第七節 ― 箱の中の満月
奥の間へ近づくほど、夜は深くなった。
白影宮の廊下には灯が入っている。
御簾の隙間は閉じられ、面棚には黒布がかけられ、月見池には竹簾が下りている。
それでも、奥の間だけが明るかった。
灯の明るさではない。
月の明るさだった。
けれど今夜、空には半月しか出ていない。
廊下の格子から見える夜空の端に、細く欠けた月が掛かっている。白いが、弱い。雲に隠れればすぐ消えてしまうような月だ。
だが、空の面箱の中は違った。
黒漆の面箱。
白絹を貼られた底。
そこに、まるい月が浮かんでいた。
満月だった。
イロハは、奥の間の入口で足を止めた。
昼間に見た時、箱の底には白い月痕だけがあった。噛み跡のような傷。喰われたような裂け目。まだ彫られていない面の輪郭。
だが今は、その痕の奥から月が浮いている。
水面に映っているのではない。
白絹の下に沈んでいるのでもない。
箱の内側そのものに、月が棲んでいる。
白い円の縁が、ゆっくりと光を増していく。その光は柔らかくない。月光でありながら、刃物のように細く、牙のように曲がっていた。
サヨは箱の前に座った。
アヤメはその右後ろに立ち、刀に手をかけている。
イロハは左側に膝をついた。道具袋を開き、白布と観測用の仮札を取り出す。仮置きではない。今夜は、月がどこへ歯を立てるかを見るための札だ。
「空の月とは、違いますね」
イロハが言うと、サヨは頷いた。
「空の月が欠けていても、箱の中は満ちます」
「いつも満月に?」
「最近は、ほとんど」
サヨの声は静かだった。
だが、指先は膝の上でわずかに強張っている。
「満ちる夜ほど、誰かの役が揺れます」
アヤメが低く言った。
「イロハ=ナギ。危険を感じたら、すぐに下がってください」
「見るために来ました」
「死ぬためではありません」
「死にません」
「保証できますか」
「できません」
アヤメの眉が寄る。
イロハは箱を見つめたまま続けた。
「でも、見なければ次も防げません」
アヤメは何か言いかけたが、サヨが静かに首を振った。
「アヤメ。今は、見守って」
「……承知しました」
その声は硬かった。
だが、昼のようにイロハを遮ろうとはしなかった。
イロハは仮札を箱の縁に置いた。
札は白いまま。
だが、置いた瞬間に、わずかに反った。
月の光に炙られたのだ。
箱の中の満月が、ゆっくりと濃くなる。
白絹の底に浮かんだ月の縁から、細い光が伸びた。
歯だ。
イロハには、そう見えた。
月の光が牙のように裂け、面箱の底から外へ伸びようとしている。行き先を探している。どの役が柔らかいか。どの面が開いているか。どの心に隙間があるか。
光はまず、面箱の縁をなぞった。
次に、香炉の煙へ触れた。
沈香の煙が、細く震える。
サヨは目を閉じない。
アヤメは刀の柄を握る。
イロハは仮札に指を添えた。
見る。
逃げずに、見る。
月の歯が、部屋の中を探る。
香ではない。
御簾ではない。
水でもない。
光は、ゆっくりと向きを変えた。
アヤメへ向かった。
「アヤメ!」
イロハが叫ぶより早く、アヤメは刀を抜こうとした。
だが、抜けなかった。
鞘から刀身が一寸ほど出たところで、手が止まる。
アヤメの目が見開かれた。
自分の体に何が起きたのか、理解できない顔だった。
「アヤメ?」
サヨが呼ぶ。
アヤメは刀を握ったまま、わずかに膝を揺らした。
「問題……ありません」
その声は、いつもの彼女のものではなかった。
強くあろうとしている。
だが、内側が白く抜けている。
月の光が、彼女の肩口へ触れていた。
面ではない。
アヤメは今、護衛面をつけていない。けれど、彼女の腰に下げられた白羽の宮中札が、淡く白く光っていた。札の裏に、細い月痕が浮かんでいく。
イロハは息を呑む。
面だけではない。
面札にも、役の痕は宿る。
そこを月が噛んでいる。
アヤメは刀を抜こうとする。
けれど、手が止まる。
抜く理由が、白く曖昧になっているのだ。
「わたしは……」
アヤメの声が、ひどく遠く聞こえた。
「何を、守る役でしたか」
サヨが立ち上がった。
イロハは反射的に止めようとした。月の光はまだ伸びている。サヨが近づけば、箱の月が彼女を喰うかもしれない。
だがサヨは、迷わずアヤメの前に立った。
「わたしを守る役ではありません」
アヤメの瞳が揺れた。
「サヨ様?」
その声には、痛みがあった。
ずっと信じてきたものを、突然否定されたような痛み。
けれどサヨは、そこで止まらなかった。
「あなたは、ただわたしの前に立つ刀ではありません」
白い月光が、アヤメの宮中札をさらに白くする。
イロハは急いで仮札を取った。
月の歯がアヤメへ深く入る前に、何かを挟む必要がある。
だが、どこへ。
アヤメの役の線は強い。強すぎるほど強い。だからこそ、喰われる瞬間も激しい。刀、白羽の紋、宮中札、サヨへの忠誠。それらが絡み合いすぎて、どこを支えればよいかわからない。
サヨの声だけが、迷わなかった。
「あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です」
アヤメの呼吸が止まった。
月の光も、一瞬止まった。
「面を持たない皇女など、役を持たない。神前に立てない。宮の中心になれない。そう言われても、あなたは一度も、わたしの側を離れなかった」
