第六節 ― 白影宮の夜支度
夕暮れが近づくと、白影宮は音を変えた。
朝の静けさとも、昼の薄明るさとも違う。
何かが来る前に、宮全体が息を詰めていくような音だった。
女房たちが、いっせいに動き始める。
誰かが大声で命じたわけではない。太鼓が鳴ったわけでもない。ただ、陽が西へ傾き、白砂の庭に黒松の影が長く伸びた頃から、白影宮の者たちはそれぞれの役へ戻っていった。
面箱には、黒布をかける。
それはただの布ではなかった。深い墨染めの布地に、ほとんど見えないほど細い銀糸で、月除けの雲紋が縫われている。女房たちはひとつひとつの面箱に手を合わせ、蓋が閉じていることを確かめ、黒布を二重に掛けた。
水盆は伏せる。
廊下の角や客間に置かれた水盆は、昼のあいだ涼を取るためのものだった。けれど夜になると、そこに月が映る。たとえ空の月が欠けていても、水は月を呼び込む。だから、夕暮れ前にすべて伏せられる。
月見池には竹簾を下ろす。
庭番たちが、池の縁に渡した細竹の簾をゆっくりと引いていく。昼のあいだ黒松を映していた水面が、少しずつ覆われる。完全には隠さない。水を閉じすぎれば、池は息を失う。けれど開けたままにすれば、月が沈む。
御簾の隙間は、白い絹紐で結ばれる。
御簾守の女房たちは、廊下ごとに下げられた御簾の端を確かめ、光が通る細い隙間を塞いでいく。隙間を閉じる順にも決まりがあった。東から西へ。高い御簾から低い御簾へ。寝所に近いものほど最後に。
面棚の前には、月除けの香が焚かれる。
沈香を主に、白檀をほんの少し、月除け草を砕いたものを一つまみ。香の煙は面の表ではなく、面箱の周囲を囲むように流される。
それらすべてが、あまりに自然だった。
イロハは、白影宮の廊下に立って、その支度を見ていた。
誰かが特別な儀式として行っているのではない。白影宮の者たちにとって、これは毎夜の作業なのだ。夕餉の支度をし、灯を入れ、戸締まりをするのと同じように、月を避ける。
異常は、すでに日常になっていた。
それが、イロハには怖かった。
最初の夜、どれほど怯えただろう。
最初に面箱が鳴った時。
最初に水盆へ空にない月が映った時。
最初に誰かが、自分の役を忘れた時。
その恐怖は、いつしか手順に変わる。
黒布を掛ける。
水盆を伏せる。
竹簾を下ろす。
御簾を結ぶ。
香を焚く。
そうすれば、夜を越えられる。完全には防げなくても、少しはましになる。そう信じて、人は異常を生活に組み込んでいく。
面師小路でも似たことはある。
欠けた面を持つ子どもに、親が毎朝紐を結び直す。剥がれかけた職面に、職人が布を巻いて仕事場へ向かう。面籍からこぼれた者が、古い面片を懐に入れて通りを歩く。
壊れたものを抱えながら、今日も続けるための手順。
白影宮もまた、そうして夜を越えてきたのだ。
「イロハ」
声をかけられ、イロハは振り返った。
サヨが廊下の奥に立っていた。
昼の衣から、夜用の薄墨色の衣に替えている。襟元には白い細紐が結ばれ、袖には月除けの雲紋が淡く刺繍されていた。けれど、やはり面はない。
そのことが、夜の支度の中ではいっそう目立った。
女房たちは面箱を守る。
庭番は池を守る。
御簾守は隙間を守る。
香役は夜を閉じる。
では、サヨは何を守るのか。
あるいは、誰に守られるためにここにいるのか。
それを示す面が、どこにもない。
「支度は、いつもこのように?」
イロハが尋ねると、サヨは頷いた。
「ええ。近頃は、以前より早く始めるようになりました」
「以前は?」
「月が見えてからで間に合いました。でも今は、日が沈む前から閉じないと、間に合わないことがあります」
「箱の中の月が、早く起きるからですか」
「そうです」
サヨは奥の間の方へ目を向けた。
あの空の面箱だけは、黒布を掛けられていない。
むしろ、今夜はあえて開かれている。
イロハが見るために。
月がどこから役を喰うのかを、確かめるために。
他の面箱を隠し、あの箱だけを開ける。
それは、白影宮に穴をひとつ残すことでもあった。
