようとした。
その時、白影宮の門の方から、鋭い音が走った。
馬の蹄の音だった。
夜明け前の宮へ、早馬が駆け込んでくる音。
アヤメがすぐに立ち上がる。
刀ではなく、まず宮中札を手にした。昨夜、月に噛まれかけた白羽の札。そこにはまだ薄い月痕が残っている。だが彼女の手は迷わなかった。
「確認してまいります」
サヨが頷く。
アヤメは一礼し、廊下を駆けた。
白影宮の朝の静けさが、一気に破られる。
女房たちが戸を開ける音。
門番の声。
馬を止める音。
濡れた息を吐く使者の声。
やがて、アヤメが戻ってきた。
その表情は硬い。
昨夜の疲れも、安堵も、すべて消えていた。
「サヨ様」
「何があったのですか」
「帝都東郭、アカツキ家の武家屋敷から急報です」
イロハは顔を上げた。
アカツキ。
武家の名だ。
アヤメは続けた。
「若い武士の戦面が、白化しました」
部屋の空気が冷えた。
カンナが息を呑む。
サヨは静かに目を伏せる。
「症状は」
サヨが尋ねた。
アヤメは一瞬だけイロハを見た。
「刀を抜けなくなったそうです」
イロハの指先に、昨夜の白い痺れが戻った。
舞台。
香。
御簾。
池。
護衛。
そして、武士の戦面。
月は、白影宮の中だけを見ているのではない。
帝都全体へ、歯を伸ばし始めている。
アヤメが低く言った。
「今度は、武家の面です」
イロハは、まだ消えない白い月の残像を見た。
まぶたの裏に、箱の中の満月が残っている。
その奥に、未完成の皇女面の輪郭。
そして、それに似た《ナギノオモテ》の気配。
彼女はゆっくり息を吸った。
「月は、舞台だけを見ているわけではないんですね」
誰も答えなかった。
夜明けの光が、白影宮の床へ薄く差し込む。
けれど、その光の中にも、イロハにはまだ白い月の影が見えた。
第二話 ― 月箱の皇女
了