サヨは、アヤメの手に触れた。
刀を握る手ではない。
柄の上で強張った指の、その上へそっと手を重ねる。
「あなたは、わたしを隠すために立っていたのではありません」
サヨの声が、静かに震えた。
「わたしがここにいてよいと、毎日、この宮に示してくれていたのです」
アヤメの目に、光が戻った。
それは涙ではない。
彼女は泣かなかった。
けれど、刀を握る手から、少しずつ力が抜けていく。鞘から一寸だけ出ていた刀身が、静かに戻った。
月の歯が、白羽の宮中札から離れようとする。
今だ。
イロハは仮札を、アヤメの宮中札の下へ差し入れた。
札そのものには触れない。
けれど、月痕と役の線の間に、薄く挟む。
仮置きではない。
ただ、喰われかけた役が完全に切れないように、ほんの一息だけ支える。
仮札が、白く焦げた。
イロハの指先に痛みが走る。
「イロハ!」
サヨの声がする。
イロハは歯を食いしばった。
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
月の光は、冷たいのに焼ける。
指先から腕へ、白い痺れが上ってくる。視界の端に、また満月がちらつく。箱の中の月ではない。自分の内側に残った月の残像が、呼応している。
道具袋の奥で、鍵が熱を持った。
《ナギノオモテ》が反応している。
開けてはいけない。
師匠の声が、頭の奥で響く。
月が、まだ見ている。
けれど、見ているだけではない。
月は今、こちらに触れている。
イロハは仮札を押さえたまま、箱の中を見た。
満月の白い光が揺れる。
その奥に、一瞬だけ、輪郭が見えた。
皇女の面。
まだ彫られていない面。
昼に見た時よりも、はっきりしていた。丸みを帯びた白い面。目の穴はまだ開いていない。口もない。だが、額から頬へ落ちる曲線に、確かな品がある。
皇女としての面。
けれど、既存の皇女面とは違う。
もっと空白に近い。
もっと自由で、もっと危うい。
そして、その輪郭は――
《ナギノオモテ》に似ていた。
イロハの胸が強く鳴った。
似ているどころではない。
同じ木目を持っているように見えた。
まだ彫られていないサヨの面と、すでにイロハをこの世に立たせている《ナギノオモテ》。その二つの輪郭が、箱の月痕の奥で重なりかけている。
だが、完全には重ならない。
サヨの面には、空の座がある。
イロハの面には、誰かが無理に役を入れた痕がある。
その差が、月の光の中で一瞬だけ見えた。
イロハは息を呑む。
その瞬間、月の歯がこちらを向いた。
見られた。
そう思った。
箱の中の満月が、アヤメからイロハへ視線を移した。
月に目などない。
それなのに、確かに見られた。
道具袋の奥で、鍵が熱くなる。
黒い小箱の中で、《ナギノオモテ》が目を覚まそうとしている。
「イロハ、手を離して!」
サヨの声だった。
その声で、イロハは戻った。
仮札から手を離す。
白く焦げた札は、ぽろりと床へ落ちた。
アヤメの宮中札に浮かんでいた月痕は、完全には消えていない。だが、深くなるのは止まっている。
アヤメは膝をつき、荒く息をしていた。
刀は鞘に戻っている。
サヨはその肩に手を置いている。
「アヤメ」
「……はい」
「戻ってきましたか」
「はい」
アヤメはゆっくり顔を上げた。
その目には、いつもの硬さが戻っていた。だが、その奥に、ほんの少しだけ別のものが残っている。
恐怖。
そして、自分の役がただの護衛ではなかったと知らされた痛み。
「申し訳ございません」
アヤメは頭を下げた。
「刀を抜けませんでした」
「抜かなくてよかったのです」
サヨは言った。
「月は、斬るものではありません」
アヤメは答えられなかった。
イロハは焦げた仮札を拾った。
指先がまだ痺れている。
白い札の中央には、細い月痕が残っていた。まるで小さな噛み跡だ。
イロハはそれを見つめる。
今夜、月はアヤメの役を喰おうとした。
そして、その瞬間、皇女の面の輪郭が見えた。
《ナギノオモテ》に似た、まだない面。
あれは偶然ではない。
サヨの役を知るには、アヤメのように、サヨの存在を支えてきた者たちの役を見なければならないのかもしれない。
皇女の面は、サヨひとりの顔ではない。
白影宮の中で、サヨを「ここにいてよい」と支えてきた役たちの記憶でできている。
そのことに、イロハは気づきかけていた。
だが、まだ言葉にはならない。
箱の中の満月は、少しだけ暗くなっていた。
まるで、今夜の獲物を喰い損ねたことに不満を抱いているようだった。
サヨは面箱を見つめる。
「今夜は、もう終わりですか」
イロハは首を振った。
「いいえ」
白い月痕が、箱の底でまだ淡く光っている。
「たぶん、まだです」
アヤメが刀を握り直す。
今度は迷いがない。
「では、備えます」
サヨは静かに頷いた。
イロハは焦げた仮札を白布に包み、道具袋へ入れた。
奥で眠る《ナギノオモテ》の鍵は、まだ熱い。
そして、箱の中の満月の奥に見えた白い輪郭が、まぶたの裏から消えなかった。
皇女の面。
まだない役。
イロハの面によく似た、けれどイロハのものではないはずの顔。
それが、月の裂け目の奥で、こちらを待っていた。