「怖くありませんか」
イロハは思わず聞いた。
サヨは少しだけ考えた。
「怖いです」
素直な答えだった。
「でも、見なければ、今夜も誰かが忘れます」
その声に、揺らぎはなかった。
イロハは何も言えなくなった。
サヨは面を持たない。
正式な祭礼にも立てない。
自分の役すら言えない。
それでも、誰かが忘れられることを見過ごせない。
そこへ、東廊から小さな声が上がった。
「あの、これは……」
御簾守の女房だった。
アヤメがすぐに動く。
イロハとサヨも後を追った。
東廊では、御簾守の女房が白絹の紐を手にしたまま立ち尽くしていた。三枚の御簾が並んでいる。右から閉じるのか、左から閉じるのか。彼女は目の前の御簾を見上げたまま、動けなくなっていた。
「どうしました」
アヤメが問う。
女房は震える声で答えた。
「順が……どの御簾から閉じるのでしたか」
別の女房が言いかける。
「東から……いえ、西からだったかしら」
「高い御簾からでは」
「寝所に近いものを先に……?」
言葉が揺れる。
さきほどまで自然に行われていた支度が、一瞬で不確かになる。
サヨは迷わず言った。
「東の御簾からです」
御簾守が顔を上げる。
「サヨ様」
「東から西へ。高い御簾から低い御簾へ。寝所に近いものは最後。あなたはいつも、最初の紐を結ぶ前に、結び目を一度指でならします。結びが固くなりすぎないように」
御簾守の手が動いた。
白紐を指でならす。
その瞬間、彼女の目に焦点が戻った。
「……そうでした」
彼女は息を吐いた。
「そうです。固く結びすぎると、朝に開ける時、御簾が傷むから」
サヨは頷いた。
「ええ」
御簾守は深く頭を下げ、作業へ戻った。
その場の空気が少し緩む。
けれど、安心する間もなかった。
今度は庭から、竹簾の軋む音が止まった。
庭番が、月見池の縁で立ち尽くしている。
竹簾は半分まで下ろされていた。残り半分を下ろせば、水面は夜の月から守られる。だが庭番は、その先へ進めないようだった。
アヤメが縁側へ出る。
「何をしている」
庭番は振り返った。
顔色が悪い。
「池に、近づいてよいのでしたか」
その問いに、廊下にいた者たちは凍りついた。
「わたしは、月見池を避ける役では……」
「違います」
サヨが言った。
その声は、今度もまっすぐだった。
「あなたは、池を避ける役ではありません。月を避けるために、池を整える役です」
庭番の目が揺れる。
「池を、整える」
「はい。竹簾は水面に触れないよう、石の二つ手前で止める。完全に覆えば池が息を失うから。あなたはそれを誰よりも知っています」
庭番は竹簾の端を見た。
手が震えながらも、動く。
「石の、二つ手前」
「そうです」
竹簾が、ゆっくり下りた。
水面が隠れる。
月見池の奥に沈んでいた白い気配が、わずかに薄くなった。
イロハは、それを見ていた。
サヨが言葉にするたび、役は完全ではないが戻る。喰われかけた部分が、一時的に縫い止められる。
サヨは、白影宮の全員の役を覚えている。
御簾守の結び方。
庭番の竹簾の止め方。
香役カンナの沈香の意味。
夜警がどの角に立つのか。
女房がどの部屋に仕えるのか。
全部、覚えている。
けれど。
「サヨ様」
イロハは小さく呼んだ。
サヨは振り返る。
「サヨ様の夜支度は、何ですか」
その問いに、周囲の空気が止まった。
アヤメが鋭くイロハを見る。
不用意な問いだったかもしれない。
だが、イロハは聞かずにいられなかった。
白影宮の者たちは、それぞれ夜支度の役を持つ。
月から宮を守るため、全員が何かをする。
ならば、この宮の主であるサヨは、夜に何をするのか。
サヨはしばらく黙っていた。
それから、自分の胸元に手を置いた。
「わかりません」
静かな答えだった。
誰も何も言わない。
「わたしは、皆の役は覚えています。けれど、自分が夜に何をすべきなのかは、思い出せないのです」
「記録には」
イロハが尋ねかけ、途中でやめた。
記録にはない。
聞かなくてもわかる。
サヨは微笑んだ。
「記録にはありません」
その微笑みは、少しだけ寂しかった。
「面もありません。だから、わたしの夜支度もありません」
「そんなことは」
イロハが言おうとした時、アヤメの足が一歩乱れた。
本当に小さな乱れだった。
だが、イロハは気づいた。
アヤメ自身も気づいたのだろう。彼女はすぐに姿勢を正し、刀の柄へ手を置いた。
「アヤメ?」
サヨが呼ぶ。
「問題ありません」
アヤメは即答した。
けれど、その声がほんの少し遅れた。
サヨが近づく。
「アヤメ」
「問題ありません」
「本当に?」
アヤメの指が、刀の柄を握ったまま止まっていた。
抜くわけではない。
警戒しているのでもない。
ただ、手を置いたまま、動けない。
イロハは息を呑んだ。
アヤメほど役の強い者にも、月は触れる。
サヨを守る役。
白影宮の近習。
皇女の側に立つ刀。
その役に、白い指先が触れている。
アヤメの目が、わずかに迷う。
「わたしは」
彼女の声が低く落ちた。
「誰を、守る役でしたか」
廊下にいた者たちの表情が変わった。
カンナが口元を押さえる。
御簾守が白紐を取り落としそうになる。
イロハは道具袋を握った。
アヤメが揺らぐのは、危険だ。
彼女は白影宮で、サヨのそばを守る柱のひとつだ。もしその役が薄れれば、夜の箱の前でサヨを守る者がいなくなる。
だが、サヨは慌てなかった。
彼女はアヤメの前へ立った。
「アヤメ」
その声は、とても静かだった。
「あなたは、わたしを守る役ではありません」
アヤメの目が揺れた。
周囲が息を呑む。
イロハも、思わずサヨを見る。
守る役ではない?
アヤメの顔に、痛みが走った。
「では、わたしは」
「あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です」
白影宮の空気が、深く震えた。
アヤメは動かなかった。
だが、その目に焦点が戻っていく。
「サヨ様……」
「あなたは、わたしの前に立つ刀ではありません。わたしの隣に立ち、ここにいることを誰よりも疑わなかった人です」
サヨは、アヤメの手にそっと触れた。
「だから、わたしはあなたを覚えています」
アヤメの指が、刀の柄からゆっくり離れた。
彼女は深く息を吸った。
「……失礼いたしました」
その声は、まだわずかに震えていた。
サヨは首を振る。
「戻ってきてくれて、よかった」
アヤメは唇を引き結んだ。
泣きそうになったわけではない。
けれど、その顔には、これまで見せなかった弱さが一瞬だけ浮かんでいた。
イロハは、何も言わなかった。
言葉を挟むべき場面ではなかった。
ただ、サヨの言葉を胸の奥で反芻する。
守る役ではない。
ここにいてよいと証明する役。
役とは、肩書きだけではない。
帳に書かれた職分だけでもない。
誰かとの関係の中で生まれる役もある。
それを、サヨは知っている。
自分の役を言えないのに、他者の役の本質を呼ぶことができる。
それは、あまりにも切ない力だった。
その時、奥の間から、かたり、と音がした。
全員が振り返る。
空の面箱だ。
黒布を掛けず、蓋を開けたままにしてある、あの箱。
夕暮れの光が薄れ、夜の最初の影が白影宮へ入ってきた、その瞬間。
箱の中の月が、目を開けた。
まだ空には、月は見えていない。
けれど、奥の間から白い光が漏れた。
女房たちがざわめく。
アヤメが刀を引き寄せる。
今度は迷わない。
サヨの言葉によって、彼女の役は戻っている。
イロハは道具袋を肩に掛けた。
「始まりました」
声が、自分でも思ったより落ち着いていた。
サヨは奥の間を見つめる。
その顔に恐怖はある。
けれど、逃げる気配はなかった。
「行きましょう」
サヨが言った。
誰も、彼女自身の役を言えない。
サヨ本人も言えない。
それでも彼女は、喰われかけた者たちの役を胸に抱えて、空の面箱へ向かって歩き出した。
白影宮の夜支度は、終わらなかった。
むしろ、本当の夜は、そこから始まった。




